下記の仲間。
日本語アレコレの索引(日々増殖中)【20】
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mixi日記2018年03月1)日から
関連エントリーは下記。
【濃いめ 濃い目 濃め 濃目 濃さそう 濃そう】
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※あんまり関係ないかorz。
「濃め」「濃いめ」。両方アリで相当微妙。
「濃さ」「濃いさ」。「濃いさ」はナシだろう。
「濃み」「濃いみ」。両方ナシだろう。
【「派」の話 接尾語・接尾辞 辞書】
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うーむ。こっちも相当違うから、新しいエントリーを書くしかないのか。
FBに興味深いエントリーがあった。
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一応非公開のSNSだけど家主の許可をもらったので、全文を引用する。コンパクトにまとまっているこのエントリーを当方流に書き直すと、ものすんごく長くなる(泣)。
===========引用開始
3月10日 13:26 ·
嫌いじゃない「~み」言葉
巷で若者の「~み」言葉が話題になっている。「こわみ」「ねむみ」「つらみ」「しんどみ」といった語である。
■ ほんらいの用法
接尾辞「み」の元々の働きについていくつか国語辞典を引いてみたが、ほぼ同じことが書いてある。形容詞・形容動詞の語幹に付いて名詞を作る。性質・程度・状態・場所を表す語ということ。
『大辞林』にはこんな記述もある。「接続する語が「さ」より少なく、対象の性質・状態・程度を主観的・感覚的にとらえる」。というわけで接尾辞「さ」についても国語辞典を見てみたが、「み」とあまり変わらない記述ばかり。となると、「み」の特性としては「主観的・感覚的」がポイントか。
『日本語文法事典』にはこうある。「派生語の品詞は接尾辞により決定される。そのため,接尾辞は名詞型(「-さ」や「-み」),(中略)に分けることができる。(p208)」、「形容詞語幹につく接尾辞「-さ」と「-み」の違い(中略)などが論じられたりする。(p494)」 やはり、名詞を作る接尾辞「み」は、同じ働きをもつ「さ」と対比して考えたり論じられたりするということか。
ここまでわかったところで、「み」と「さ」の例文をつくってみた。
仕事にも楽しさがほしいなぁ。
旧友と会えるのが楽しみだなぁ。
上の2文では、「さ」も「み」も「対象の性質・状態」を表しているが、「み」のほうが、たしかに大辞林のとおり主観的・感覚的であると思う。わたしのイメージとしては、自分の感情に使う場合には、「さ」は頭のどこかにある感情をふわっとくるんで、思い出したり取り出したり、誰かに伝えたりする。「み」はダイレクトで、自分の内側だけの感覚。つまり、辞書の記述と自分の語感が一致している。
■ 客観的な意味をもたせる語
従来の「み」は腑に落ちた。では、娘らが使う流行語としての「み」はどうだろう。作家・心理カウンセラーである五百田達也氏の記事を読んでみた。
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こうした表現は、「自己を隠し、他人に同化しようとするきわめて日本人的な言い回しであり、現代的なコミュニケーショントレンド」とある。客観的、曖昧な言い回しで共感を得ようとするということか。この記事では「さ」についても書いてあるが、ここでは触れない。
この記事から考えると、元々は「主観的」だった接尾辞「み」が、同じく形容詞を名詞化する語である「さ」の領分を侵食して、若者の間で使われるようになった。そのときに「客観的」な意味が出てきた。そうとらえてよいだろうか。
■ 主観的ながら独立したニュアンスをもつ
もうひとつ、こんなブログを見つけた。書き手の「まつとも」氏は学生らしいが、この考察はすごい。
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(「ねむみ」という語の場合はまず)、「話者の感じた主観的性質から出発している。しかし、そうした主観性は、有界性によって話者から切り離され、独立したものとしての性質を持つ」とある。
「有界性」という概念については、もともとは藤井佳子氏の論文で導入されているとのこと。このサイトのリンクをクリックしたが、切れていて見られなかった。ともかく、「~み」には元々「主観的」だが「有界性」という性質がある。「あまみ」「悲しみ」といった、ほんらいの用法を考えるとたしかにそう。
