新・あの日あの時〔16〕

―――――――
マンデラの願い
―――――――
 東京・赤坂のオフィス街。
 貿易振興をテーマにしたビジネスセミナーが終わり、受講していた創価大学の教員が、仲間と連れ立ってカフェに入った。
 1998年(平成10年)の春。日本は金融不安の渦中にあり、国際的な信用も失墜気味である。
 それでも、そのカフェが活気づいたのは、南アフリカの事情にくわしい企業人が、創大の教員に、ひとつの秘話を明かしたからである。
 13年前の夏、南ア大統領のネルソン・マンデラが日本に来た。アフリカ民族会議(ANC)の副議長として90年に初めて日本の土を踏んで以来、3度目である。
 マンデラには、どうしても会いたい日本人がいる。だがスケジュール表のどこにも、空きがない。
 日本側の関係者も口々に言う。今回は国賓としての来日である。民間人との会見は無理だ。滞在期間も短い……。
 それでもマンデラは納得しない。27年半、約1万日の投獄にも屈しなかった男だ。アパルトヘイト(人種隔離政策)の分厚い壁にくらべたら大した障壁ではない。
 「こっちの持ち時間なら構わないだろう?」。南ア大使館主催のレセプションを欠席することに決めた。
 これには、さすがの日本側も折れた。95年7月5日、迎賓館で会見が実現した ── 。
 話し終えた企業人が、飲みかけのコーヒーカップをテーブルに置き、創価大学の教員を見た。
 「その民間人というのはね。おたくの創立者だよ。池田会長。まったく凄い人だ」
 
―――――――――
カイカン・ソング
―――――――――
 大西洋に面した、西アフリカのガーナ。
 
 ♪ ブロックを一つ、もう一つ
   シャベルが一本、また一本……

 工事現場から、太鼓のリズムに合わせて「カイカン(会館)・ソング」が聞こえる。
 79年(昭和54年)、首都アクラではガーナ会館が建設中だった。「カイカン・ソング」のビートに乗って杭を打ち込む。セメント入りのバケツを頭に乗せて、ステップを踏む。
 メンバーは赤土の道を歩いたり、トロトロと呼ばれる小型バスに乗って工事現場までやって来る。
 露天商やパイナップル農園の労働者もいれば、主婦、政府高官までいる。それぞれシャベルやハンマーなどの工貝を持参。自分たちの手で会館を完成させたい。思いはひとつだった。
 ある日、メンバーのもとにプレゼントが届けられた。映写機と映画「人間革命」のフィルム。池田大作SGI(創価学会インタナショナル)会長からである。
 狭い部屋に肩を寄せ合い、即席の上映会を開いた。
 日本の創価学会の歴史を知って驚いた。もともと学会は、満足な会館ひとつないところから開拓していったのか……。
 できうる限り、立派な会館にしたかった。針金やガラスを調達するため、町中の店を当たり尽くした。
 ドアノブはナイジェリア、鍵はトーゴまで足を運んだ。
 起工から足かけ7年。経済の混乱による中断を幾度も乗り越え、アフリカ初のガーナ会館が完成した。

――――――――
ガーナの英雄
――――――――
 ガーナ共和国の大統領ジェリー・ローングスが、2メートルはあろうかという堂々たる体躯を演壇に運んだ。
 97年(平成9年)12月1日、信濃町の聖教新聞社で、創価大学名誉博士号の授与式が行われた。
 厚い胸板に、隆々と盛り上がった肩、大きな手。ガウンのような民族衣装が似合う。ガーナの議場で、その野太い声を響かせて腐敗を一掃。伝説の英雄「ロビンフッド」にも譬えられる。
 授与式のスピーチが進むにつれて、口調が激しくなってきた。
 アフリカの民は貧困と対立に喘いでいるのに、先進国は何をしているのか!
 同席者たちが、ハラハラし始めた。
 軍人出身。激しやすい。怒りを隠そうとしない。一度、火がつくと、もう誰にも止められない。
 スピーチが終わった。と同時に池田SGI会長が立ち上がった。
 大統領の肩をポンと叩く。
 「ならば、一緒に戦いましょう! 徹底して話し合いましょう!」
 1時間後。会見から戻った大統領は、にっこり上機嫌である。
 あの「怒りのローリングス」を一変させるとは。
 随行していた外交関係者が一驚(いっきょう)した。
 
