新あの日あの時〔2〕
「池田先生とイタリアのフィレンツェ」
◆ 黒革のサイン帳
夜の帳(とばり)がイタリアの古都を包み、フィレンツェのレストラン「ブーカ・ラー
ピ」の窓にも、赤みがかった明かりが灯った。
1880年に創業された店。この日は、1981年5月31日で、新しい百年の節目を
迎えていた。
テーブルの間を回っていたウエーターの目が、ある席に吸い寄せられた。そこでは、東
洋の紳士を中心に歓談していた。テーブルマナー、ゲストへの気配り、人の話を聞く態度。
どれも一流である。
“ただ者ではない”。フロアの情報は逐一、スタッフに届けられる。キッチンで、名物
のリゾットを調理していたシェフの顔も引き締まった。
「シニョーーレ(お客さま)」
プレスのきいたスーツを着た支配人が近づいてきた。
「よろしければ、ぜひお名前を」。手ざわりの良い、黒革の芳名録を開く。
詩人、音楽家、画家……。
名だたる著名人のサインが記されていた。
あるページには一種、異様な筆跡。狂気の独裁で知られたドイツの政治家である。
東洋の紳士は、眉をひそめた。民衆の側に立つ人であることがうかがえた。
支配人が新しいページを開いてテーブルの上へ。
さっとペンを走らせた。
「山本伸一」
◆ 青年の都たれ!
この時、池田大作SGI会長はフィレンツェを初訪問。
ペンネームでサインし、「芸術の都」に敬意を表した。
当時、イタリアSGIの勢力は約300人。8割が青年である。
ミケランジェロ広場に行った日は、日差しが強かった。わざわざ露天で麦わら帽子を買
い求め「ありがとう。かぶりなさい」。汗にまみれた役員の青年に手渡した。
◇
アルノ川沿いのカッシーネ公園。
すたすたと足を進める。速い。若者たちは付いていくので精いっぱいである。SGI会
長が振り返った。
「悪いね。私は何でも速いんだよ」
陽気で、マイペースなイタリア人気質の青年たちは、こんなスピードで世界を駆け抜け
てきたことに、少なからぬ衝撃をおぼえた。
◇
郊外にある丘の街フィエーゾレ。フィレンツェ大学の学生と石畳の坂を歩き、カフェで
エスプレッソを傾けた。
「ダンテが『神曲』を書いたのは、このフィレンツェを追放される前だったか、後だっ
たか」
学生たちは顔を見合わせ、首を振る。過去に埋もれていたルネサンスの詩人の魂を、若
い胸中によみがえらせた。
◇
フィレンツェの会員宅。イタリアに、マリファナやコカインが広がっていることが話題
になった。深刻な社会問題だったが、それを食い止める哲学がなかった。
SGI会長は、強く言い切った。「麻薬に頼ってはいけない。仏法に現実逃避はない。
正面を向くのが仏法だ」
◇
イタリアの会員数は、92年に1万5千人、2000年に3万人になった。81年を起
点にすれば、実に20年で100倍の拡大である。
フィレンツェの青年が起爆力になった。
◆ バチカンの枢機卿
イタリアのバチカン市国は、広さ約0・44平方キロ。東京ディズニーランドより小さ
い。世界最小の主権国家だが、世界に10億人の信者をもつカトリックの総本山である。
枢機卿セルジョ・ピニェードリは、バチカンの宗教間外交を一手に担っていた。非キリ
スト教信徒事務局のトップである。
72年10月に、静岡で初めてSGI会長に会って以来、強烈な印象が消えない。
バチカン駐日大使ブルーノ・ヴュステンベルク(大司教)からも、詳細なリポートが届
いている。同大使とSGI会長は、計6度の会談を重ねてきた。
文化や教育レベルの事業に高い意識がある。異なる文明の間を対話で結ぼうとしている。
社会運動家としてみても精力的である。
“信頼できる。教皇は池田会長と会うべきだ……”
第262代ローマ教皇パウロ6世との会見が決まった。
◇
75年5月、SGIの代表がバチカンを訪れた。国際センター事務総長の原田稔、欧州
