■ある日の、駅のプラットホームで室長に尋ねられる。
■「教学の資格は何だい?」
■「何もありません」
■まだ信心浅い篠原は、当然のように答えてしまった。
■室長の顔がサッと曇る。口調に、求道心の弱さを感じ取った
■「あなたは青年部の幹部じゃないか。教学がない、とはなんですか」
■その篠原が、学会本部まで池田室長を訪ねたのは、2年半後。教学資格の「助教授」の試験に合格した。その報告のためだった。

■ところが、室長の言葉は思いがけないものだった。
■「あなたの家には、電話もハガキもないのかな」
■キョトンとする篠原。室長は、父親が娘を諭すように声をかけた。
■「青年部が教学試験に受かって、私がどんなにうれしいか。どれほど喜んでいるか。分からないのかい」
■篠原はハッとした。合格通知から2週間が過ぎている。すでに室長は篠原が合格したことを、いち早く知っていた。
■駅のプラットホームで指導した彼女の地道な研さんの努力を、じっと室長は見守り続けてきた。
「本当に良かった。よく頑張った。おめでとう!」
■「何ごとも中途半端ではいけない。仕事の師弟も大事。人生も師弟が必要だ。頑張ろう!」
■「ビルの高い所で会議ばかりしていては行き詰まる。庶民の仏法は最前線のなかにある。そこで語って指揮をとらねば、広布は進まない」

■戦争末期の1945年(昭和20年)6月29日。戸田会長は巣鴨(すがも)の東京拘置所から、突如、中野の豊多摩(とよたま)刑務所に移送された。
■なぜ出獄の4日前に中野へ移されたのか。確かな資料はない。しかし、連日の空襲で首都の治安機能は、すでに限界に達していた。
■裁判所や司法省も空襲にあい、巣鴨の拘置所にその機能を移す。玉突きのようにして、巣鴨の収監者が中野に移された事実が残っている。
■投獄された他の学会幹部は、過酷な取り調べに、ことごとく信念を捨て去っていった。たった一人、戸田会長だけが師匠との誓いを破らなかった。
■生涯、外に出られなくても構わん。死ぬまで戦い抜く覚悟があれば強いものだ。必ず勝てる」
戸田会長は、巣鴨から中野に移された時点では、いまだ「城外(じょうがい)」と名乗っていた。生きて牢を出たならば「城聖」と改名する決意を心中深く固めていた。  

■7月3日、午後7時 。
■豊多摩刑務所の鉄扉を出た、その瞬間。広布の大将軍たる「戸田城聖」が、中野の地に生まれた。