「こわい」「つらい」といった、元々は「み」のつかない語に「み」が使われて「こわみ」「つらみ」となると、「こわさ」「つらさ」と比べて「主観的」の意味が出る。同時に「有界性」があるために「独立」のニュアンスを持つことになる。
「こわい」「つらい」と言ってしまうと直接の感情を相手(不特定のことも多い)にぶつけてしまうことになる。「こわさ」「つらさ」では客観的すぎて、自分の感情を伝えられない。だが「こわみ」「つらみ」を使えば、主観を表しながらも、それが自分とは離れたところにあり、そうした感情(「~み」言葉はマイナスの感情を表現していることが多い)が、自分のせいではないというニュアンスが表せる。よって共感を得やすいということになるのか。やっと理解した。
■ 負の感情を自分で処理していると伝えて共感に向かわせる
少し前に「~たん」という言葉が流行っていた。が、娘が「つらたん」と言っても、母としては「プリンでも買ってこようか」くらいの反応だった。「たん」がもつ、甘さというか自己陶酔の響きがなんとなく疎ましくて、あまり寄り添えない。
対して「つらみ」と言われると、「スイーツ食べにいく?」と応じてしまう。こちらのほうが、「何か抱えているんだろうな。話聞いてやらないと」と思える。
なぜだろう。まつとも氏の記事を再度引用すると、「自分自身から負の感情を切り離した上で、それを「軽く」して処理したいっていう気持ちがある」。そして、受け取る側にそれが伝わるから、同情・共感を得られるのだろう。
だから、わたしは若い人の健気さが感じとれる「~み」表現が嫌いではない。「きゃわたん」が廃れつつあるように、たぶん定着はしないと思うしね。
===========引用終了
【ちょっとメモ】
〈形容詞・形容動詞の語幹に付いて名詞を作る〉
の形容動詞の例がすぐには浮かばない。『大辞泉』だと「新鮮み」、日国だと「真剣み」。どちらも「さ」もつく。「さ」は「斬新さ」「悲惨さ」などいろいろありそうだが、「み」は少ないような。後出の「いやみ」もそうか。
「現実味」は「味」のほうが一般的? これは「名詞+み」……これはレアなのかな。
ついでだから、当方のコメントも回収しておく。
===========引用開始
過去に接尾語のことはいろいろ書いていますが、こういう新しめの話題にはついていけてません(泣)。
ちゃんと書こうとするたいへんなことになります。
と言うか、書きはじめてエラみことに(なんか間違っているな)。
大前提として、Aさんの書いた「元の品詞を分けて考えないと」いうのがあります。
「動詞+み」の場合は、接尾語と言うより、マ行五段動詞の連用形を名詞として使っているはずです。
「ねたみ」「恨み」「そねみ」(すごい並びだな)……etc.
話題になっているのは「形容詞+み」です。これがどの程度許容されるのか。
「楽しみ」はかなり微妙だな。「楽しみにする」は「動詞+み」のはずですが、今後「つらみ」の類が広まると混乱のもとかも。
ちょっと特殊なのは「いやみ」かな。
きわめて特殊なのは「とろみ」でしょうか。
ってことで書いてみたいのですが、コメントは別にしてエントリー本文のブログへの転載をお許しいただけないでしょうか。新たに引用しているとどんどん長くなるもんで。
===========引用終了
「楽しみ」は「動詞+み」じゃないな。「形容詞の語幹」だ。ってことは名詞とも考えられるはずだから、やっぱ「動詞+み」かな。いずれにしても「楽しい」に接尾語がついたものではなさそう。
「つらみ」は一般にも使われる。ほとんどは「うらみつらみ」の形だろう。「つらいと思う気持ち」くらいらしいから、大先輩かな。
まず『大辞林』の記述について。〈接続する語が「さ」より少なく、対象の性質・状態・程度を主観的・感覚的にとらえる〉。前半はそのとおりだろうが、後半はどうなんだろう。何を根拠に辞書がこういうことを書くのか教えてほしい。当方は「主観・客観」の判定法は眉に唾をつけて読む。この場合も、否定する気はないから反論する気はない。でも、同意する気はもっとない。説得力のある具体例がないと、それこそ「単なる主観」による水掛け論になる。
【世間で主観と客観 辞書】
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このケーキは甘さが足りない
このケーキが甘味が足りない
後者のほうが主観的になるのだろうか。そもそも形容詞(形容動詞も副詞もかも)は主観的な要素が強い。↑の場合も、「いやいや、このケーキはとてつもなく甘い」という人が出てきて大論争になっても不思議ではない。あとはご自由に、としか言いようがない。(←オイ!)
