随筆 人間世紀の光 191
◆創価の源流・大東京◆

堂々と
巨人の如き
魂で
今日も勝ちぬけ
歴史を勝ちとれ

「僕は進んであらゆる出来事に挑戦したい」
古代ローマの哲学者として名高いセネカは、満々とあふれる闘志を語った。
さあ、何でも来い!
はち切れんばかりの生命力で戦おうではないか。
人だ。人である。「永遠の都」ローマを築いたのも、勇敢なる人間の大情熱だ。
今、その魂は、生き生きと、わがイタリアSGIの友に脈打っている。
嬉しいことに、創立八十周年に向かい、世界広宣流布の首都・東京でも、新しき民衆の「平和の城」建設の槌音が力強く響いている。
春三月には、三鷹平和会館がオープンした。
これから、世田谷平和会館、町田平和会館、江東平和会館、荒川平和会館なども、堂々とそびえ立つ。広宣の会館は、地域社会に、繁栄と安穏の大光を贈りゆく灯台である。
戸田講堂30周年
この六月、豊島区の巣鴨に立つ東京戸田記念講堂は、晴れの開館三十周年の佳節を迎えた。
守る会をはじめ、いつも真心で我らの師弟城を荘厳してくださっている方々に、厚く感謝申し上げたい。
戸田講堂は、立川文化会館、神奈川文化会館、荒川文化会館などとともに、創価の正義の旗を掲げて、〝反転攻勢〝の歴史を刻んできた。
昭和五十四年の六月二日――私は、真新しき講堂をそっと訪れた。翌日の開館を前に、懸命に準備に当たる同志の姿が、あまりにも健気であった。
大広間には、牧口初代会長、戸田第二代会長の肖像写真が、皆を見守るように掲げられていた。
私が第三代会長を辞任して四十日である。
両先生の慈愛の目が厳しかった。お二人の叫びが聞こえるようだった。
どんなに壮麗なる建物ができても、創価学会に師弟不二の絆が失われ、破邪顕正の剣を捨ててしまえば、抜け殻と同じである。
ましてや豊島区は、両先生が法難を受け、投獄されていた東京拘置所があった場所だ。豊島公会堂で、方便品・寿量品講義や御書講義を行われる戸田先生は、獄死した先師を偲びながら、権力の魔性へ憤怒の炎を滾らせておられた。
その恩師の名前を冠した記念講堂は、正義の闘士が集う大講堂である。
反撃だ!今再び、創価の巌窟王の闘魂を燃え上がらせるのだ!これが私の決心であった。
地元・豊島の同志も、隣接する北区の友も、〝戸田講〝を広布の戦艦として、共に船出をしてくれた。

戸田記念講堂が開館した六月三日は、さかのぼれば、嘉永六年(一八五三年)、浦賀にアメリカのペリーの黒船が来航した日でもある(旧暦)。
「幕末」は、この日から始まったといわれ、日本の新しい夜明けの時であった。
この激動期を新時代へ動かし、江戸の街を救った指導者が、本所(墨田区内)の出身の勝海舟であった。
海舟は訴えていた。
〝一身の栄辱を忘れ、世間の毀誉を顧みず、自ら信ずるところを断行せよ〝
全く、その通りだ。大事なことは、混迷の世に、庶民の命と暮らしを、どうすれば守れるかである。
民衆の幸福を心から願った牧口先生、戸田先生は、狂気の国家権力によって弾圧されながら、恐れることも、動ずることもなかった。師子王の如く、獄中で決然と正義を貫かれた。
戸田先生は、巣鴨から中野の豊多摩刑務所へ移られた直後に出獄された。昭和二十年の七月三日――この日、戦禍の焼け野原に一人立たれて、中野から、学会再建への歴史的な第一歩を踏み出されたのである。
思えば中国の周恩来総理も、日本に留学中、現在の中野文化会館のすぐ近くに一時期、下宿されていた。
人情豊かな中野の庶民との心の交流も、大切に胸に温めておられた。
「つねに大衆から離れず、大衆に学び、大衆に援助の手をさしのべる」
青春時代から一生涯、貫き通された総理の信条だ。
そして、わが創価学会は、この東京を起点とし、大衆と共に!大衆のために!平和と文化と教育の大連帯を、世界中に結び、広げてきたのだ。

