新・あの日あの時〔15〕―――――――――
◆ 三代会長と川越
―――――――――
「この戸田の名代(みょうだい)として、毅然と行ってきなさい!」
師の厳命によって、青年部の池田大作班長が、埼玉・川越の御書講義に討って出たのは
1951年(昭和26年)の秋である。
戸田城聖第2代会長の事業を一身に支える苦闘の真っ只中だった。池袋駅から東武東上
線(とうぶとうじょうせん)で約45分。発車ベルの鳴る電車に、飛び乗ることもあった。
成増(なります)駅を過ぎると埼玉に入る。大和町(現在の和光{わこう}市)、朝霞
(あさか)、志木(しき)、鶴瀬(つるせ)、上福岡(かみふくおか)、新河岸(しんが
し) ── 。
やがて埼玉が大発展する日を祈りに祈りながら、電車に揺られた。
53年2月10日の日記。
「埼玉、川越(かわごえ)地区に講義。 ── 『佐渡御書』。受講者、約五十名。次第
に、人材、人物が、輩出して来た様子」
その5日後の2月15日。
川越会館(当時)で志木支部の総会があり、戸田会長が出席した。
さすがは大作だ! よくぞ埼玉を育ててくれた!
総会は大成功に。この日、戸田会長は川越にある旅館 「佐久間(さくま)」に投宿し
た。
◇
この旅館「佐久間」には牧口常三郎初代会長も泊まっている。
1907年(明治40年)10月、川越中学(当時)で講演するために滞在した。
女性教育に力を入れていた牧口会長は、3日間にわたり、学資がなくても学べる女性の
ための「教習所」の実現を市民に呼びかけている。
「佐久間」の創業は1894年(明治27年)。皇族や文豪の常宿(じょうやど)として
愛されてきた。島崎藤村も、ここで小説『夜明け前』を執筆した。
そんな名だたる賓客(ひんきゃく)をもてなしてきた「佐久間」だが、戸田会長を迎え
た日のことは、いまだに語り草になっている。2代目の女将・佐久間スミが「すごい方が
来られた!」と家族に熱っぽい口調で語っている。
その人柄に魅了され、わざわざ信濃町の学会本部まで、旅館の将来などを相談しにきた
ほどである。
3代目社長の佐久間勇次(ゆうじ)。
「歴代の会長が市民のために足を運ばれた川越です。学会の川越文化会館も素晴らしい。
新しい名所ができたような思いです」
――――――――――
◆ 香峯子夫人と共に
――――――――――
明治時代、埼玉の川越で女性の幸福を願った牧口会長。
名誉会長の香峯子夫人は、その牧口会長が出席した座談会に参加した経験をもつ。香峯
子夫人もまた折にふれて埼玉の女性を勇気づけてきた。
82年(昭和57年)8月、長野県。
関東から参加したメンバーの研修が終わり、香峯子夫人が、ねぎらいの声をかけた。め
ざとく関東女子部長だった栗和田薫(くりわだかおる)を見つけた。
「親孝行してくださいね。あなたがリーダーとして戦われていること自体が、立派な親
孝行ですから」
栗和田は、これまで胸の内にしまってきた思いを語り出した。
母と姉妹4人で信心を貫いてきたこと。第3代会長の辞任を知った時の悔しさ。病弱だ
った母が、聖教新聞の配達をしながら、100世帯を超える弘教を成し遂げたこと………
…。
香峯子夫人は静かに、すべてを聞いてくれた。
「お母様を大切にしてくださいね」
翌日、栗和田の母に名誉会長から一首の和歌が届く。
「埼玉の 陰(かげ)の陰なる母ありぬ その名忘れじ その名薫れと」
池田名誉会長が、全埼玉の婦人部、女子部に贈る思いで詠んだ歌であった。
◇
89年3月12日、埼玉婦人部の代表が、香峯子夫人と懇談していた。
「どうしても関西を超える戦いをしたいんです!」
夫人は少し困ったように微笑んだ。
「関西は主人がつくった組織ですから……。皆さんらしく戦うことが重要ではないでし
ょうか」
その年の10月。
関西入りした池田名誉会長は、京都の会合に出席した。
「“大変な時こそ、まかせてください。関西は何倍もやりまっせ”との心意気。それが
『関西魂』の素晴らしさである」と讃えた。
続いて、埼玉に刻まれた史実を通してスピーチした。
── 埼玉の行田(ぎょうだ)市に、忍城(おしじょう)という美しい城がある。戦国
時代、城主と軍兵が出陣した隙に2万もの豊臣勢が押しよせた。城には年配者と女性しか
いない。絶体絶命である。
しかし城主の妻が、わずか300の兵と立ち上がる。城を落としてなるものか。妻みず
から泥にまみれて堀を掘り、ついには豊臣勢を圧倒した逸話を通じた指導だった。
埼玉は、埼玉らしく!