少しだけ……たまには根拠もなく主観で書かせてもらう。
「さ」と「み」を比べると、サ行の音のほうがシャープさを感じる。一方、マ行の音のほうが温か{さ/み}を感じる。さらに言うと、「○○み」は人の名前を想起して、可愛い感じがする。若者(とくに女性)の間で流行ってるのはそのせいでは。
閑話休題。
五百田達也氏の主張。
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「自己を隠し、他人に同化しようとするきわめて日本人的な言い回しであり、現代的なコミュニケーショントレンド」かぁ。専門家はそんなスゴい分析をするんだ。単に語呂が可愛いから〈ちょっと崩した個性的と勘違いしがちな言い回し〉に〝はまった〟だけだろう、なんて考え方はしないんだ。なんか単に「可愛い」ではなく「キモ可愛い」って気もする。このかたに、「チョベリバ」って言葉が流行った理由をぜひ分析してもらいたい。
次は、まつとも氏のブログ。これはスゴい。2012年のエントリーってことも特筆モノ。
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引用主によると「学生」らしい。いまは何をしているのでしょうね。おそらく国語学か何かを専攻していたのでしょう。文体がやや生硬な気もするが、当方が「無知なだけ」って気もする(泣)。
これを読んで、まじめなことを書く気が失せた。(←オイ!)
あっちに書いたコメントの補足を少しだけ。
「いやみ」は「甘味」「苦味」「渋味」などと同様に「嫌味」と書きたい。すでに名詞として一般化している。
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===========引用開始
デジタル大辞泉の解説
いや‐み【嫌み/×厭み】
[名・形動]
1 人に不快な思いを与える言動。あてつけや皮肉。また、それによって不快感を与えるさま。「―を言う」「―たっぷりな口ぶり」
2 ことさらに気どっていて、いやらしいさま。「二枚目ぶって―な男」「凝りすぎて―な装飾」
===========引用終了
↑の2つの意味に加え、囲碁(将棋も?)用語で、少し違うニュアンスで使う。「いやみが残る」「いやみをつく」などと言う。意味としては「弱点とまではいかないけど、なんとなく嫌なところ」くらいの意味。
きわめて特殊なのは「とろみ」だろうか。
「とろい」という形容詞の現代風名詞(そもそも「名詞化」なのか?)化が「とろみ」。
フツー使われる「とろみ」は「とろい」とは無関係だろう。
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===========引用開始
デジタル大辞泉の解説
とろみ
軽くねばる状態。とろりとした状態。料理にいう。「ソースにとろみをつける」
===========引用終了
これは「とろっとした感じ」から来ているのだろう。
ちなみに○○のときに同学年に「●たにそのみ」ってちょっと可愛い子がいた。国語の教科書に「ねたみそねみ」ってフレーズが出てからしばらく、とってもつらい思いをしていたようだ。
【20180212追記】
===========引用開始
「さ」と「み」を比べると、サ行の音のほうがシャープさを感じる。一方、マ行の音のほうが温か{さ/み}を感じる。さらに言うと、「○○み」は人の名前を想起して、可愛い感じがする。若者(とくに女性)の間で流行ってるのはそのせいでは。
===========引用終了
そうか。昨今の石原人気の秘密はこんなところに……帰れ!
