新・あの日あの時〔9〕
大阪事件と名古屋
「どうも地検の様子が、おかしいんですわ」 関西の幹部が、大阪から息せき切って、名古屋にいる青年部の池田大作室長のもとへ駆け付けた。1957年(昭和32年)5月11日。弁護士も一緒である。
直前の4月。参院大阪補選で、学会推薦候補が苦杯をなめた。これを機に、大阪地検は池田室長に魔手を伸ばしていた。
「虎視眈々(こしたんたん)と、室長を狙っとるんですわ」
確かな筋の情報だった。
室長は、うなずいたまま、顔色ひとつ変えない。
ただ、戸田城聖第2代会長が4月末に倒れたことが気がかりだった。
初めて本部幹部会を欠席した恩師。思わしくない体調のなか、室長の地方指導を心配していた。
「戸田先生にご心配をかけることはできない」
午後から降り始めた雨は、次第に雨脚を強めていた。
名古屋駅前の「松岡旅館」で事件の対応を協議した。話し合いは翌日にも及んだが、弁護士の口から出るのは悲観論ばかりである。
「どんな展開になろうと、私は必ず勝ってみせる!」 その場にいた木村四郎は、室長の烈々たる気迫に圧倒された。権力との闘争は、名古屋から開始された。
協議は13日未明まで続き、午前2時過ぎの急行列車「月光」で帰京する。
浜松、沼津の思い出
「大阪事件」。香峯子夫人は当時、陰で支えてくれた人たちへの感謝を、今でも忘れない。
静岡の学会員たちの志を、先日も述懐している。
それは、室長が大阪拘置所から出獄し、夫人と帰京する7月19日のことである。
「池田先生が、お元気で帰られるぞ」。文京支部の関係者から聞いた木村松江(まつえ)(同支部沼津班)は、居ても立ってもいられない。
浜松駅で待ちかまえ、室長夫妻の車両を見つけ、乗りこんできた。
昼前後の列車なので、当時の時刻表によれば、急行「雲仙」か、特急「つばめ」ということになる。
唐草(からくさ)模様の風呂敷包みを胸元にかかえ、木村松江はボックス席まで入ってきた。その結び目を解くと、ほのかに甘い香りがした。
木箱の中に25個の桃が並んでいる。
暑い季節に牢に入っていた室長。せめて甘み豊かな果実で疲れを癒やしてもらいたかった。
木村松江は沼津駅まで同乗した。同駅で降りようとすると、ホームが賑やかである。
やはり知らせを聞いた沼津班の会員が、40人ほど集まっていた。
班長の望月剛(もちづきつよし)たちである。
室長と香峯子夫人が、列車の窓を大きく持ち上げ、全開にした。
後ろから人波をかき分けるようにして、腕を伸ばす者もいた。室長は身を乗り出し、ひとりひとりの手を握った。
いかなる嵐も、室長夫妻と東海の会員の間を引き裂くことはできなかった。
家康のふるさと
愛知県の岡崎。徳川家康が幼名・竹千代として出生した地である。
名誉会長は1986年(昭和61年)6月27日、名古屋から名鉄電車に乗って、三河方面へ向かった。
藤棚(ふじだな)で知られる岡崎公園で、茶店を営む学会の婦人部員を見つけた。「おばあちゃん、いい顔しているね」。88歳。励ましの言葉を贈った。
「春夏秋冬 いつまでもお達者で」
岡崎公園の藤棚は、毎年5月3日を前に咲き誇る。岡崎の会員も、この日を目指して前進している。
三河文化会館(当時)の庭に、スイカが用意されていた。
名誉会長が自ら包丁を取って、サクサク切り分ける。地元メンバーがおいしそうにかぶりつく。
支部結成25周年の勤行会。
「家康公ゆかりの岡崎城を仰ぎながら、もう一歩深く、愛知の広布を思索したいと考えていた。それが実現でき、本当にうれしい」
岡崎の同志の名を次々に紹介し、共戦の思い出を語っていった。
会合が終わり、題目を三唱。会場には、幼子を連れた多くの母たちが駆けつけていた。
その時である。
「先生!」
呼び掛ける子どもたちのもとへ、名誉会長が歩みを運ぶ。姿勢を正すと「はじめまして。
創価学会の池田です」。
子どもたちに対して深々と腰を折った。丁寧に握手を交わす。
“創価の竹千代たちよ、未来の大将軍と育て!”