議長のエイイチ・ヤマザキ、イタリアSGIのミツヒロ・カネダの三人である。
“何かあったな……”
ピニェードリは直感した。
サン・ピエトロ大聖堂に近いローマ教皇庁舎の一室。
枢機卿の証しである緋色の法衣に身を包んで、ピニェードリは現れた。
「池田会長は、お会いできなくなりました」
原田稔の声が大理石の床に響く。
枢機卿の濃い茶色の目が、じっと見つめてくる。
「そうですか。残念です」
出会いが実現すれば、平和という宗教の根本使命を、分かち合うことができたに違いな
い。
◇
SGIの一行が再びバチカンを訪れたのは翌月である。
「教皇との会見をキャンセルしたのは、池田会長が初めてです」
枢機卿ピニェードリが微笑んだ。
ただ、なぜキャンセルせねばならなかったのか。真意が知りたい。
「理由は何ですか?」
ピニェードリの目が真っすぐに見つめている。
「……宗門です」
枢機卿が大きくうなずいた。「やはり。思った通りです」
世界宗教へ飛躍しゆく学会と閉鎖的な宗門。
その構図をバチカンは見抜いていた。
◆ 勝利を刻む広間
「この広間に、フィレンツェの勝利の歴史を描いて欲しい ── 」
宮廷画家のヴァザーリに、フィレンツェを治めるコジモ1世が命じたのは、16世紀な
かばだった。今の市庁舎(ヴェッキオ宮殿)の広間を飾る壮大な絵画である。
すでに、ダ・ヴィンチとミケランジェロの両巨匠が筆を競ったが、それぞれ未完成に終
わっていた。
しかし、周辺の勢力との戦いに勝利し、フィレンツェを芸術都市に整備したコジモ1世
は、あきらめない。
フィレンツェは勝った。この歴史を描かせ、永遠に宣言したかった。
命じられたヴァザーリは市庁舎の「五百人広間」にフレスコ画を描く。題材はピサ、シ
エナにおける攻防戦。
敵陣に攻め込む兵士。勇敢に指揮を執る馬上の将軍の姿がある。まさに「軍には大将軍
を魂とす」である。
いずれも、フィレンツェの隆盛を決定づけた「勝利」の合戦だった。
◇
この「五百人広間」に池田SGI会長が足を運んだのは、92年6月30日の夕刻であ
る。
まもなく「フィオリーノ金貨」授与式典が隣の市長室で始まる。市長ジョルジュ・モラ
リスが待っているはずだ。
左右の壁から、今にも騎馬と兵士が押しよせてきそうなヴァザーリの絵画が、SGI会
長を見つめている。
この日、フィレンツェのモラリス市長は語っている。
「他の宗教を信じる人であれ、無宗教であれ、SGI会長の精神に必ずや共鳴すると確
信します」
宗門の黒い妬みで、ローマ教皇との会見が中止になったこともあったが、ルネサンスの
都は、SGI会長を勝利の人として迎え入れた。
2007年には「五百人広間」でSGI会長に「平和の印章」が贈られている。
◆ 今日は再び来ない
天井にカンツォーネが響く。背筋をぴんと伸ばした老紳士が、ステージに拍手を送って
いる。
1992年6月28日、フィレンツェのSGIイタリア文化会館で芸術音楽祭が行われて
いた。
紳士の名はリベロ・マッツァ。元内閣官房長官である。第2次大戦中、ナチスの魔手か
ら幾多のユダヤ人を救う。フィレンツェの破壊を食い止めた英雄である。
SGIに強く惹かれていた。麻薬におぼれていた青年を次々に更生させているという。
陽気な祭典にも感嘆したが、SGI会長のスピーチにも唸った。
「悪と戦わない人は正義ではない」「生きている限り、私は戦う。行動を続ける」
マッツァの心と強く共鳴した。これまで命を狙われること34回。政界を退いてからも、
マフィアと麻薬の撲滅のため戦ってきた。
しかも、イタリア文化会館はメディチ家ゆかりの建物。国の重要文化財である。
SGI会長は、文化を護る人でもある。
◇
イタリア政府が、国家的な顕彰のために動き出した。
今こそ我らは「平和の同盟」を結ぶべきではないのか。池田会長のような世界市民を模
範として!
