「こども」は「子供」「子ども」どちらもいいですか? | tobiの日本語ブログ それ以上は言葉の神様に訊いてください

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 質問の内容。
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昨年文科省が「こども」の表記を「子供」にするという決定があったように思います。今後「こども」という言葉を文書内で使う際には「子供」「子ども」どちらの表記でも構わないのでしょうか?

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No.4

  • 回答者: 1311tobi 回答日時:2014/04/29 11:59

 表記の問題ですから、「こども」でも「子ども」でも「子供」でも「間違い」ではありません。

 どういうルールを適用するか、というだけのことです。新聞などは「子供」にしています。教育現場では(主として誤解が原因で)「子ども」としていました。鉄道会社などは「こども」が多いようです。

 たしかに文部科学省は昨年「子供」に統一したようです。

http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1902T_Z10C …

 

 教育現場は混乱しませんかね。教師が「子供」なんて書いたら、うるさい人が噛み付きかねません。多少もめたあと、現状どおり「子供」は使わないってことになると思います。

 

 詳しくは下記をご参照ください。

表記の話【2】──「子供」か「子ども」か

http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-956.h …

 以下は一部の抜粋(重言)。

 

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 結論を先に書くと、「子供達」でも間違いではありませんが、「子どもたち」にするほうが無難です。

 

 基本的には「1」のかたのコメントのとおりだと思いますが、若干補足します。

 教育漢字配当表だと、

  子……1年生

  供……6年生

  達……4年生

 だと思いますが、この話はちょっと違う気がしているので考慮しないでおきます。

 もし、配当学年の関係で制約があるならば、「配当表」に従えばいいでしょう。

 

●「達」か「たち」か

(略)

 

●「子供」か「子ども」か

 近年は「子ども」と書くことが多いようです。とくに教育現場では「子ども」を原則にしていることが多いと聞きます。

「子供」を避けるようになった理由も聞いたことがありますが、 もともとは誤解によるものだと思います。

 

1)「ども」には見下した感じがある

「1」のかたがひいている辞書にあるように、「ども」には見下した感じがあるようです。「バカ者ども」「愚か者どの」といった使い方をします。手元の『広辞林』だと、「見下す」のニュアンスをふれずに「女ども」という用例が出ていますが、どうかと思います。

 ちなみに「ら」にも見下した感じがある、という説に関しては、個人的には疑問です。

 

2)「ども」は謙譲の意味がある

「私ども」などと使う場合です。

 

1)2)とも、漢字で書くと「共」のはずですから、「子供」の表記を避ける理由にはならないと思います。

 

3)「供」は「お供」の「供」だから避けるべきだ

 これも眉唾ものです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E4%BE%9B

 

 以上、1)~3)の理由は論理的に正しいとは思えません。

 とはいえ、現状で「子供」の表記はよくない、と考える人がいる以上、避けるほうがよさそうです。

(略)

 

 下記のような論文もある。

【国語科教育の基礎学の構築(I) 漢字の基礎-「子ども」・「子供」 の表記を基にして-】

http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream …

 

 結論?はP.9~に書いてある。

 よく読むと疑問も湧いてくる。

(略)

================引用終了

 

 ↑の論文のリンクが切れている。

 ↑の論文から引用している文献をひいておく。ダウンロードはできるがリンクが張れない。ダウンロード後にコピペするとかなりバケる。こういう場合のリンクはどうすればよいのだろう。

【「子供」と「子ども」の表記をめぐって ―教育行政及び教育現場での表記のあり方― 牛見 真博】

 

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5 先行研究に見る「子ども」表記の理由


教育行政や教育現場において「子ども」表記が幅を利か
せている理由について、清野隆氏は国語科教育の立場で、
現場の教師や大学生によるアンケート結果も踏まえ、様々
な角度から論じている14)。以下に、その理由について端的に
要約しながら掲げてみたい。
①「供」を6年生で学ぶ漢字と知らない教師がいる。
②小学校の教科書に「子ども」とあることが多いため、
教師がそれを表記の規準と思い込んでいる。
③①及び②に指導を受けた児童生徒が社会に出ても
「子ども」と表記する。
④放送・新聞などの関係者が、学んできたことを基に
「子ども」と表記する。これが広く流布し、一般化
される。その結果、多くの人が「子ども」の表記に疑
いを持たなくなる。
⑤国語審議会の答申を受けた内閣告示(『常用漢字表』)
であるにもかかわらず、広く流布していることを正
しいと思い込んでいる人が多いため、法令、行政の
文章にも「子ども」の表記が多くなる。
⑥「子ども」は「子」に接尾語「ども」がついたものと
考えるという説がある。
⑦「供」は、当て字の要素が強いため、用いないほうが
よいという説がある。
⑧「供」は、字源を考えるとよくない漢字であり、した
がってひらがなのほうが適切だという説がある。
⑨すべてを了解していながら、「子ども」と表記する(こ
れについては個人の思想の問題であるとして、論じ
ない立場を取っている:筆者注)。
清野氏は①~⑧の要因を踏まえた上で、次のように述べ
ている。