広宣の
大河の源流
大東京
使命も功徳も
世界一かな

「源遠流長」(源遠ければ流れ長し)――。
日蓮大聖人は、末法万年尽未来際へ、「広宣流布」そして「立正安国」の魂魄を、武州池上(現在の大田区内)すなわち東京に留められて、入滅された。
その大東京こそが、創価学会の発祥の天地である。
世界を潤す大河となった広宣の源流は、東京なのだ。

〝江戸っ子〝の私も、ここ東京で恩師に出会い、広宣流布を誓った。東京で七十五万世帯達成への突破口を開いた。そして東京中を走り抜いてきた。
地図を開けば、あたかも第二総東京を頭として、師子が吼え、今まさに跳躍せんとする姿にも見える東京である。 東京は師子だ。いな永遠に師子であらねばならぬ。
大聖人は「師子の声には一切の獣・声を失ふ」(御書一三九三ページ)と仰せである。
大東京は、いついかなる時も、断固たる師子王の勝鬨を轟かせて、あらゆる魔軍を退散させていく使命があり、天命があるのだ。

四方に隣接する山梨県、神奈川県、千葉県、埼玉県、さらに関東も、東海道も、信越も、みな「大東京合衆国」として、一体不二の心で進んでくれている。
仏法で説く四大天王は、正法正義の世界を四方から厳然と護る働きである。
東を護るのは「持国天」である。国を治め、民を安んずる働きを持つ。
西を護るのは「広目天」である。天眼で、悪を呵責し、一切衆生を見守る。
南を護るのは「増長天」である。悪を打ち砕き、善を増長させる。
北を護るのは「毘沙門天」(多聞天)である。常に仏の説法を聞き、道場を厳護する。
最大に頼もしい力用だ。
さらに仏典には、四大天王の働きについて――
「常に勝利を得させる」
「怨敵を降伏させる」
「あらゆる眷属を増やす」
「智慧の光で法を説く者を護る」とも説かれる。
私には、広宣流布の本陣を厳然と護ってくださる、全国の同志の祈りと行動そのものと思えてならない。
東京は、全同志の真心に、断じて応えてゆくのだ。

法華経に
勝る兵法
なきゆえに
我らは勝たなむ
思い出三世に

正義は勝ってこそ、正義となる。本陣は勝ってこそ、本陣となる。
見栄や格好などかなぐり捨てて、広宣流布のために、ひたぶるに戦い抜いてこそ、大東京は、未来永遠にわたる、師弟勝利の本陣となるのである。
私は、「常勝将軍」であられた戸田先生から〝勝利の要諦〝を学んだ。
ここでは、その勝負のポイントを、四点、御聖訓を拝しながら綴りたい。

仏法は勝負なり
第一に、「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし」(同一一六五ページ)である。
――必ず勝つと決めた弟子が勝つという眼目だ。
それは、昭和四十八年の三月二十九日であった。
私は、目黒の友と、記念撮影会を行った。皆の瞳が涼やかに光っていた。
〝師弟正義の目黒〝は、恩師がこよなく愛された天地だ。私と妻が結婚して最初に住んだ、懐かしい地域でもある。
妻も、広布のトップランナー「ヤング・ミセス」の先駆として、蒲田支部・品川地区・目黒班の班担当員を務めながら、目黒婦人部の激励に走った。
記念撮影会の当日、目黒の同志から届けられた菖蒲の花に、私は驚いた。
桜の季節に、初夏の花が誇らしげに咲いている。用意するのに、どれほど苦労されたことか。
仏法は「勝負」である。そして「菖蒲」もまた、「勝負」に通ずる。
絶対勝利への強き一念が、すべてに漲っていた。
目黒は勝ったな!私は、そう深く確信した。
強盛なる祈りと、そこから発する真剣な行動のなかに、〝勝利のドラマ〝は生まれるからだ。