あまりほめられたことではないが、まつとも氏のブログを全文ひいておく。2012年10月17日
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===========引用開始
「つらみ」の分析
名詞化接尾辞「-み」についての仮説色々。何度か追記しました。
今年のはじめくらいからよくみるようになった「死にたみ」「つらみ」「ねむみ」といった表現について、接尾辞の観点から色々考えてみました。
僕のTLでこの表現そのもののニュアンスが話題になったこともあって、ちょっと気になっていたので。
1は分析道具の紹介なので、分析結果だけ関心ある人はいきなり2から読んでもらってもかまいません。
1 名詞化接尾辞「-み」の生産性と特徴について
先ほど挙げた例で使われている表現の共通点は、形容詞(助動詞「-たい」も含む)に名詞化接尾辞「-み」を付与したものだということ。この派生過程自体は、通常の「-み」の用法と同じであり、特に違反性はない。例えば「あたたかみ」「赤み」「苦み」などの表現は一般的に用いられており、また独立した語彙として辞書に記載されているものもある。なぜ、一見同様の派生条件を持っているにもかかわらず、派生可能な語と不可能な語があるのか。
・生産性と意味的特徴:「-み」と「-さ」の比較
「-み」と同じ名詞化接尾辞でよく比較されるものとして「-さ」が挙げられる。比較することで「-み」の特徴を浮かび上がらせてみる。
「-さ」の特徴
1 語彙的側面の情報
・「-さ」が接続するものを名詞化する。「-さ」は、語彙的意味を添えないが、文法的機能に関与する。
・これらの語基は状態性をもつ
2 文脈的側面の情報
・「既知情報の名詞化」と「スクリプトからの抽出」の二つの派生パターンがある。とくに前者をもとに臨時造語が行われる。(ややこしいし関係無いので詳細は省く)
(黄(2004)より)
まとめると、「-さ」はほぼ形容詞(と形容名詞)にのみ付き、また接尾辞それ自体の意味というのは持っていない。名詞化を行う機能によって、「こと」や「程度」といったニュアンスを付与するのみ。ほぼすべての形容詞につくことが可能であり、きわめて生産性の高い接尾辞であると言える。文脈的側面の特徴からもわかるように、意味的機能はほとんど文法的機能からそのまま導かれている。総じて、純粋な文法的要素としての性格が強いと言える。
続いて「-み」の機能を確認し、比較してみる。
「-み」の特徴
1 語彙的側面に関する情報
・「-み」が接続するものを名詞化するが、接続できる語基の範囲が狭い。
2 文脈的側面に関する情報
・対象から把握される主観的な状態や、感情・感覚を、総体的・全一的な状態概念としてあらわす。
(黄(2004)より)
現代において「-み」の意味領域や適用範囲は狭まっており、その機能を単純に一般化することは難しい。しかしそのことは、「-み」が文法的というよりは語彙的・意味的な機能を強く持っていることを示している。「=さ」が独立に辞書に記載されていることがほとんどない一方で、「=み」はいくつか記載されている、といった事情からもそのことが伺えそう。
「-み」は意味においては、感情や感覚を、主観的に感じられたものとして表現するようなニュアンスを持っており、「-さ」が客観的なニュアンスを持っていることと対照をなしている。このことは例えば、「赤さ/赤み」や、「やわらかさ/やわらかみ」といった表現の用例を比較することでだいたい理解できる。
その他の文献でも基本的には上記のような整理を行なっているが、独自の論点が加わっているものもある。杉岡(2005)は接尾辞を、意味的変化が主であるものと、文法的機能(品詞転換)が主であるものとに分けた上で、前者について、「これらの接辞は特定の意味をもち、意味的な整合性があればベース語の品詞を厳しく限定しない傾向が見られる。」と述べている。これらの例としては、「真剣み」や「現実味」などの名詞派生や、「とろみ」「ザラみ」などの擬態語派生などが挙げられている。これは、「-み」のスラング化を説明する上で重要な指摘である。「-み」は生産性が低いが、拡張的な付加の自由度は高い。「-さ」が品詞を超えて付加されることができないのに比べると、その差異は際立っている。意味の面についても、「-み」は感覚に対する命名であるという表現を行なっており、造語性を説明しうるものとなっている。