不朽不滅の歴史を築け!
名誉会長夫妻は、常勝関西の地にあっても常勝埼玉にエールを送ったのである。
――――――――
◆ 川口で文化祭
――――――――
1985年(昭和60年)9月29日午後、池田名誉会長が川口市立芝スポーツセンター
に到着した。埼玉青年平和文化祭に出席するためである。
名誉会長は体調をくずしていた。それでも来賓の到着を知ると、畳をバンと叩き、勢い
よく立ち上がった。
文化祭が幕を開けた。
東京の北区、足立区に隣接する川口市の名物「キューポラ」(鋳物工場の溶銑炉{よう
せんろ})の火をイメージしたダンスが始まった。
青年たちが、炎暑のなかで練習を重ねた演技が続く。
名誉会長は、拍手を送り続けながら、来賓に声をかけ、飲み物にも気を配った。
終了後の懇談会では、川口の同志の近況に耳を傾けた。
奮起した川口は、埼玉屈指の組織に発展。3年後、待望の川口文化会館が落成した。
――――――――――
◆ テレビ埼玉の社長
――――――――――
埼玉西武ライオンズ。
浦和レッズ。
大宮アルディージャ。
埼玉のスポーツファンは、ホームチームの試合を中継する「テレビ埼玉」を愛してやま
ない。
社長の岩崎勝義(いわさきかつよし)。創価学会に興味を抱いたのは「人間教育実践報
告大会」に招かれてからである。
埼玉県深谷(ふかや)市で行われた。胸を打つエピソードに涙があふれた。
テレビマンとして、この団体の本質に迫ろうと、特別番組を手がけてきた。
切り口は豊富にある。
まず「母」という角度。
名誉会長の長編詩をモチーフにした「母に贈る歌」。2000年(平成12年)から3年
にわたり「母の日」に放映した。
中国という側面も、見逃せない。
02年は日中国交正常化から30周年の節目だった。「世代から世代へ伝える“金の橋
”」を制作。中国ロケも敢行し、名誉会長の足跡、功績も取材できた。
文化交流。
06年5月、「大ナポレオン展」が埼玉で開幕されることを知り、特番を組んだ。子孫
であるナポレオン公と名誉会長の会見映像も流した。
「番組をつくる以上、池田先生、学会のことも徹底的に調べさせていただきました」
現場のプロデューサーやディレクターはもちろん、営業部門も巻き込んだ。
「未来を築く教育や、郷土を守る農村にも光を当てている。池田先生は大変に素晴らし
い」
――――――――
◆ 笑顔で進め!