2006年1月30日。
東京のイタリア大使公邸で、SGI会長に「功労勲章グランデ・ウッフィチャーレ章」
が贈られた。
公邸の中庭に、大きな池をたたえた日本庭園が広がっている。
その空の向こうには、目黒駅を使って幾度も足を運んだ戸田城聖第2代会長の自宅があ
った。
若き日から、フィレンツェの詩人ダンテをめぐり、戸田会長と語り合ってきた。
「今日という日は再び来ないのだ」
『神曲』の一節を引くと、恩師は「大作、その通りだな」と微笑んだ。
「池田先生とイタリアのフィレンツェ」
◆ 黒革のサイン帳
夜の帳(とばり)がイタリアの古都を包み、フィレンツェのレストラン「ブーカ・ラー
ピ」の窓にも、赤みがかった明かりが灯った。
1880年に創業された店。この日は、1981年5月31日で、新しい百年の節目を
迎えていた。
テーブルの間を回っていたウエーターの目が、ある席に吸い寄せられた。そこでは、東
洋の紳士を中心に歓談していた。テーブルマナー、ゲストへの気配り、人の話を聞く態度。
どれも一流である。
“ただ者ではない”。フロアの情報は逐一、スタッフに届けられる。キッチンで、名物
のリゾットを調理していたシェフの顔も引き締まった。
「シニョーーレ(お客さま)」
プレスのきいたスーツを着た支配人が近づいてきた。
「よろしければ、ぜひお名前を」。手ざわりの良い、黒革の芳名録を開く。
詩人、音楽家、画家……。
名だたる著名人のサインが記されていた。
あるページには一種、異様な筆跡。狂気の独裁で知られたドイツの政治家である。
東洋の紳士は、眉をひそめた。民衆の側に立つ人であることがうかがえた。
支配人が新しいページを開いてテーブルの上へ。
さっとペンを走らせた。
「山本伸一」
◆ 青年の都たれ!
この時、池田大作SGI会長はフィレンツェを初訪問。
ペンネームでサインし、「芸術の都」に敬意を表した。
当時、イタリアSGIの勢力は約300人。8割が青年である。
ミケランジェロ広場に行った日は、日差しが強かった。わざわざ露天で麦わら帽子を買
い求め「ありがとう。かぶりなさい」。汗にまみれた役員の青年に手渡した。
◇
アルノ川沿いのカッシーネ公園。
すたすたと足を進める。速い。若者たちは付いていくので精いっぱいである。SGI会
長が振り返った。
「悪いね。私は何でも速いんだよ」
陽気で、マイペースなイタリア人気質の青年たちは、こんなスピードで世界を駆け抜け
てきたことに、少なからぬ衝撃をおぼえた。
◇
郊外にある丘の街フィエーゾレ。フィレンツェ大学の学生と石畳の坂を歩き、カフェで
エスプレッソを傾けた。
「ダンテが『神曲』を書いたのは、このフィレンツェを追放される前だったか、後だっ
たか」
学生たちは顔を見合わせ、首を振る。過去に埋もれていたルネサンスの詩人の魂を、若
い胸中によみがえらせた。
◇
フィレンツェの会員宅。イタリアに、マリファナやコカインが広がっていることが話題
になった。深刻な社会問題だったが、それを食い止める哲学がなかった。
SGI会長は、強く言い切った。「麻薬に頼ってはいけない。仏法に現実逃避はない。
正面を向くのが仏法だ」
◇
イタリアの会員数は、92年に1万5千人、2000年に3万人になった。81年を起
点にすれば、実に20年で100倍の拡大である。
フィレンツェの青年が起爆力になった。
◆ バチカンの枢機卿
イタリアのバチカン市国は、広さ約0・44平方キロ。東京ディズニーランドより小さ
い。世界最小の主権国家だが、世界に10億人の信者をもつカトリックの総本山である。
枢機卿セルジョ・ピニェードリは、バチカンの宗教間外交を一手に担っていた。非キリ
スト教信徒事務局のトップである。
72年10月に、静岡で初めてSGI会長に会って以来、強烈な印象が消えない。
バチカン駐日大使ブルーノ・ヴュステンベルク(大司教)からも、詳細なリポートが届
いている。同大使とSGI会長は、計6度の会談を重ねてきた。
文化や教育レベルの事業に高い意識がある。異なる文明の間を対話で結ぼうとしている。
社会運動家としてみても精力的である。
“信頼できる。教皇は池田会長と会うべきだ……”
第262代ローマ教皇パウロ6世との会見が決まった。
◇
75年5月、SGIの代表がバチカンを訪れた。国際センター事務総長の原田稔、欧州
