読書感想文 『書くための文章読本』(瀬戸 賢一/インターナショナル新書)〈2〉 | tobiの日本語ブログ それ以上は言葉の神様に訊いてください

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日本語アレコレの索引(日々増殖中)【33】
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1986890608&owner_id=5019671

mixi日記2024年04月01日から。
 下記の仲間。
【読書感想文】
https://ameblo.jp/kuroracco/theme-10116614053.html

 下記の続き。
【読書感想文/レビュー 『書くための文章読本』(瀬戸 賢一/インターナショナル新書/ 2019/12/06第1刷発行)】
2019-12-07
https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12553935687.html
===========引用開始
 ただなぁ。目次や内容紹介を見る限り、芸術文の文末を分析している。そんなことしてなんになるの?
 デアル体とデスマス体の混合は、素人がマネをしてはいけない代表格。
「ル形」と「タ形」の混合は、小説ではフツーのこと。これを素人が作文でやるのは、基本的にはオススメできない。
 で、何を書いてるんだろう。
 もう少し突っ込むと、「書くため」の文章読本で、芸術文を引用するのはどうなんでしょ。それで「書くため」の役に立つとはとうてい思えない。

 買えば、けっこうまじめに読むだろう。読むと、いろいろアラが目につく。それをメモするのにはかなりの時間がかかる。それ以上にイヤなのは、性格が悪くなること。悪態の世界から離れて、やっと本来の清廉潔白な好青年(の十津川村)の気持ちを取り戻しつつあるのに……。
 下記のときもしばらくダメージが残った。
【読書感想文/『日本語作文術』(野内良三/中央公論新社社/2010/05/25第1刷発行) 第2稿】
https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12274994280.html

 とりあえず信頼できる2人の〝読み手〟の感想を待つことにする。
===========引用終了

 感想を待った。
 キリンになりそうなほど、期待して待った。
 数年たって自分でも入手し、ユルユルと読みながら、感想を待った。
 日本古来の妖怪のように伸び切った首筋を湿布でいたわりながら、感想を綴る。これって「轆轤」と関係するのだろうか……ふと疑問に思って調べてみると、「関係する説」もあった。

「文章読本」と呼ばれる書籍は、大きく2種類に分かれる。
 新たに書き起こすのがメンドーなので赤い本から引く。
===========引用開始
 本書では「まえがき」から一貫して、文章の書き方に関する本を「文章読本」と総称しています。これはずいぶん乱暴な呼称です。説明の都合上そうしたのですが、実際には「文章読本」は次の2つに大別できると思います。
  1)小説家が書いたもの(主として書名に「文章読本」と冠している)
  2)小説家以外が書いたもの(書名はさまざま)
 大ざっぱに1)と2)の違いを書くと、1)のタイプは高度な内容の教養書です。いずれも名著といえるでしょう。しかし、文章を書くときにどのぐらい役に立つのかと考えると、疑問が残ります。「読みものとしてはたいへんおもしろかったが、さほど役には立っていない」というのが個人的な感想です。もちろん、例外はありますが。
 ★ページで書いた「小説の文章と一般の文章を区別する必要はない」といった記述は、1)のタイプの「文章読本」で目にします。この心得は、「小説の文章」が自在に書ける大作家にだけ通用するものです。ふつうの書き手は、「小説の文章」が書けない(もしくは「書く必要がない」)のですから、区別を「する」とか「しない」とかいう問題ではありません。
 ふつうの書き手が、小説の文章を意識しながら一般の文章を書くとどうなるのかは、少し考えればわかることです。妙に気どった表現や、わけのわからない比喩が目立ち、確実にヘンな文章になります。
 2)のタイプの「文章読本」のほうが圧倒的に数が多いので、目にする機会も多いはずです。1)が教養書とするなら、2)は実用書といえるかもしれません。トンデモナイ心得をもっともらしく書いていることが多いのは、このタイプの「文章読本」です。「何を根拠にこんなバカなことを断言するのだろう」とあきれてしまうこともあります。もちろん、これにも例外は数多くありますが。断言調で書く理由は、よくわかります。そのほうが説得力があるように見えるからです(本書のように断言を避けた書き方をすると、「この書き手は自信がないんだな」と思われかねません)。 
===========引用終了