――――――――
85年(昭和60年)の師走。
第3埼玉県(当時)の代表が聖教新聞社の前で名誉会長に出会った。
「どこから来たの?」
平川良子(ひらかわよしこ)たちが答える。
「第3埼玉です!」
具体的な地名がイメージできないせいか、少し首を傾げた名誉会長。
「中心は、どこ?」
圏婦人部長が次々と声をあげる。
「春日部(かすかべ)です!」「越谷(こしがや)です!」「三郷(みさと)です!」
「久喜(くき)です!」「羽生(はにゅう)です!」「熊谷(くまがや)です!」
それぞれの地域名を聞き、「分かった。本当にご苦労様! またね」。心から、ねぎら
ってくれた。
埼玉の東部から北部に広がる地域である。県民の間でも知名度が高いとはいえない。
“勝つことだ。見事な勝ち名乗りを上げて、先生に知っていただくしかない”
ことあるごとに活動の結果を報告し、86年11月24日、その夢が三郷で実現した。
この日、名誉会長は三郷文化会館を初訪問。三郷市、八潮(やしお)市をはじめ第3埼
玉の代表らが集(つど)った。
懇談の際、こんな場面もあった。
三郷婦人部の岩田栄子(えいこ)が悩みを打ち明けた。長男の下肢がマヒしていた。そ
の息子を抱きかかえ、婦人部本部長として活動してきた。
池田名誉会長の指導は明快だった。
「信心は明るくするものだ。感傷に涙する婦人部ではいけないよ』
その確信に圧倒される。
「太陽のごとく! 明るく前を向いて生きなさい。それが仏法だ」
その夜、和歌が届く。
「香(かぐわ)しき 秋の実りにつつまれし 笑顔と笑顔の 三郷城(みさとじょう)
かな」
笑顔で進め! 新たな指針を胸に進む三郷には、勝利の城がそびえる。
岩田の長男も、三郷圏の男子部主任部長になった。
―――――――――
◆ 師弟の埼玉たれ
―――――――――
2000年(平成12年)9月に行われた埼玉の記念大会。名誉会長はメッセージを寄せ、
呼びかけた。
「全員が、師子王となって、戦い、走れ! 勝ち抜け! これが日蓮仏法の真髄であり、
創価学会の魂であるからだ。埼玉よ、世界一の埼玉として、永遠に、その名を残せ!」
「私は、埼玉の大勝利を待っている。夢に見た埼玉の大勝利を待っている」
埼玉は立ち上がった。
機関紙誌の拡大、記念展示等の参加人数も常にトップに立つ。
いざ戦いとなれば、東京、神奈川、関西も押し上げる「関東の要(かなめ)」である。
後継の陣列も整った。
08年9月には、3万6000人の広宣流布の闘士が、さいたま市のさいたまスーパー
アリーナに堂々と集結。
その波動は、来賓として参加したブラジル青年部の代表の心も動かす。本年5月、ブラ
ジルの地でも2万人の文化総会が行われた。
◇
07年5月8日、埼玉池田研修道場で、名誉会長は新たな指針を示した。
「師弟の埼玉になりなさい。創価の三代は自分を捨てて、会員を守ってきた。その心が
異体同心につながる。勝って、また会おう!」
「関東の師子王」埼玉が新時代を勝ち開く。
◆ 三代会長と川越
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「この戸田の名代(みょうだい)として、毅然と行ってきなさい!」
師の厳命によって、青年部の池田大作班長が、埼玉・川越の御書講義に討って出たのは
1951年(昭和26年)の秋である。
戸田城聖第2代会長の事業を一身に支える苦闘の真っ只中だった。池袋駅から東武東上
線(とうぶとうじょうせん)で約45分。発車ベルの鳴る電車に、飛び乗ることもあった。
成増(なります)駅を過ぎると埼玉に入る。大和町(現在の和光{わこう}市)、朝霞
(あさか)、志木(しき)、鶴瀬(つるせ)、上福岡(かみふくおか)、新河岸(しんが
し) ── 。
やがて埼玉が大発展する日を祈りに祈りながら、電車に揺られた。
53年2月10日の日記。
「埼玉、川越(かわごえ)地区に講義。 ── 『佐渡御書』。受講者、約五十名。次第
に、人材、人物が、輩出して来た様子」
その5日後の2月15日。
川越会館(当時)で志木支部の総会があり、戸田会長が出席した。
さすがは大作だ! よくぞ埼玉を育ててくれた!