そんな思いが母たちの胸に伝わった。この岡崎から創価大学・学園への人材の流れが生まれていく。
翌日も名鉄電車で、東海市の知多(ちた)文化会館へ。
「愛知は、信長、秀吉、家康という歴史上の三大英雄を輩出した地だ。重大な意義と力を秘めた国土世間です」
東海の人材群に期待した。
富士宮焼きそば
静岡県冨士宮市の学会員、米内勝子(よないかつこ)は、大衆的な食堂を開いてきた。
「焼きそば よない」。40年ほど前にオープンしたが、当初は赤字続き。そんな店を応援してくれたのが、名誉会長である。
差し入れにするため、幾度も店の品々を買い求めてくれた。ふだん忙しくて遊んでやれない長男に話しかけ、相撲の相手までしてくれた日もあった。
彼は創価学園に進む。卒業式の謝恩会で、名誉会長は言った。
「お母さんを連れておいで」
テーブルに呼ばれた米内は、店を繁盛させ、地域に根を張っていく決意を述べた。
しかし、90年代に入り、学会の登山会が終わると、富士宮市内も客足が遠のいた。米内は閉店も考えたが、そこで踏みとどまる。
名誉会長に応援してもらった焼きそば店である。学会の旗を降ろしたくない。ダシと水にこだわった伝統の味で勝負したかった。
「富士宮焼きそば」が一大ブームを巻き起こしていくのは、その数年後である。
昔ながらの店構えで、背伸びしないでやってきたが、その雰囲気が、折からのB級グルメブームにマッチした。「よない」は一躍、名物店になった。
トンボの楽園
浜松市の飯山徳明・博代(いいやまのりあき・ひろよ)夫妻は、なかなか子宝に恵まれなかった。
結婚13年目、待望のわが子を身ごもった。しかし妊娠8カ月で、心音が消えた。
半年後の1977年(昭和52年)6月、浜松平和会館が誕生し、名誉会長を迎えた。
個人会館をしている飯山宅にも立ち寄ってくれた。
まんじゅうを一緒にほおばりながら、博代は子どもを亡くした話を切々と語った。
名誉会長は心のひだに染みいるように語ってくれた。
「大勢の同志をはじめ、出会った人たちを、自分の子どもと思って大切にしていくことだよ」
浜松市に隣接する磐田(いわた)市。
桶ケ谷沼(おけがやぬま)は珍しいベッコウトンボなどが、すいすい空を泳ぐ。“トンボの楽園”として知られていた。
しかし、その生態系にも危機が及び、なかなか保護運動も進まない。
思いがけないきっかけが訪れる。桶ケ谷沼の美しい自然を知った名誉会長が、ふと口にした。
「一度、そこに行ってみたい。写真に撮りたいものだ」
1985年(昭和60年)のことである。
それを伝え聞いたのが、浜松の飯山徳明たちだった。
広く地元地域に呼び掛け、学会が沼の保護に立ち上がった。住民と一体になった保護運動が巻き起こる。壮年・婦人部は「トンボ合唱団」を結成したほどである。
保護運動は大きなうねりとなり、91年、県の自然環境保全地域に指定された。
2001年1月に、磐田市で「自然との対話」写真展が開幕。
会場で、鈴木望(のぞむ)市長(当時)は語った。
「池田先生に、いつ来ていただいてもいいように、この沼を守ります」
三重県の四日市。
四大公害病のひとつ、四日市ぜんそくに悩まされた地に、名誉会長が足を運んだのは、1964年(昭和39年)12月である。
公害病に認定される前年だった。煤煙(ばいえん)だらけの街である。正直なところ、心からの郷土愛など持てない。これが本音だった。
しかし、四日市会館(当時)で名誉会長は語った。窓の外には、コンビナートの煙突が炎を吹いていた。
「信心があるじゃないか。私たちの信心で、素晴らしい街にしていくんだ」
後日、代表に根本の指針を打ち込んだ。
「法華経に勝る兵法なし」 国土の宿命を変えるのも、すべて信心の戦いである!