藤井(2008)は、「-み」の特徴である主観的な捉え方の反映を、さらにいくつかに分類している。まず、接尾辞によって表わされる主体の捉え方を「ウチ/ソト」に分け、「-み」を「ウチ」の接尾辞としている。この「ウチ/ソト」の区別は、主観的・心理的な内外だけでなく、物理的・感覚的な内外にも適用される。また、「有界性」という性質も導入している。これは本来名詞や動詞の性質であり、形容詞等には用いられないが、形容詞を名詞化する接尾辞を分析する際には有効である。有界性を持つ語は、対象の輪郭がはっきりとしており、具体的な形のイメージがなされ、具象化される。
以上が接尾辞「-み」の一般的な特徴である。文法的な特徴としては、生産性は低いが、拡張的な付加の自由度は高く、品詞を超えて名詞化することができるという点が挙げられる。意味の面では、「-み」は主観的・感覚的な性質を付与し、また、「ウチ」的な性質や有界性も付与する。
2 ネット(というか主にTwitter)上にみられる「-み」の新しい用例
・「「-み」スラング」の用例
ここからが一応本題。実際に分析するにあたって、「つらみ」とかの用例はTwitter検索で拾った。ので、サンプルの問題とか色々あると思うけどその辺は大目に見てください。
手順としては、まず『現代形容詞用法辞典』に収録された代表的な形容詞のうち50個を選び、「-み」を用いて名詞化し、用例を調べる。そのあと、Twitter検索で用例を拾い、同時に『大辞林』で正式な派生形を確かめた。後者に記載されておらず、Twitter等で複数回以上用いられている表現を、便宜的に「「-み」スラング」と名付けておく。
今回「「-み」スラング」として確かめられたものは、以下の9例。ちなみに検索したのは2012年11月のはじめごろで、結構前だから正確な日時は覚えてない。検索したときに出てきた用例をそのまま右に書いておいた。(けどこういうのって勝手に転載しちゃあかん気もする…少しだけ改変しておいたほうがいいだろうか。)
「つらみ」:「教室電波入らなくてつらみ。」「フェイスブックに会社の内定式に行ってきましたみたいな記事が溢れていてつらみ。」
「やばみ」:「体調がやばみ」「卒論やばみ」「雨やばみ」
「ねむみ」:「火曜日にしてなんだこのねむみは」「猛烈なねむみ」
「きつみ」:「授業きつみ」
「だるみ」:「午前中特有のだるみ」「留年したくないけど今世紀最大のだるみ」
「こわみ」:「バイト先に電話すんのこわみ…」「英文こわみ。。。」
「しんどみ」:「歩くのしんどみ」
「おいしみ」:「近所のパン屋の塩あんぱんのおいしみ」「はぁーーーーーーうどんおいしみ」
「かわいみ」:「サイクロン掃除機のなかでくるくるする埃たちのかわいみ」「日直って響きのかわいみ」
また、重要な用例として助動詞「-たい」の名詞化も挙げられる。こちらは、網羅的に把握することはできていないが、確認した限りでは「帰りたみ」「行きたみ」「食べたみ」「死にたみ」「~したみ」「~やりたみ」といった表現が使用されている。最後の2例に関しては、「ライヴやりたみ」「カラオケしたみ」といったように際限なく派生することが可能である。
・「「-み」スラング」の機能とニュアンス
こうした表現の機能やらニュアンスやらを分析してみたい。ここからは完全に仮説。
まず、今挙げた9例(+1例)の共通点をあぶりだす。形式的な面で言えば、これらの表現は句接辞的な用法と、形容詞の叙述に近い用法の2つに分けられる。
・句接辞的用法(「-さ」で代用可:名詞句っぽい)
「サイクロン掃除機のなかでくるくるする埃たちのかわいみ」
「猛烈なねむみ」
「午前中特有のだるみ」
・叙述的用法(「-い」で代用可:「AはBである」の形。「Aはつらい。」「Aはしんどい。」みたいな)
「教室電波入らなくてつらみ。」
「歩くのしんどみ」
「バイト先に電話すんのこわみ…」
意味的な側面では、これらの表現(特に叙述的用法)は対話相手への投げかけではなく、ひとりごと・ぼやき・つぶやき・感想のようなニュアンスを持っている。文末に「…」や「。。」といった、ため息のような表現をつけることが可能な場合が多い。また、句接辞的用法ではプラスとマイナス両方の表現が見受けられるが、叙述的用法にはプラスの表現が見受けられなかった。このことは後ほど取り上げる。
さらに、1で行った「-み」の分析結果を応用しながら、「-い」「-さ」との比較によって、「「-み」スラング」の持つニュアンスをより正確に捉えてみたい。「ねむみ」というスラングを例にとって分析すると以下のようになる。比較のために、「-み」の正しい(辞書に記載された)表現である「あまみ」も添えておく。
あまい(叙述・言明):あまさ(客観・具象性):あまみ(内的感覚・有界性)