総会は大成功に。この日、戸田会長は川越にある旅館 「佐久間(さくま)」に投宿し
た。
◇
この旅館「佐久間」には牧口常三郎初代会長も泊まっている。
1907年(明治40年)10月、川越中学(当時)で講演するために滞在した。
女性教育に力を入れていた牧口会長は、3日間にわたり、学資がなくても学べる女性の
ための「教習所」の実現を市民に呼びかけている。
「佐久間」の創業は1894年(明治27年)。皇族や文豪の常宿(じょうやど)として
愛されてきた。島崎藤村も、ここで小説『夜明け前』を執筆した。
そんな名だたる賓客(ひんきゃく)をもてなしてきた「佐久間」だが、戸田会長を迎え
た日のことは、いまだに語り草になっている。2代目の女将・佐久間スミが「すごい方が
来られた!」と家族に熱っぽい口調で語っている。
その人柄に魅了され、わざわざ信濃町の学会本部まで、旅館の将来などを相談しにきた
ほどである。
3代目社長の佐久間勇次(ゆうじ)。
「歴代の会長が市民のために足を運ばれた川越です。学会の川越文化会館も素晴らしい。
新しい名所ができたような思いです」
――――――――――
◆ 香峯子夫人と共に
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明治時代、埼玉の川越で女性の幸福を願った牧口会長。
名誉会長の香峯子夫人は、その牧口会長が出席した座談会に参加した経験をもつ。香峯
子夫人もまた折にふれて埼玉の女性を勇気づけてきた。
82年(昭和57年)8月、長野県。
関東から参加したメンバーの研修が終わり、香峯子夫人が、ねぎらいの声をかけた。め
ざとく関東女子部長だった栗和田薫(くりわだかおる)を見つけた。
「親孝行してくださいね。あなたがリーダーとして戦われていること自体が、立派な親
孝行ですから」
栗和田は、これまで胸の内にしまってきた思いを語り出した。
母と姉妹4人で信心を貫いてきたこと。第3代会長の辞任を知った時の悔しさ。病弱だ
った母が、聖教新聞の配達をしながら、100世帯を超える弘教を成し遂げたこと………
…。
香峯子夫人は静かに、すべてを聞いてくれた。
「お母様を大切にしてくださいね」
翌日、栗和田の母に名誉会長から一首の和歌が届く。
「埼玉の 陰(かげ)の陰なる母ありぬ その名忘れじ その名薫れと」
池田名誉会長が、全埼玉の婦人部、女子部に贈る思いで詠んだ歌であった。
◇
89年3月12日、埼玉婦人部の代表が、香峯子夫人と懇談していた。
「どうしても関西を超える戦いをしたいんです!」
夫人は少し困ったように微笑んだ。
「関西は主人がつくった組織ですから……。皆さんらしく戦うことが重要ではないでし
ょうか」
その年の10月。
関西入りした池田名誉会長は、京都の会合に出席した。
「“大変な時こそ、まかせてください。関西は何倍もやりまっせ”との心意気。それが
『関西魂』の素晴らしさである」と讃えた。
続いて、埼玉に刻まれた史実を通してスピーチした。
── 埼玉の行田(ぎょうだ)市に、忍城(おしじょう)という美しい城がある。戦国
時代、城主と軍兵が出陣した隙に2万もの豊臣勢が押しよせた。城には年配者と女性しか
いない。絶体絶命である。
しかし城主の妻が、わずか300の兵と立ち上がる。城を落としてなるものか。妻みず
から泥にまみれて堀を掘り、ついには豊臣勢を圧倒した逸話を通じた指導だった。
埼玉は、埼玉らしく!
不朽不滅の歴史を築け!
名誉会長夫妻は、常勝関西の地にあっても常勝埼玉にエールを送ったのである。
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◆ 川口で文化祭
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1985年(昭和60年)9月29日午後、池田名誉会長が川口市立芝スポーツセンター
に到着した。埼玉青年平和文化祭に出席するためである。
名誉会長は体調をくずしていた。それでも来賓の到着を知ると、畳をバンと叩き、勢い
よく立ち上がった。
文化祭が幕を開けた。
東京の北区、足立区に隣接する川口市の名物「キューポラ」(鋳物工場の溶銑炉{よう
せんろ})の火をイメージしたダンスが始まった。
青年たちが、炎暑のなかで練習を重ねた演技が続く。
名誉会長は、拍手を送り続けながら、来賓に声をかけ、飲み物にも気を配った。
終了後の懇談会では、川口の同志の近況に耳を傾けた。
奮起した川口は、埼玉屈指の組織に発展。3年後、待望の川口文化会館が落成した。
――――――――――
◆ テレビ埼玉の社長
――――――――――
埼玉西武ライオンズ。
浦和レッズ。
大宮アルディージャ。
埼玉のスポーツファンは、ホームチームの試合を中継する「テレビ埼玉」を愛してやま
ない。
社長の岩崎勝義(いわさきかつよし)。創価学会に興味を抱いたのは「人間教育実践報
告大会」に招かれてからである。
埼玉県深谷(ふかや)市で行われた。胸を打つエピソードに涙があふれた。
テレビマンとして、この団体の本質に迫ろうと、特別番組を手がけてきた。
切り口は豊富にある。
まず「母」という角度。
名誉会長の長編詩をモチーフにした「母に贈る歌」。2000年(平成12年)から3年
にわたり「母の日」に放映した。
中国という側面も、見逃せない。
02年は日中国交正常化から30周年の節目だった。「世代から世代へ伝える“金の橋
”」を制作。中国ロケも敢行し、名誉会長の足跡、功績も取材できた。
文化交流。
06年5月、「大ナポレオン展」が埼玉で開幕されることを知り、特番を組んだ。子孫
であるナポレオン公と名誉会長の会見映像も流した。
「番組をつくる以上、池田先生、学会のことも徹底的に調べさせていただきました」
現場のプロデューサーやディレクターはもちろん、営業部門も巻き込んだ。
「未来を築く教育や、郷土を守る農村にも光を当てている。池田先生は大変に素晴らし
い」
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◆ 笑顔で進め!
