あの日あの時 IV-13=完
「池田先生と東京・墨田区」

大田区小林町(こばやしちょう=当時)の質素な家屋の前に、白木静子(しらきしずこ)が呼んだ1台のタクシーが止まった。
観音開きのドアがあき、モーニング姿の青年が、さっと乗りこむ。続いて清楚な着物姿の女性が、ゆっくりと車内へ入った。
1960年(昭和35年)5月3日の火曜日。
創価学会第3代会長が誕生する朝である。
池田大作新会長と香峯子夫人を乗せたトヨペットのクラウンは、快調なエンジン音を上げて、都内を東に走りはじめた。

その日は憲法記念日の祝日だった。
第2京浜(けいひん=国道1号線)の交通量は思ったより少ない。あちこちの建物に、日の丸が掲揚されている。
前夜は雷まじりの豪雨だったが、日付が変わるころ、ぴたりと止んだ。
「日本晴れだね」
遠くに、かすかな雲が見えるだけの快晴である。
中央通り、江戸通りを走るコースなら、大田区から20キロ足らずで浅草橋の交差点に着く。そこを右折すると正面に隅田川が見えてくる。両国橋をわたれば墨田区である。
当時のタクシーの初乗りは80円。小林町から800円ほど、かかっただろうか。
午前10時半すぎ。運転手の肩越しにドーム型の屋根が見えてきた。就任式が行われる両国(りょうごく)の日大講堂である。
この日は夫妻にとって、結婚8周年の記念日でもあった。しかし、すでに香峯子夫人は「今日が池田家の葬式」と覚悟を定めている。
戸田城聖第2代会長の推戴式(すいたいしき)は墨田区内だった。
いま再び、第3代の会長も墨田区から躍り出ようとしていた。

■ 日曜日の秀山荘

本格的なテレビ放送の開始に、世間が沸いた53年(昭和28年)。
墨田区に住む男子青年部の第1部隊のメンバーは、日曜が待ち遠しくてしかたない。
午前中から、いそいそと集まり、東京の南にある大田まで通い続けた。
目的地は大田区山王(さんのう)2の1898(当時)の秀山荘(しゅうざんそう)。
アパートの入り口は、工員たちの下駄であふれた。
日本の製造業が輸出で伸びた時代である。墨田の町工場で働く若者たちは残業続きだった。
「みんな、忙しいんだな。ゆっくり時間がとれるのは日曜日だね。じゃあ、自宅においでよ」
池田部隊長の提案だった。

アパートの玄関脇に、小さな洋間があった。
裸足(はだし)のまま上がりこんだ若者たちの輪の真ん中に、畜音機が置かれている。
勇壮な調べが室内を満たしていた。
池田部隊長が、馬の手綱を引くように両手を前後に揺らして解説を加えていく。
「うん、ここは戦が済んで、意気揚々と引き上げてくるところだ」
スッペの「軽騎兵序曲」が、静かな旋律へと変わった場面だった。
工員たちはクラシックどころか、歌謡曲を聴く機会すらない。ひまな時は錦糸町をぶらついたり、空き地で相撲を取るくらいである。
部隊長は、質素な生活のなかにも、良質な文化・芸術を求めていく大切さを教えてくれた。
畜音機も手回しではなく、電気でレコード盤が回り始めるもの。青年たちから思わず、おおっと声が上がった。
朝、墨田を出るので、みなが部隊長のアパートに着くのは昼前である。いつも誰かのお腹がグーッと鳴った。
すかさず部隊長が「みんな、お腹がすいているみたいだね」と立ち上がる。一同、照れ笑いするしかない。
「ライスカレーを作ってあげよう。戸田先生から作り方を教わったんだ」
部隊長みずから包丁を握り、野菜を手ごろな大きさに切る。カレーの鍋から、ぐつぐつ音がして、いい匂いが立ちのぼってきた。
部隊長の書棚にも圧倒された。ゲーテ、トルストイ、ユゴー、ホイットマン……。
「手に取ってごらん。読みながら待っていてよ」
戸田会長から個人教授された際のテキストもある。
みな文豪の全集を手に手に眺めていると、ごろごろとジャガイモが入った豪快なカレーが完成した。
音楽。文学。芸術 。池田部隊長と一緒にいるだけで、新しい世界が眼前に開けていった。