清野氏は①~⑧の要因を踏まえた上で、次のように述べ
ている。
これら①から⑧までの要因が多様に入り組んで、「こど
も」は「子ども」、あるいは「子供」と表記されるよう
になったと考えられる。⑥から⑧の説のなかで「こど
も」の表記に関して、「子ども」と表記する学問的な論
述を現段階で管見することはできなかった。しかし、
学生、先生などに聞くとあいまいであるが、⑥から⑧
のいずれかに当てはめて理由を説明する傾向が強いの
である。

===========引用終了

 

 よく探すと、元論文もあったが、やはりダウンロードは不可。

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国語科教育の基礎学の構築(Ⅰ) :

字の基礎-「子ども」・「子供」の表記を基にして

 

④なぜ,「子供」でなく「子ども」と表記されるのか
では,なぜ「子ども」と表記するようになってしまったのか。
(1)学習指導要領の学年別漢字配当表の6年生に「子供」の「供」とあるのを知らない教師が多く「子ど
も」と表記するものだと思い込んでいる。理解しているのであれば,「子供」と表記し,振り仮名を付
して,「子供」と小学校6年生あるいは中学生になったら書くことを指導できる。
(2)小学校の教科書に「子ども」と表記していることが多いので,それが学校教育で教える表記の規準だ
と教師は思い込んでいる。
(3)(1)及び(2)に指導を受けてきた児童・生徒は社会に出ても「子ども」と表記する。
(4)社会に出て,特に放送・新聞など公共性の高い職業に就いた人は,学んできたことを基に「子ども」
と表記する。これが広く流布され,一般化されていく。結果的に,教える教師及び多くの人に「子ども」
と表記することに疑いをもたないことになっていくと考えられる。
(5)国語審議会の答申をうけて,内閣告示がなされても罰則規定もないし,各省庁への通達など目を通し
ていても,疑問を持つより子供のころの学習したこと,世の中に多く流布していることが正しいことだ
と思い込んでいる。それが,法令をはじめ官公庁の文章に「子ども」の表記が目に付くのではないかと
考える。
(6)②で引用した文化庁の説明を再読すると,「子ども」は「子」に接尾語がついたものと考える説がある。
接頭語,接尾語とは何か。「お米」「素顔」「学者ぶる」のように,特定の語につく。「おビール」「素本」
は誤用であり,さらに「学者ぶる」「金持ちぶる」と用いることがあっても,他の語にはつかない。つ
まり,同じ性質の語であっても,その付き方に慣用的な制限があり,接頭語,接尾語を切り離すことは
なく,それだけで完全な一語扱いになる語である。したがって,特に明治以後「子供」と表記してきた
清 野 隆
のである。また,「大人」と同様に「子供」という単語は普通名詞に類別される。「大人」と「子供」は
性差を表さず年齢差のみを表し,一般的には「大人」の側に立ったときの「子供」であり,逆に「子供」
の側に立ったときの「大人」である。つまり,「大人」の対義語は「子供」であり,「子供」の対義語が
「大人」である。具体的に用例で示すと,「子供の側から……今の大人はもっとしっかりしてよ。」と用
い,「大人の側から……今の子供は将来の希望や夢が小さいのではないか。」と用いられる。このような
ことから,表記においても対義語の片方の語が漢字に平仮名の語構成などあり得ないといってもよい。
『銀の匙』を書いた明治の作家である中勘助は作品のなかで「子供」と表記している。同様に昭和の作
家である加賀乙彦は大作『永遠の都』の作品のなかで「子供」と表記している。そして,現代の作家で
海燕新人文学賞を受賞後,芥川賞受賞し,読売文学賞受賞した作家である小川洋子は,その後本屋大賞
を受賞した。その作品『博士の愛した数式』で,次のように表記している。なお,小川は2007年から芥
川賞の選考委員でもある。
子供は大人よりすっと難しい問題で悩んでいると信じていた。ただ単に正確な答えを示すだけで