「2種類」をもう少し細かく分けると、〈1)小説家が書いたもの〉のなかには、書くための文章読本と、読むための文章読本がある。三島読本、丸谷読本などは〈読むため〉の色合いが顕著。文学鑑賞の手引書とでも申しましょうか。興味深い内容だし、ためになるけど、自分で文章を書くときの参考になる部分はほとんどない。

 本書は「書くための」と冠しているだけあって、書くためのノウハウを満載……してるのかなぁ。
 文末にこだわって、多くの作品の引用を駆使して解説している。
 これを読みこなして応用できるのは、かなり高いレベルの書き手だろう。
 プロの技を中途半端にまねると、たいてい悲惨なことになる。やめたほうがいいって。
 細かい引用を少々。

 【引用部】
 しかしこの種の「が」は、文1と文2を結ぶ小さな接続要素──文法家はふつう接続助詞(「て」「から」「ので」「と(き)など)よ呼びます──のなかでは特異です。結論的にいうと、

  文1(敬体)が、文2(敬体)

の形がふつうなのは、「が」を伴う文1の独立性が強いからです。文2の敬体の影響が文1にまで波及せず、途中で止まってしまう。まるで「が」がブロックするかのよう。先の因数分解のCのようにはいかないのです。文1の調子を整えるには、文1の内部で独立してデス・マスの決着をつけなければなりません。それが証拠に「が」──とくに逆接の「が」──は

  文1。が、文2。

の形が可能です。つまり「が」が文外に飛び出して、文1を文として完全に独立した形にできます。この「が」は敬体なら「ですが」、常体なら「だが」としても文2の文頭に立てます。(p.33~34)

 これで説明になっているか否かはちょっとあやしい。
 この問題は昔から気になっていた。フツーの接続助詞の場合は、
  文1(常体){て/か/ので/と(き)}、文2(敬体)
 になる。「が」の場合は、前半も敬体になることが多い。この理由がわからなかった。本能的にそうしていただけ。
〈文1の独立性が強いから〉ということにしておこうか。
 ちなみに、〈結論的にいう〉ってありなんだろうか。

【引用部】
要するに「が」は万能の接続機能を果たすので、論理的な文章──つまり知的な散文──には適さないと排撃(はいげき)します。その証拠として挙げられるのが、たとえば、次の二文です。

  ①彼は大いに勉強したが、落第した。
  ②彼は大いに勉強したが、合格した。

 清水は、「が」が①にも②にも用いられるほど「無規定」的だと糾弾し、これはそれぞれ③と④のように書き換えるべきだと主張しました。

  ③彼は大いに勉強したのに、落第した。
  ④彼は大いに勉強したので、合格した。

 ③と④は論理関係がはっきりするのに対して、「が」は「一種の抽象的な原始状態」しか表さないと猛チャージをかけます。 
 ちょっと立ち止まりましょう。私はその後の「が」の迫害史についてはほとんど知りませんが、「が」に対する清水の反キャンペーンはかなりの支持をえたようです。しかし、改めてまっ白な心で①と②を読み返してください。①の「が」は逆接の「が」であり、「が」のもっとも基本的な用法です。この「が」も知的な散文から排除せよというのは、日本語の重要な表現手段のひとつを奪うことにならないでしょうか。
 また②の文を読み直したときの素直な気持ちはどうですか。勇気をもって言いましょう。②の文は日本語としてヘンだと。時代のせいじゃない。「ので」の意味に近い「が」はそもそも存在しません。おそらく清水が槍玉(やりだま)にあげたいのは、「さっきの話ですが、どうしましょう」などの話題を提示するときの「が」ではなかったか。これはこれで働きがあるのですが、「論文」には使わない方が論理的に進行するというのであればあえて反対はしません。ことばはつねに時と場合に応じて用法が変わるものです。(p.35~37)