■ ひるがえる三色旗

第1部隊の前任の部隊長は、胸をそり返して、のしのしと歩くクセがあった。
気に入らない後輩には当たり散らす。へたに肩をもったりすれば「貴様まで俺に盾突くのか」と、ねちねち嫌みを言われる。活動から遠のく者も出た。
しかし池田部隊長になって、がらりと変わった。
「君たちは、だいぶ睨まれているようだね。でも心配することはない。僕が守ってあげるから、安心してついてきなさい」
下町の人は、妙な遠慮や気兼ねを嫌う。
池田部隊長は、さっぱりとした気性で、腹に何の隠し立てもない。
金属プレス工場で働く青年がいた。ある日、部隊長が近所の銭湯「丸風呂」に連れていってくれた。
青年は洗い場で、はっと息をのんだ。
部隊長の背中の肉に厚みがない。肺を病んだ人に独特のやつれ方である。
「僕は、結核でね。25か26、うまくいって30歳までしかもたない身体と医者に言われているんだよ」
深刻な病状にもかかわらず、口ぶりには屈託がない。めそめそした感傷など微塵もない。
青年は感激した。これほど死魔と戦いながら、部隊長は墨田のために命を削ってくれているのか。

後年、宗門事件が起きたとき、墨田区の同志は、微動だにしなかった。
区内には、常泉寺(じょうせんじ)や本行寺(ほんぎょうじ)など大きな寺がひしめいている。戦前は大石寺よりも身入りがよく、檀徒への影響力も大きかった。
ある意味で、墨田は宗門に飲みこまれる危険が最も大きい地域だった。
しかし、庶民の目は鋭い。
噺家の古今亭志ん生が十八番にした貧乏話も、墨田の長屋が舞台だった。苦労人が多い分、誰が欲に目がくらんでいるか、すぐ分かる。
一人の草創の幹部が語っている。
「人間は中身さ。坊主は寺を立派にして、人の目をくらまそうとばかりしていた」
「池田先生は違ったね。『風呂』と『飯』だ。一緒に戦ってくれた。あったかい思い出が肌身に染みついてらあ」
第2次宗門事件が起こった翌年の91年(平成3年)12月3日。
墨田入りした名誉会長は深くうなずいた。
新しくなった墨田文化会館は、無数の三色旗で埋め尽くされていた。

■ 聖教を頼みます

墨田は聖教新聞の購読層が厚い。「どこを回っても、聖教が多いなあ」。大手新聞の販売拡張員も驚いている。
原点は、戸田第2代会長の時代にあった。
聖教新聞に、まだ配送システムがないころ。
日曜になると、各支部の担当者が信濃町の旧学会本部へ新聞を取りにいった。
墨田の担当は、第1部隊で池田部隊長から訓練を受ける青年だった。
彼が新聞の束を抱えて帰ろうとした時である。
本部の2階へと続く階段の途中で、仁王立ちしている戸田会長と出くわした。
真剣な表情である。一瞬、たじろいだ。
ところが 。
「ご苦労様です。大事な大事な聖教新聞を、よろしく、よろしく頼みます」
戸田会長は深々と、その長身を折ったのである。
青年も慌てて頭を下げた。そっと顔を上げると、まだ会長は頭を低くしたままである。こんな姿を見るのは初めてだった。
ここまで、聖教を大事にしてくださっている……。
後に青年は、聖教新聞が戸田会長と池田部隊長の師弟二人で創刊されたことを知る。

■ 周総理と隅田川

かつては墨田を「東京のすみっこだから」と冷やかす人もいた。
池田第1部隊長は違った。
「ここが、世界の中心になるよ」
昭和20年代の後半、墨田区押上(おしあげ)の広田弘雄(ひろお)の家は、第1部隊の拠点だった。ブリキのおもちゃ工場である。
「我々は、戸田先生の直弟子の襟度(きんど)をもって、立派な指導者になるんだ」
池田部隊長が白扇(はくせん)をぱっと開いて立ち上がる。部隊歌だった「星落秋風五丈原(ほしおつしゅうふうごじょうげん)」の指揮を執りはじめた。
またたく間に、東京の一隅(いちぐう)の小さな拠点に、広大無辺な師弟の世界が広がった。

「創価学会の池田大作会長が、日本の中国への敵視政策を捨てて、両国の国交正常化を主張」
この特電が、北京・中南海(ちゅうなんかい)の執務室にいる周恩来総理の耳に届いたのは、68年(昭和43年)9月11日である。
名誉会長の歴史的な日中提言から3日後のことだった。
提言発表の舞台は、隅田川に近い日大講堂である。
この日をさかのぼること50年前の1918年(大正7年)の春4月。
日本に留学中だった19歳の周青年は、友人と荒川堤へ出かけた。
その帰り、市電の車中から、万朶(ばんだ)の桜に彩(いろど)られた隅田川を目に焼きつけている。
それから半世紀を経て、日中の春の到来を呼びかける名誉会長の第一声が、墨田の地から北京に届いたのである。

押上(おしあげ)のブリキのおもちゃ工場の周辺も、今や大きく様変わりした。
すぐ近くでは、世界一の高さとなる観光タワー「東京スカイツリー」(610・58メートル)が、2011年12月の完成をひかえている。
澄みわたる空の下で、墨田は世界の中心になる 。
若き日、名誉会長は展望した。その通り、世界が仰ぎ見る大都市が誕生しようとしている。