天下分け目の戦い
1969年(昭和44年)11月、岐阜羽島(ぎふはしま)の駅を降りた名誉会長は、関ケ原の古戦場を視察した。
合戦跡(かっせんあと)を見つめ、東西の布陣の説明に耳をかたむける。天下分け目の決戦。勝敗を決めるのは何か。
「布陣は西軍のほうがいい。しかし、団結がなかった。結局は攻め込んでいったほうが強い」
攻め込んだのは三河武士(みかわぶし)。東海一の最強を誇った。東海が勝ったから家康は天下を制した。
全軍の勝利を決する先陣に立つ。
東海勢(ぜい)の使命である。
大阪事件と名古屋
「どうも地検の様子が、おかしいんですわ」 関西の幹部が、大阪から息せき切って、名古屋にいる青年部の池田大作室長のもとへ駆け付けた。1957年(昭和32年)5月11日。弁護士も一緒である。
直前の4月。参院大阪補選で、学会推薦候補が苦杯をなめた。これを機に、大阪地検は池田室長に魔手を伸ばしていた。
「虎視眈々(こしたんたん)と、室長を狙っとるんですわ」
確かな筋の情報だった。
室長は、うなずいたまま、顔色ひとつ変えない。
ただ、戸田城聖第2代会長が4月末に倒れたことが気がかりだった。
初めて本部幹部会を欠席した恩師。思わしくない体調のなか、室長の地方指導を心配していた。
「戸田先生にご心配をかけることはできない」
午後から降り始めた雨は、次第に雨脚を強めていた。
名古屋駅前の「松岡旅館」で事件の対応を協議した。話し合いは翌日にも及んだが、弁護士の口から出るのは悲観論ばかりである。
「どんな展開になろうと、私は必ず勝ってみせる!」 その場にいた木村四郎は、室長の烈々たる気迫に圧倒された。権力との闘争は、名古屋から開始された。
協議は13日未明まで続き、午前2時過ぎの急行列車「月光」で帰京する。
浜松、沼津の思い出
「大阪事件」。香峯子夫人は当時、陰で支えてくれた人たちへの感謝を、今でも忘れない。
静岡の学会員たちの志を、先日も述懐している。
それは、室長が大阪拘置所から出獄し、夫人と帰京する7月19日のことである。
「池田先生が、お元気で帰られるぞ」。文京支部の関係者から聞いた木村松江(まつえ)(同支部沼津班)は、居ても立ってもいられない。
浜松駅で待ちかまえ、室長夫妻の車両を見つけ、乗りこんできた。
昼前後の列車なので、当時の時刻表によれば、急行「雲仙」か、特急「つばめ」ということになる。
唐草(からくさ)模様の風呂敷包みを胸元にかかえ、木村松江はボックス席まで入ってきた。その結び目を解くと、ほのかに甘い香りがした。
木箱の中に25個の桃が並んでいる。
暑い季節に牢に入っていた室長。せめて甘み豊かな果実で疲れを癒やしてもらいたかった。
木村松江は沼津駅まで同乗した。同駅で降りようとすると、ホームが賑やかである。
やはり知らせを聞いた沼津班の会員が、40人ほど集まっていた。
班長の望月剛(もちづきつよし)たちである。
室長と香峯子夫人が、列車の窓を大きく持ち上げ、全開にした。
後ろから人波をかき分けるようにして、腕を伸ばす者もいた。室長は身を乗り出し、ひとりひとりの手を握った。
いかなる嵐も、室長夫妻と東海の会員の間を引き裂くことはできなかった。
家康のふるさと
愛知県の岡崎。徳川家康が幼名・竹千代として出生した地である。
名誉会長は1986年(昭和61年)6月27日、名古屋から名鉄電車に乗って、三河方面へ向かった。
藤棚(ふじだな)で知られる岡崎公園で、茶店を営む学会の婦人部員を見つけた。「おばあちゃん、いい顔しているね」。88歳。励ましの言葉を贈った。
「春夏秋冬 いつまでもお達者で」
岡崎公園の藤棚は、毎年5月3日を前に咲き誇る。岡崎の会員も、この日を目指して前進している。
三河文化会館(当時)の庭に、スイカが用意されていた。
名誉会長が自ら包丁を取って、サクサク切り分ける。地元メンバーがおいしそうにかぶりつく。
支部結成25周年の勤行会。
「家康公ゆかりの岡崎城を仰ぎながら、もう一歩深く、愛知の広布を思索したいと考えていた。それが実現でき、本当にうれしい」
岡崎の同志の名を次々に紹介し、共戦の思い出を語っていった。
会合が終わり、題目を三唱。会場には、幼子を連れた多くの母たちが駆けつけていた。
その時である。
「先生!」
呼び掛ける子どもたちのもとへ、名誉会長が歩みを運ぶ。姿勢を正すと「はじめまして。
創価学会の池田です」。
子どもたちに対して深々と腰を折った。丁寧に握手を交わす。
“創価の竹千代たちよ、未来の大将軍と育て!”