―――――――――
アフリカの総意
―――――――――
 聖教新聞社の1階ロビーにナイジェリアのドゴン=ヤロ駐日大使が入ってきた。
 母国の伝統的衣装と帽子を身につけている。真っ白い服が、精悍な黒い肌を引き立てていた。
 夢だった池田SGI会長との会見が実現したのは、1988年(昭和63年)4月26日だった。
 対談中、うれしい言葉があった。
 「貴国は、アフリカでも格段に多くの大学を持つ教育大国ですね」とSGI会長。ナイジェリアの経済力に注目する人は多い。だが、教育に目を向けた人は初めてだった。
 「ピカソもアフリカ美術に強い影響を受けました。ジャズなど多くの音楽の淵源もアフリカです」
 数多くのリーダーと会ってきたが、これほどアフリカに敬意を払ってくれた人は見たことがない。
 「池田会長は、ジャイアント(巨人)だ!」

 91年(平成3年)秋。
 在東京アフリカ大使館の定例会が行われていた。
 東京に大使館を置く26ヵ国の代表が一堂に会している。
 ナイジェリアのドゴン=ヤロが発言を求めた。
 「アフリカの総意として、SGIの池田会長に賞を贈りたい」
 「おー、ミスター・イケダ!」「あの方か!」
 大使たちの記憶がよみがえってきた ── 。前年の10月31日、彼らは在京アフリカ大使館主催のレセプションに出席していた。
 折から来日していたアフリカ民族会議副議長のネルソン・マンデラがスピーチに立ったのである。
 「きょうは、ある方とお会いした。日本を代表する仏教団体のリーダーだ。青年の大歓迎にも、とても感動した。うれしかった」
 マンデラの発言が、大使たちの脳裏に残っていた。むろん、アフリカに対するSGI会長の提言や行動もよく知られている。
 ドゴン=ヤロの提案は全会一致で採択され、SGI会長に「教育・文化・人道貢献賞」が贈られることが決まった。
 授賞式は91年11月29日。
 在東京アフリガ外交団として、SGI会長のもとにずらりと勢ぞろいした。
 日本の一民間人のためにアフリカが一つになる。異例のことだった。

 その直後のことである。
 いつものように朝、英字新聞を開いたドゴン=ヤロが破顔した。
 なに、宗門が学会を破門した?
 正義の人が、時代遅れの聖職者たちに妬まれる。古今の歴史が物語っている真実じゃないか。
 やっぱり会長はジャイアントだ!
 
―――――――
月桂冠を君に
―――――――
 2001年(平成13年)8月16日。創価大学のアフリカ訪問団が、ケニアの首都ナイロビにあるセント・ジョージ小学校を視察した。
 男の子が駆け寄ってきた。
 「きょうはイケダセンセイも来てるの?」
 この場には創立者が来ていないことを伝えると、少し残念そうな顔になったが、こんなメッセージを託された。
 「そうなんだ。僕たち、センセイに会えるのをずっと楽しみにしでるの。センセイに会ったら、そう伝えてね!」
 続いて開かれた交歓会。
 一人の少女がすっと立ち上がり、朗々と詩をそらんじていく。身ぶり、手ぶりを交え、豊かな情感を表現する。
 現地通訳が教えてくれた。
 「創立者の詩です。桂冠詩人でいらっしゃいますね」
 一行は再び目を丸くした。
 少女の父親は、ナイロビ大学の教授ヘンリー・インダンガシ。
 ケニア作家協会の会長。口承(こうしょう)文学協会の会長などを務めた。SGI会長とも対談を重ね、交換教員として創大に滞在した経験もある。
 インダンガシ家では毎晩のように、娘へSGI会長の詩を読み聞かせてきた。この小学校で教員をする妻も、会長の詩を教材にしている。

 八王子の東京牧口記念会館。SGIの春季研修に参加しているメンバーの前で、池田SGI会長がマイクを握った。2004年(平成16年)3月のことである。
 「ご苦労さまです。一番、遠くから来た人は?」
 コフィ・コアメ・レミと、ズーズー・コアシ・ポールが手を挙げた。
 はるか西アフリカのコートジボワールから、3カ月分の給料を旅費に充てて、日本まで来た。かつて象牙海岸と呼ばれた地である。
 壇上からSGI会長が手招きした。「遠い所から、よく来たね!」
 青年部のコフィの頭に「月桂冠」を載せた。勝者の証(あか)しである。二人の肩に腕をかけ、ぐっと引き寄せる。「福運だよ! 勇気だよ! 忍耐だよ!」
 帰国後、コフィは300カ所の会合を猛然と回り、1万人以上のメンバーに、その感動を伝えた。
 アフリカ人の心に勇気と希望を贈ってくれた人は誰か。
 アフリカ人の未来のために、祈り、行動してきた人は誰か。
  ── アフリカの庶民は、誰よりもよく知っている。