 非常に興味深い記述なので長々と引用してしまった。
 勇気をもって書いてくれたのはありがたい。〈②の文は日本語としてヘン〉だろう。
【「曖昧のガ、」の話 何度目?〈2〉】
https://ameblo.jp/kuroracco/entry-12844722470.html
===========引用開始
 本書では、「ガ、」の曖昧さを示すために次の例をあげ、両方が成り立つとしている。
  1)彼は大いに勉強したガ、落第した。
  2)彼は大いに勉強したガ、合格した。
 この例文をそのまま引用している文章読本を見ることがあるガ、そんなに好例とは思えない。1)が「逆接のガ、」で、2)が「順接のガ、」なんだろう。「ガ、」が逆接にも順接にも使えるのはたしかだガ、2)は日本語としてヘンなのでは。自然な日本語にするには、もう少しヒネる必要がある。
===========引用終了
 この清水読本の「が」の話は当時としては画期的だったので、この例文も有名になった。
 でもおかしいものはおかしい。
 誰かもっと適切な例を考えてください。

【引用部】
極めつけの主体的表現です。(p.79)
 単なる「誤用」だろうか。

https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%A5%B5%E3%82%81%E4%BB%98%E3%81%8D/#jn-58708
===========引用開始
きわめ‐つき〔きはめ‐〕【極め付き】 の解説
《「きわめづき」とも》

1 書画・刀剣などで鑑定書のついていること。また、そのもの。→極め書き

2 すぐれたものとして定評のあること。また、そのもの。折り紙つき。「—の芸」「—の大酒飲み」

3 歌舞伎で、ある俳優の演技が他のだれよりもすぐれていると定評のある役柄。

4 俗に、程度の甚だしさが最高である事物・事例。最たる事物・事例。「この店のおすすめメニューの—はこちら」

[補説]「極め付け」ともいうが、本来は、「極め付き」は事物等に極め書きがついていること、「極め付け」は事物等に極め書きをつけることをいう。
「きわめ【極め】」の全ての意味を見る
出典:デジタル大辞泉(小学館) 
===========引用終了 
 
【引用部】
広告の基本スタンスは次のようです。(p.160)
 つまらない揚げ足取りを続けてしまった。
「基本スタンス」も気になるけど、そこはスルーする。問題は「次のようです」。p.161には同様の用法で「次のようなものです」とある。これならフツーだろう。 
 
【引用部】
 文章の中の、ここの箇所は切り捨てたらよいものか、それとも、このままのほうがよいものか、途方にくれた場合には、必ずその箇所を切り捨てなければいけない。いはんや、その箇所に何か書き加へるなど、もつてのほかといふべきであろう。(太宰治「もの思ふ葦」『太宰治全集11』、筑摩書房)(p.171)
「省略法」のテーマで、スペースの省略のためにもってきた引用。
 同様の話はいろいろ聞くけど、太宰をもってきますか……。太宰の文章って、そんなに推敲を重ねたものだったっけ。

 ちなみに、p.35~37お【引用部】にある「排撃」って、ルビ必要なの?
 著者は、読みやすさ・わかりやすさに相当気を配っていることがうかがえる。
 そのせいか、フツーなら漢字にしそうなものをけっこう平仮名にしている。引用した部分からひく。
「ふつう」「とくに」「もっとも」「ことば」「つねに」
「言葉」ぐらいは使いたいが、そういうのも平仮名で書いていると、「それでいい」って気になってしまう。見習いたいところ。
〈迷ったらひらく〉という考え方があって、ほぼ正解の気がする。その先の問題は、平仮名を使うか片仮名を使うか。
 個人的には片仮名書きを原則している言葉がいくつかある。
  ムダ(「むり」は悩ましい)、ダメ、(「手段」の意味の)テ……。 
  フツー、メンドー、センセーあたりも悩ましい。