第二には、「月月・日日につよ(強)り給へ」(同一一九〇ページ)である。
「つよる」とは、弛みなき前進であり、恐れなき勇猛心である。
昭和五十二年の九月十二日、私は、わが荒川壮年部の総会に出席した。東京各区の壮年部総会の、記念すべき第一号であった。
下町・荒川には、血の滲む苦労を重ねて、自営業を営んでおられる壮年も多い。
社会の荒波のまっただ中で奮闘する「創価の黄金柱」に、何としても勇気を送りたかった。
揺れ動く社会だ。晴れの日もあれば、激しい風雨の時もある。だが、朗々と妙法を唱える胸中には、常に、赫々たる勝利の太陽が昇るのだ。
沈むことなき勇気の旭日をいだいた人間王者に、どうして破れぬ壁があろうか!乗り越えられぬ困難があろうか! わが荒川の戦友が、庶民の王者らしく、勇気、勇気の拡大で、見事なる金字塔を打ち立ててくれたことは、不滅の歴史である。
〝庶民の勇気〝に勝るものなしだ。勇気が自分の殻を打ち破る!勇猛精進の題目で勝利を開くのだ。
「声仏事を為す」
第三のポイントは「声仏事を為す」(御書七〇八ページ)である。
この御文を通して、私は、「希望の特区」町田の同志を励ました。昭和五十三年の十月二日のことである。
町田が圏(ゾーン)に発展したその日、忘れ得ぬ第一回の圏総会が開催された。
「さあ、いらっしゃい」
会合の前には、懐かしき町田会館に立ち寄り、会館裏の畑で作業をしていた功労者のご婦人をお呼びし、一緒にカメラに納まった。
「お久しぶりです」――町田文化会館に到着した後も、館内を巡りながら、友と語り合った。厨房にいた婦人とも懇談した。
「どんどん話すのです。『声仏事を為す』だよ」
黙っていては、何も起こらない。つんとして、壁をつくっていたら、自分の世界を狭めるだけだ。引っ込み思案で、縮こまっていたら、自分の世界も変わらない。
声を出す。声をかける。声を届ける。それが「善縁の拡大」につながる。また、それが、自他共の「幸福の拡大」になるのだ。この原理は不変である。
「おはようございます」「お元気ですか」――当たり前のあいさつが大事なのだ。どんな地域にあっても、爽やかなあいさつに嫌な思いをする人はいない。
近隣関係が希薄だ、冷たいといわれる大都市であっても、人は、やはり人間同士の温かい結びつきを欲するものだ。
熱き心の東北から、東京の友人を訪ねて来た方が語られていた。
――オートロックのマンションの敷居が高くても、真心込めたふるさとの言葉の響きには心の扉を開く力がある!と。
自分から周囲へ、わが家から近隣へ、春風の如く、自然のうちに、温かい声、明るい声、力強い声を広げゆくところに、民衆の幸福と平和の地盤が出来上がっていくのだ。

第四に、「教弥よ実なれば位弥よ下れり」(同三三九ページ)である。
妙法という最極の法は絶対の真実であり、いかなる人も救い、絶対の幸福境涯に導く。
この妙法を持った人は、皆が尊極の仏である。その信心においては、広布に戦う人が偉い。立場や役職の上下は関係ないのである。
ゆえに、仏法のリーダーは、どこまでも最前線で範を示し、最前線の同志を敬い抜くのだ。
昭和五十八年の一月三十日、私は世田谷文化会館に走った。北風をものともせず、世田谷の勇者が集った第一回幹部会である。
私は強調した。
「全員が、広布の第一線で戦い抜こう!」
世田谷の友は、この私の心を心として、〝山の手広布〝の道を開いてくれた。
拡大の舞台は最前線だ。
ゆえに、第一線へ走れ!
最前線で勝つのだ!