そんな思いが母たちの胸に伝わった。この岡崎から創価大学・学園への人材の流れが生まれていく。
翌日も名鉄電車で、東海市の知多(ちた)文化会館へ。
「愛知は、信長、秀吉、家康という歴史上の三大英雄を輩出した地だ。重大な意義と力を秘めた国土世間です」
東海の人材群に期待した。
富士宮焼きそば
静岡県冨士宮市の学会員、米内勝子(よないかつこ)は、大衆的な食堂を開いてきた。
「焼きそば よない」。40年ほど前にオープンしたが、当初は赤字続き。そんな店を応援してくれたのが、名誉会長である。
差し入れにするため、幾度も店の品々を買い求めてくれた。ふだん忙しくて遊んでやれない長男に話しかけ、相撲の相手までしてくれた日もあった。
彼は創価学園に進む。卒業式の謝恩会で、名誉会長は言った。
「お母さんを連れておいで」
テーブルに呼ばれた米内は、店を繁盛させ、地域に根を張っていく決意を述べた。
しかし、90年代に入り、学会の登山会が終わると、富士宮市内も客足が遠のいた。米内は閉店も考えたが、そこで踏みとどまる。
名誉会長に応援してもらった焼きそば店である。学会の旗を降ろしたくない。ダシと水にこだわった伝統の味で勝負したかった。
「富士宮焼きそば」が一大ブームを巻き起こしていくのは、その数年後である。
昔ながらの店構えで、背伸びしないでやってきたが、その雰囲気が、折からのB級グルメブームにマッチした。「よない」は一躍、名物店になった。
トンボの楽園
浜松市の飯山徳明・博代(いいやまのりあき・ひろよ)夫妻は、なかなか子宝に恵まれなかった。
結婚13年目、待望のわが子を身ごもった。しかし妊娠8カ月で、心音が消えた。
半年後の1977年(昭和52年)6月、浜松平和会館が誕生し、名誉会長を迎えた。
個人会館をしている飯山宅にも立ち寄ってくれた。
まんじゅうを一緒にほおばりながら、博代は子どもを亡くした話を切々と語った。
名誉会長は心のひだに染みいるように語ってくれた。
「大勢の同志をはじめ、出会った人たちを、自分の子どもと思って大切にしていくことだよ」
浜松市に隣接する磐田(いわた)市。
桶ケ谷沼(おけがやぬま)は珍しいベッコウトンボなどが、すいすい空を泳ぐ。“トンボの楽園”として知られていた。
しかし、その生態系にも危機が及び、なかなか保護運動も進まない。
思いがけないきっかけが訪れる。桶ケ谷沼の美しい自然を知った名誉会長が、ふと口にした。
「一度、そこに行ってみたい。写真に撮りたいものだ」
1985年(昭和60年)のことである。
それを伝え聞いたのが、浜松の飯山徳明たちだった。
広く地元地域に呼び掛け、学会が沼の保護に立ち上がった。住民と一体になった保護運動が巻き起こる。壮年・婦人部は「トンボ合唱団」を結成したほどである。
保護運動は大きなうねりとなり、91年、県の自然環境保全地域に指定された。
2001年1月に、磐田市で「自然との対話」写真展が開幕。
会場で、鈴木望(のぞむ)市長(当時)は語った。
「池田先生に、いつ来ていただいてもいいように、この沼を守ります」
三重県の四日市。
四大公害病のひとつ、四日市ぜんそくに悩まされた地に、名誉会長が足を運んだのは、1964年(昭和39年)12月である。
公害病に認定される前年だった。煤煙(ばいえん)だらけの街である。正直なところ、心からの郷土愛など持てない。これが本音だった。
しかし、四日市会館(当時)で名誉会長は語った。窓の外には、コンビナートの煙突が炎を吹いていた。
「信心があるじゃないか。私たちの信心で、素晴らしい街にしていくんだ」
後日、代表に根本の指針を打ち込んだ。
「法華経に勝る兵法なし」 国土の宿命を変えるのも、すべて信心の戦いである!
天下分け目の戦い
1969年(昭和44年)11月、岐阜羽島(ぎふはしま)の駅を降りた名誉会長は、関ケ原の古戦場を視察した。
合戦跡(かっせんあと)を見つめ、東西の布陣の説明に耳をかたむける。天下分け目の決戦。勝敗を決めるのは何か。
「布陣は西軍のほうがいい。しかし、団結がなかった。結局は攻め込んでいったほうが強い」
攻め込んだのは三河武士(みかわぶし)。東海一の最強を誇った。東海が勝ったから家康は天下を制した。
全軍の勝利を決する先陣に立つ。
東海勢(ぜい)の使命である。