1979年(昭和54年)の4月24日――。この日、池田先生は、十九年間にわたって務めた、創価学会第三代会長を退かねばならなくなった。

全世界の同志は、その発表に、愕然として声をのんだ。その背後には、悪辣なる宗門の権力があり、その宗門と結託した反逆の退転者たちの、ありとあるゆる学会攻撃がありました。

今回はこの
永遠に忘れてはならない言語に絶する謀略と弾圧の歴史を紹介したいとおもいます。

昭和52年、日顕宗の悪侶が嫉妬に狂い学会批判を開始。週刊誌をも巻き込んで、昭和53年になると、連日、学会を誹謗する記事が全国に満ち溢れた。
そうした逆風の中、先生は誠意に誠意を重ねられて、和合のための指揮を執られた。
御聖訓に照らし、学会には一点の誤りもないにも関わらず、折れるところは全て折れ、退けるところは全て退き、下げる必要のない頭をも下げた。
一切は広宣流布のためであり、学会員を守るためであり、和合のため。

そして嵐な昭和54年。
3月―後に退転したが、
当時、最高幹部が「葬式に赤いスポーツカーで来る坊主がいる」
「カツラをかぶってスナックに出入りしている坊主がいる」等々宗門を批判。。
和合のために心を砕く先生のご苦労をぶち壊した、
この恩知らずの偽物の弟子の発言が、宗門の格好の材料とった

学会破壊を狙っていた仮面の陰謀家どもの好餌となった。坊主らは、狂ったように会長であった先生に「責任をとれ」と騒ぎ立てたそして、先生と会員を分断し骨抜きとなった学会員を宗門の手で支配しようと計画した。

宗門は学会側に「会長を辞めれば水に流してやる」と通達。

ある日、最高幹部たちに、先生は聞いた。

「私が辞めれば、事態は収まるんだな」沈痛な空気が流れた。

やがて、誰かが口を開いた。
「時の流れ は逆らえません」

沈黙が凍りついた。

―たとえ皆が反対しても、自分が頭を下げて混乱が収まるのなら、それでいい。実際、会長辞任は、避けられないことかもしれない。また、激しい攻防戦のなかで、皆が神経をすり減らして、必死に戦ってきたこともわかっている。
しかし、時流とはなんだ!
学会幹部は腐っていた。


昭和54年4月24日
全国統一地方選を大勝利で終え、新宿文化会館で県長会が大歓喜の中開催されるはずだった。
先生は「今日は会長交代だよ」と無造作に言われた
「今、先生は何とおっしゃったのだろう?」
誰もが聞き間違いだと思った。

場内のあちこちですすり泣く声が漏れた。
「泣くやつがあるか。大難が来たんだ。これほどの喜びはないじゃないか」
会合終了後、エレベーターの前で、先生は参加者全員と握手し、激励された。
その後、会長勇退記者会見のため、先生は聖教新聞社に向かわれた。

こうして昭和54年4月24日、一切の泥をかぶって、先生は第三代会長を勇退された。
宗門は執拗に分断工作を断行
「会長を辞めたのだから、大きな会合での指導はするな」と。
「会長を辞めたのだから、新聞にも出すな」と。
「学会から師弟論を外せ」と。
「会長を辞めたのだから、“先生”と呼ばせるな」との離間工作を進めた。

暗雲が垂れ込め巡り来た5月3日。
記念式典が行われる創大中央体育館へ向かう参加者の足取りは重かった。
会合に先立って司会より注意事項が申し渡された。
「本日の会合に名誉会長が出席されますが、一切、拍手はなさらないように。また、『先生』と呼ばないように、よろしくお願いいたします」
先生は式典の途中より入場。そして、途中にて退場された。
壇上の半分の席を埋めた僧侶達は、勝ち誇ったような顔つきで、見下ろしていた。
中央体育館からの長い渡り廊下を歩かれる先生。そこに会場に入れずにたたずんでいる婦人がいた。先生の姿を目に留めるや否や、婦人は駆け寄った。
誰が何と言おうと、また、何人たりとも侵(おか)すことのできない大感情が言葉となってほとばしり出た。
「先生ぇーっ!」
無名の一婦人の魂の叫びに先生は抱きかかえるように激励され、側近幹部に向かって言った。
「この婦人を誰が激励するんだ! 誰が守るんだ!」
「私はどのような立場になろうとも、この婦人を一生涯守っていくよ!」

5月5日、神奈川文化にて「正義」と大書の揮毫を記された。

四国のメンバーが、先生のいらっしゃる神奈川文化に到着。
一人ひとりと握手をして歓迎される先生。その模様が翌日の新聞一面トップのニュースに。
しかし、掲載された写真には、先生の右腕のヒジから先しか写っていなかった。
学会本部にあっては会長室には入られず、管理者室で仕事をされていた。
宗門からの条件を全て呑み、ギリギリの状況の中で戦いを起される。
「じゃあ、一緒に勤行をしよう。信徒だもの。勤行は文句ないだろう」
こうして始まったのが自由勤行会だった。
また、全国各地の支部証を書いて下さるなど、先生は見えないところから、全会員に激励を送った。どこへ行くにも先生は、硯(すずり)と筆を持ち歩かれた。
後年、振り返られて先生は言われた。
しゃべるなと言われても、書くことができる。書くなと言われれば、音楽を弾いてでも激励できる。どんな立場になろうと、私は私である。どんな圧迫があろうとも、私は愛する学会員のために働き続ける。
勇退後、開始された功労者宅訪問は、数年間で600件を上回った。

先生は、東京の開拓の新天地、第2東京の拠点の立川文化会館で
もう一度ゼロから学会を創り直す反転攻勢の戦いを開始した。

当時学会をやめなければ先祖の墓をも認めないなどと執拗に脱会を迫る
悪徳坊主の苛めから会員を守る目的もあったのではないかと言われています、
昭和54年当時、先生に贈られた名誉博士号はモスクワ大学からの、一つでありました。以来、30年の歳月を経て、その数は250という永遠に光彩を放つ金字塔となりました。

先生が留めてくださった『正義』の原点を命に刻み、人間主義の大道を切り開いて参りたい。