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85年(昭和60年)の師走。
第3埼玉県(当時)の代表が聖教新聞社の前で名誉会長に出会った。
「どこから来たの?」
平川良子(ひらかわよしこ)たちが答える。
「第3埼玉です!」
具体的な地名がイメージできないせいか、少し首を傾げた名誉会長。
「中心は、どこ?」
圏婦人部長が次々と声をあげる。
「春日部(かすかべ)です!」「越谷(こしがや)です!」「三郷(みさと)です!」
「久喜(くき)です!」「羽生(はにゅう)です!」「熊谷(くまがや)です!」
それぞれの地域名を聞き、「分かった。本当にご苦労様! またね」。心から、ねぎら
ってくれた。
埼玉の東部から北部に広がる地域である。県民の間でも知名度が高いとはいえない。
“勝つことだ。見事な勝ち名乗りを上げて、先生に知っていただくしかない”
ことあるごとに活動の結果を報告し、86年11月24日、その夢が三郷で実現した。
この日、名誉会長は三郷文化会館を初訪問。三郷市、八潮(やしお)市をはじめ第3埼
玉の代表らが集(つど)った。
懇談の際、こんな場面もあった。
三郷婦人部の岩田栄子(えいこ)が悩みを打ち明けた。長男の下肢がマヒしていた。そ
の息子を抱きかかえ、婦人部本部長として活動してきた。
池田名誉会長の指導は明快だった。
「信心は明るくするものだ。感傷に涙する婦人部ではいけないよ』
その確信に圧倒される。
「太陽のごとく! 明るく前を向いて生きなさい。それが仏法だ」
その夜、和歌が届く。
「香(かぐわ)しき 秋の実りにつつまれし 笑顔と笑顔の 三郷城(みさとじょう)
かな」
笑顔で進め! 新たな指針を胸に進む三郷には、勝利の城がそびえる。
岩田の長男も、三郷圏の男子部主任部長になった。
―――――――――
◆ 師弟の埼玉たれ
―――――――――
2000年(平成12年)9月に行われた埼玉の記念大会。名誉会長はメッセージを寄せ、
呼びかけた。
「全員が、師子王となって、戦い、走れ! 勝ち抜け! これが日蓮仏法の真髄であり、
創価学会の魂であるからだ。埼玉よ、世界一の埼玉として、永遠に、その名を残せ!」
「私は、埼玉の大勝利を待っている。夢に見た埼玉の大勝利を待っている」
埼玉は立ち上がった。
機関紙誌の拡大、記念展示等の参加人数も常にトップに立つ。
いざ戦いとなれば、東京、神奈川、関西も押し上げる「関東の要(かなめ)」である。
後継の陣列も整った。
08年9月には、3万6000人の広宣流布の闘士が、さいたま市のさいたまスーパー
アリーナに堂々と集結。
その波動は、来賓として参加したブラジル青年部の代表の心も動かす。本年5月、ブラ
ジルの地でも2万人の文化総会が行われた。
◇
07年5月8日、埼玉池田研修道場で、名誉会長は新たな指針を示した。
「師弟の埼玉になりなさい。創価の三代は自分を捨てて、会員を守ってきた。その心が
異体同心につながる。勝って、また会おう!」
「関東の師子王」埼玉が新時代を勝ち開く。