ねむい(叙述・言明):ねむさ(客観・具象性):ねむみ(内的感覚・有界性)
ひとつひとつ比較していこう。
「あまい」「ねむい」の場合は、話者が感じた主観的な性質を、話者自身の発話という形で叙述・言明している。その意味で、話者との結びつきが強い。
「あまさ」「ねむさ」となると、そうした性質をより一般化・抽象化し、客観的に捉えたような表現となる。また、性質が具象性、モノ性を持ち、程度や多寡を表すことができるようになる。
では、「あまみ」「ねむみ」の場合はどうか。まず、「ねむい」の場合と同様、話者の感じた主観的性質から出発している。しかし、そうした主観性は、有界性によって話者から切り離され、独立したものとしての性質を持つ。
その結果、「ねむみ」を始めとする「「-み」スラング」は、奇妙な実在性や、感覚の手触りのようなものを獲得する。たしかに主観に感じられたものでありながら、どこか独立したところがあるようなニュアンスを持つ、と言ってもいい。「つらみ」「ねむみ」「しにたみ」などに感じられるなんとも言えないおかしみのある感触は、そのような主観性と有界性の一見矛盾した共存によって生み出される。もちろん、通常の文法規則に反した表現が用いられていることによる違和感というのも、そうした奇妙な感触を際立たせるのに役立っている。
「「-み」スラング」には、主観的な感覚を結晶化した言葉をタイムラインの流れへと放流していくような感覚がある。「私」という主観から切り離された「モノ」へと感覚や感情を加工することで、そうした感覚を共有物にしようとするような企図があると言えそうだ。用例に挙がっている表現がどれも共感を必要とするようなものであることに注意したい。「「-み」スラング」は、「私」という人格・主体に対する共感を回避し、「私」から切り離された感情・感覚それ自体へと共感を向かわせるような表現と言えるのではないだろうか。そしてそのような感情表現の在り方はおそらく、Twitterのインターフェイスが要請するような発話のスタイルに適応した結果、生まれたものなのだろう。
最後はほとんど憶測というか、きれいにまとめようとした感ありますが、一応こんなところで。
反例とか、もっと良い説明の図式があったら、ぜひまとめたいのでコメントなりリプライなりしてくださるとうれしいです。
※追記
動詞の活用であるかもしれないものについては、怪しかった(先生に聞いても判然としなかった)ので省きました。「おかしみ(おかしむ)」「なつかしみ(なつかしむ)」「さびしみ(さびしむ)」等。あとは、語源というか古語の文法に遡ると色々見えてきそうですが、これ以上は暇つぶしの範疇を超えるので…。
※追記2
「叙述的用法にはプラスの表現が見受けられなかった。このことは後ほど取り上げる。」と書いた箇所をすっかり放置していたので、一応追記。
一言で言えば、叙述的用法は「私はこういう状態です」と表明する用法。で、それを言いたいんだけど直球で言いたくないから、屈折した表現が生まれたのかなと。「私」や「私の感情」を叙述することへの抵抗感というか。
用例や個人的な実感から推察するに、結局のところ、わざわざ「つらみ」とか「しにたみ」とか使うのって、「つらい」「しにたい」ってそのまま言うのが憚られるからなんですよね。
そのつぶやきを読む人に負の感情が伝染してしまう可能性を考えるとさらにつらくなりそうだし、単純につらいつらい言ってると自分の中でも深刻さが増すような感じがするし。自分自身から負の感情を切り離した上で、それを「軽く」して処理したいっていう気持ちがあるのかなと思います。負の感情をただ吐き出すのでもなく、溜めこむのでもなく、ネタっぽく変換して軽減することで、精神の健康を保つというか。
そういうわけで、「-み」の叙述的な用例にはマイナスなものが多くなる、と。実際、「ねむみ」や「うれしみ」等の、単純にかわいかったりプラスだったりする言い方って、後から派生的に現れてきたような気がする。やっぱり「つらみ」とかは、この辛さ、死にたさをどう処理したものか、という屈折した切実さから必然的に生まれたんじゃないかなと思います。
参考文献
大石強・西原哲雄・豊島庸二編『現代形態論の潮流』、くろしお出版、2005年。
黄其正『現代日本語の接尾辞研究』、溪水社、2004年。
藤井佳子「形容詞名詞化の接尾辞-SAと-MIの違いの認知論的再考察」http://www.princeton.edu/pjpf/2008proPDF/8%20Fujii_PJPF08.pdf
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