大東京
世界の広布の
本陣と
走りし貴女は
菩薩なるかな

七月十二日には、誉れの「総東京婦人部幸福・勝利の日」を迎えると伺った。
東京二十三区、また第二総東京、山梨総県、そして伊豆諸島栄光圏の信頼する婦人部の皆様方が、全国の友と心を通わせながら、幸の花を爛漫に咲かせゆく語らいを、朗らかに広げておられる。神々しい限りだ。
この七月十二日は、総東京婦人部の一員である、私の妻の入信記念日でもある。幼き日の妻は、牧口先生の手を引いて、わが家の座談会にご案内した。特高刑事の監視にも微動だにせぬ、〝"創価の父〝の師子吼は、妻の命から離れることはない。

7・12「東京大会」
昭和三十二年、私が無実の罪で逮捕・勾留された大阪事件の渦中に、戸田先生は、烈々と正義の糾弾の声を上げてくださった。
その「炎の東京大会」が、台東区の蔵前国技館で開かれたのも、この七月十二日であった。
二年前(二〇〇七年)の七月十二日、台東の東京上野平和講堂に設置された、「正義の東京大会顕彰の碑」には刻まれている。
「万年の創価の勝利を決せんは本陣・東京の責務なり」 「師弟凱歌の旭日を元初の朝に示さんは本陣・東京の使命なり」と。

団地部の
勝利は断じて
栄光の
人材伸びゆく
尊き歴史と

来る六月二十五日は、わが「団地部の日」である。団地部や地域部の友は、社会の依怙依託となり、信頼の灯台として光っている。
先日、北多摩の要衝・村山総区のある団地で、未明に火事があった。団地部の友が真っ先に駆けつけ、大事に至らなかったと伺い、心から安堵した。
その後も、被災者の方の集会所への避難、差し入れ、仮住まいの手配等々。団地部の友の迅速な行動と連携に、感謝と感動が広がったとお聞きしている。
足立、そして新宿、北、板橋、練馬、江東、さらに江戸川、葛飾、杉並、八王子など、東京団地部は「輝け『幸福の城』」の歌声も楽しく前進されている。
御義口伝には「足立」という二字が記されている。
すなわち、「不軽菩薩・法性真如の三因仏性・南無妙法蓮華経の廿四字に足立て」(同七六八ページ)と仰せである。
不軽菩薩は、まだ正法に目覚めぬ人びとにも、その人の仏性を信じて礼拝行を貫いていく。どんなに理不尽な圧迫を受けても、「人間尊敬」の対話の行動を絶対にやめない。
その強さは、妙法という究極の正義の大地に、厳として、わが足で立っているからである。
創価の賢者が、毎日毎日、わが足で歩きに歩き、相手の命を最大に敬い、粘り強く重ねゆく対話こそ、「不軽菩薩」の真髄の実践なのである。

あの池上兄弟の心意気を継ぐ、大東京の青年部の団結と勇気も頼もしい。
師弟不二の東京、異体同心の東京は、一丸となれば無敵である。歴史が変わる。
魔や仏敵は、人と人、地域と地域を引き裂こうと、傲慢や無関心といった人の心のスキにつけ込んでくる。
仏法は、どこまでも「縁起」を説く。すべての人が「縁」でつながっている。
「自他彼此の心なく水魚の思を成し」(同一三三七ページ)である。
ゆえに、「私も、あの人も勝利を!」と団結して戦うのだ。東京は一つである。
誉れの本陣同志よ!
誇り高き東京家族よ!
今こそ、我ら大東京の底力を、満天下に示そうではないか!

大東京
勝ちて世界に
太陽が
昇るが如き
創価の光を