議長のエイイチ・ヤマザキ、イタリアSGIのミツヒロ・カネダの三人である。
“何かあったな……”
ピニェードリは直感した。
サン・ピエトロ大聖堂に近いローマ教皇庁舎の一室。
枢機卿の証しである緋色の法衣に身を包んで、ピニェードリは現れた。
「池田会長は、お会いできなくなりました」
原田稔の声が大理石の床に響く。
枢機卿の濃い茶色の目が、じっと見つめてくる。
「そうですか。残念です」
出会いが実現すれば、平和という宗教の根本使命を、分かち合うことができたに違いな
い。
◇
SGIの一行が再びバチカンを訪れたのは翌月である。
「教皇との会見をキャンセルしたのは、池田会長が初めてです」
枢機卿ピニェードリが微笑んだ。
ただ、なぜキャンセルせねばならなかったのか。真意が知りたい。
「理由は何ですか?」
ピニェードリの目が真っすぐに見つめている。
「……宗門です」
枢機卿が大きくうなずいた。「やはり。思った通りです」
世界宗教へ飛躍しゆく学会と閉鎖的な宗門。
その構図をバチカンは見抜いていた。
◆ 勝利を刻む広間
「この広間に、フィレンツェの勝利の歴史を描いて欲しい ── 」
宮廷画家のヴァザーリに、フィレンツェを治めるコジモ1世が命じたのは、16世紀な
かばだった。今の市庁舎(ヴェッキオ宮殿)の広間を飾る壮大な絵画である。
すでに、ダ・ヴィンチとミケランジェロの両巨匠が筆を競ったが、それぞれ未完成に終
わっていた。
しかし、周辺の勢力との戦いに勝利し、フィレンツェを芸術都市に整備したコジモ1世
は、あきらめない。
フィレンツェは勝った。この歴史を描かせ、永遠に宣言したかった。
命じられたヴァザーリは市庁舎の「五百人広間」にフレスコ画を描く。題材はピサ、シ
エナにおける攻防戦。
敵陣に攻め込む兵士。勇敢に指揮を執る馬上の将軍の姿がある。まさに「軍には大将軍
を魂とす」である。
いずれも、フィレンツェの隆盛を決定づけた「勝利」の合戦だった。
◇
この「五百人広間」に池田SGI会長が足を運んだのは、92年6月30日の夕刻であ
る。
まもなく「フィオリーノ金貨」授与式典が隣の市長室で始まる。市長ジョルジュ・モラ
リスが待っているはずだ。
左右の壁から、今にも騎馬と兵士が押しよせてきそうなヴァザーリの絵画が、SGI会
長を見つめている。
この日、フィレンツェのモラリス市長は語っている。
「他の宗教を信じる人であれ、無宗教であれ、SGI会長の精神に必ずや共鳴すると確
信します」
宗門の黒い妬みで、ローマ教皇との会見が中止になったこともあったが、ルネサンスの
都は、SGI会長を勝利の人として迎え入れた。
2007年には「五百人広間」でSGI会長に「平和の印章」が贈られている。
◆ 今日は再び来ない
天井にカンツォーネが響く。背筋をぴんと伸ばした老紳士が、ステージに拍手を送って
いる。
1992年6月28日、フィレンツェのSGIイタリア文化会館で芸術音楽祭が行われて
いた。
紳士の名はリベロ・マッツァ。元内閣官房長官である。第2次大戦中、ナチスの魔手か
ら幾多のユダヤ人を救う。フィレンツェの破壊を食い止めた英雄である。
SGIに強く惹かれていた。麻薬におぼれていた青年を次々に更生させているという。
陽気な祭典にも感嘆したが、SGI会長のスピーチにも唸った。
「悪と戦わない人は正義ではない」「生きている限り、私は戦う。行動を続ける」
マッツァの心と強く共鳴した。これまで命を狙われること34回。政界を退いてからも、
マフィアと麻薬の撲滅のため戦ってきた。
しかも、イタリア文化会館はメディチ家ゆかりの建物。国の重要文化財である。
SGI会長は、文化を護る人でもある。
◇
イタリア政府が、国家的な顕彰のために動き出した。
今こそ我らは「平和の同盟」を結ぶべきではないのか。池田会長のような世界市民を模
範として!
2006年1月30日。
東京のイタリア大使公邸で、SGI会長に「功労勲章グランデ・ウッフィチャーレ章」
が贈られた。
公邸の中庭に、大きな池をたたえた日本庭園が広がっている。
その空の向こうには、目黒駅を使って幾度も足を運んだ戸田城聖第2代会長の自宅があ
った。
若き日から、フィレンツェの詩人ダンテをめぐり、戸田会長と語り合ってきた。
「今日という日は再び来ないのだ」
『神曲』の一節を引くと、恩師は「大作、その通りだな」と微笑んだ。