イ・ソンス

1979年11月3日生(43歳)

韓国外語大学上京大学国際通商学科卒業

2020.3~2023.3 SMCEO共同代表

2023.4~     SMCAO(最高A&R責任者)

イスマンの奥さんの甥(義甥)

 

  • 2005年SMエンターテイメント入社

  • 2015年SMエンターテインメントプロデュース本部本部長

  • 2019年SMエンターテインメントUSA代表取締役

  • 2020年SMエンターテインメント共同代表(CEO)

  • 2023年SMエンターテインメント最高A&R責任者(CAO)

 

大学時代の1998年の神話デビュー当時、PC通信上のファンクラブの動向をモニタリングして会社に報告する業務で、SMエンターテイメント(当時SM企画)と初めて年を結んだ。以後、2005年に正式にA&R職員として入社し、入社後初めて引き受けたチームがShineeという。音楽非専攻者としてA&R業務をしながら実務感覚を身につけようと作曲、作詞を学ぶこともした。そんな誕生した曲が少年、少女に会い私が愛した名前であり、この二曲を最後にこれ以上曲は書いていない。2009年A&Rチーム長に昇進した年に少女時代Gee」、スーパージュニアSorry、Sorryなどが相次いでヒットし、イ・スマンプロデューサーの支援で2015年以降、実装、グループ長、そしてイ・スマン会長直属のプロデュース本部長に超高速昇進した 。
米国、ノルウェー、オランダ、スウェーデン、イギリスなどヨーロッパ各地を回り、ユニバーサル、ソニーなどグローバルミュージックパブリッシング社およびローカルパブリッシング社と契約した作曲家、プロデューサーたちを発掘してきて、SM内部に「SM Song Writing Camp」と命名される集団創作活動を作り、長年にわたって運営して現在のA&Rシステムを構築するのに一助した。・・・・
プロデューシング本部長として40人余りのA&R室を含む約100人余りのプロデューシング本部人員を指揮してきており、創業者イ・スマンプロデューサーの推薦で2017年4月部にSMの登記理事、2020年3月部にSMの代表取締役(CEO) )になった2023年2月、イ・スマンプロデューサーとイ・ソンスを筆頭にしたヒョン・ギョンジン-カカオ連合間の対立が始まるとイ・スマンを連日狙撃し、自身も代表取締役連任で放棄すると明らかにした。しかし、会社に残って実務はずっと握ると思われるが、・・・・

イ・スマン体制では、会社内の影響力とは別に対外的な存在感が弱かったが、平社員だった自分を超高速昇進で代表取締役まで上げたSMエンターテインメント創業者イ・スマンプロデューサーに背を向け、カカオと手を握って経営権紛争を起こした張本人で様々な記事や証券家の口に上がるなど、様々なエンターテイメント業界で最も熱い存在になっただけは確かだ。カカオと手を繋いで未来に向かう次世代指導者なのか、血縁で超高速昇進した後、イ・スマンを裏切った船は哀れな人物なのか評価が極と極を走っている。

SMエンターテイメントのCAOだ。イスマンプロデューサーによってA&Rチームが作られた後、実務を受け継いで世界的なレベルのSM A&Rチームとプロデュース本部の作成に貢献したイ・スマン体制でプロデュース本部長としてSMエンターテイメント全体のコンテンツプロデュースを総括し、SM 3.0導入によりマルチプロデュース体制が始まり、その役割が分散される予定だ。SMは音楽からスタイリング、マネジメントまでマニュアルがあると言われており、そのマニュアルをもとに各アーティストに最適化された音楽を見つける役割を果たした。

SM A&Rチームはイ・スマンプロデューサーによって1990年代後半からフランスで毎年開催される音楽カンファレンスイベント「REED MIDEM」でパブリッシャーと作家を発掘し始めたのが始まりだ。1998年、SES2集のタイトル曲だった「Dreams Come True」を購入したのが、国外で書かれた曲を使った初めての始まりだという。当時の大韓民国の著作権概念に対する認識とインフラが粗悪だったことを勘案すれば、外国人作曲家がアジアの小さな国に曲を販売することは容易ではなかっただろう。初めての海外購買曲だったDreams Come Trueは単純番安曲ではなく、イ・スマンの音楽的仲間であるユ・ヨンジンが再創造級で編曲した曲だったが、その結果物が原曲作曲家から大きな好評を得て、おかげで海外ネットワーク開拓で良い最初のボタンが挟まれるようにされた。以後イ・スマンプロデューサーが開拓した海外ネットワークの上に様々な実務者を経てイ・ソンスが実務を引き受けて着実に続いていき、国外作曲家たちとのネットワークが徐々に積み重ねられていった。2023年基準で3千人の世界的な作曲家ネットワークが構築された。

序盤には狭い著作権市場、微妙なアジア影響力のためアジア、北米、ヨーロッパで同じ曲だが、該当著作権者と合意し、各国の歌手たちの曲として発売されたりもした。2009年以降、KPOP市場規模が拡大し、自然に著作権市場も大きくなり、最近は外国人作曲家が大韓民国を訪問して単独で曲を販売するほどになったという。また、アジアに自分たちのブランドを知らせたい外国人プロデューサーたちも多くなったという。一度K-POPクレジットに名前が上がる瞬間、本人や作曲、プロデュースチームのブランドが上がり、日本、中国、タイ、台湾のような場所でも曲を売れるようになるからだ。
SM A&Rは国内/国外チームが分かれており、各部署の専門家らによって複数の曲を制作して選択するが、最終的にはイ・スマンの決裁が離れなければ発表されたイ・スマンがすべての歌詞とサウンドひとつまで全て取り上げるという。・・・・

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