国葬と国民葬の違いがはじめて判る記事でした
国民葬が良いと思うようになりました
ダイヤモンド・オンライン
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1967年10月31日に実施された吉田氏の国葬も、今回と同じで政府が閣議決定で決定した。
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「弔辞はことごとく型通りのものだった。喜楽を分けたはずの親しい人の弔辞も制限された。参列者も、各省ごとに、機械的に割り当てられ、人選された」(同上)
そんな単調さに拍車をかけたのが、場内で延々と繰り返された、自衛隊音楽隊による「永遠に眠れ」「悲しみの譜」。そして、一般献花者が祭壇を前に吉田氏への思いをかみ締めていると容赦なくかけられる「直ちに退場してください」という場内アナウンスだった。こんな儀礼的なムードが5時間続いた「戦後初の国葬」を同紙は以下のように総括している。
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国葬が儀礼的で無感動なセレモニーになってしまうひとつの大きな理由に、「宗教色の完全排除」というものがある。
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日本政府が実施する国葬で宗教色は出せない。故人がどんなに信仰をしていても宗教的な説教はできないし、弔辞などでその手の話題も避けなくてはいけない。しかも、これをさらにややこしくしているのは、他の宗教団体への配慮もしなくてはいけないところだ。
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国葬というのは国家が「喪主」ということなので基本的には、あくまで公平公正で、全国民に納得してもらえるようなセレモニーにしなくてはいけないのだ。
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当時の永田町・霞が関の人々は、吉田氏の国葬のビミョなー空気で「もはや国葬なんて時代ではない」と思い知った。だから、それ以降、首相の国葬は「封印」された。
「国葬にふさわしい人がいなかった」からではなく、国葬をやっても国も自民党もそんなに得はないし、本人も遺族も望まなくなったのだ。
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無感動な“官葬”を営むより、自然な形式に束縛されぬ“民葬”の方がふさわしかったのではないか
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自民党や支持者も共同で執り行う「国民葬」でにぎやかに送った方が、政治家としての評価はさておき、多くの人に愛された安倍元首相らしい。民間主導のセレモニーならば、日本会議など神道系団体が多少、宗教色を出しても特に問題はないし、熱心な安倍支持者にとっても、自分たちが望むような形でお別れができるのでよほどいい。
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明治・大正の時代、国民に愛された政治家、大隈重信の葬儀も一般人が参列できたので「国民葬」と呼ばれた。一説には30万人も訪れたという。
この時代から人々は「役人がやる堅苦しい国葬なんかより、市民が自発的にお別れが言えるオープンな会の方がいい」と思っていて、国民がそれを意思表示した結果だ。
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国葬にしたせいで、権力批判のバイアスがかかってしまう。生きている間はどんなに敵対している人でも、亡くなったらノーサイドでお悔やみを、という日本人のいいところが、「国葬」でかき消されてしまっているのだ。本人や遺族にしてみれば、こんな酷なことはない。