なく,質問した相手に誇りを与えることができた。(略)彼はルートを素数と同じように扱った。
素数がすべて自然数を成り立たせる素になっているように,子供を自分たち大人にとって必要不可
欠な原子と考えた。自分が今ここに存在できるのは,至些たちのおかげだと信じていた。(注①)〔注
下線は筆者〕
作家の表現は,常用漢字表の規準で考えるならば,「芸術等の各専門分野の個々人の漢字の使用」に
あたるとしたら,常用漢字表の枠を超える漢字の使用が可能である。それにもかかわらず,多くの作家
は「子供」と表記し,学校教育及び教育の専門の人が「子ども」と表記するのは,なぜか。
(7)「供」は当て字の色彩が濃いから用いない方がよいという説がある。漢字の構成及び使用法に分類し
たものを六書という。現行の小学校の学習指導要領では第3学年及び第4学年の言語事項の「イ 文字
に関する事項」のけ)に「漢字のへん,つくりの構成についての知識をもつこと。」とある。/ト学校では「象
形・指事・会意・形声」の範囲内で教えることが多く,それに中学校の1年生で「転注・仮借」を加え
て,教えることが多い。その背景にあるのが六書である。六書の一つである「仮借」は意味に関係なく,
同音の語に用いることが多い。例えば「豆」は本来肉を盛る器,あるいは神様に供える食べ物を盛る器
を意味する。音トウは同じトウの音を有する「まめ」に転用しただけである。「豆(まめ)」と何も関係
ないのである。音を当てただけである。つまり,当て字である。しかし,一般に水に浸し柔らかくした
大豆をすりつぶして造り上げていった物を豆腐という。字源まで遡って当て字かどうかを吟味して考え
ていないのである。
(8)「供」の字は,字源を考えるとよくない漢字である。したがって平仮名の方が適切だという説がある。
漢和辞典を見ると解字という欄がある。「供」の字の解字を読むと「形声。人+共。音符の共は,そな
える意味。人を付して供える意味。」などと記され,どの漢和辞典も類似の説明が付いている。つまり,
人身御供の意が「供」にあると考えてよい。しかし,現在,漢字を使用するときに,解字あるいは字源
まで遡って考えるであろうか。例えば,「夢」と類似した字に「尭」がある。熟語では「尭去」と書き,
大皇及び皇后などがお亡くなりになったときに用いる字である。「夢」の字源について漢字の専門家で
ある阿辻哲次は,
「病」と同じく ≪「≫を構成要素とする漢字には,他に「夢」がある。これも現在の字形とは大
きく異なっているが,「夢」は寝台の上に角のようなものをつけた人間が寝ている形をかたどった
字である。
「夢」は現代の日本人に非常に好まれる漢字らしい。写真写植の大手メーカである㈱写研がかつ
10
国語科教育の基礎学の構築(Ⅰ)
ておこなっていた「漢字読み書き大会」という漢字コンクールの会場でアンケートをとった結果を
まとめた,「日本人が好きな漢字」というデータがある。(略)最近二回のアンケートでもっとも人
気あったのは「夢」だった。(注②)
なぜなら,「死」や「悪」は暗いイメージで人気はなく,「夢」は好ましく明るいイメージを抱かせる
字であるからである。さらに,阿辻氏は,
宗教的色彩の非常に濃かった古代では,各国のシャーマン的な性格をもった巫女がおり,戦争な
どに際してはまず巫女による呪いが相手の国に対してかけられた。ベットに寝ている人間は今まさ
に敵の巫女によって呪いがかけられるところであり,そしてその結果として脳裏に描かれる架空の
映像が「夢」なのである。
つまりそれは,しかけられた悪夢であって,時として呪われる対象である人物を殺してしまうこ
とすらあった。こうして悪夢にうながされてやがて死んでしまうことを,漢字では「菱」という字
で表わした。「尭」が≪草≫すなわち「夢」上部と≪死≫とからなるのはそのためである。(注③)
つまり,「夢」の字は字源を遡ると,極めて凶の字であり,それも公的な要素を帯びていたことになる。
現代のように「将来に夢をもとう」などとは使えないのである。西郷信綱氏は,「夢」の公的なものと
私的な区切りを,
私は平安末期ないし鎌倉初期あたりを以て一区切りとし,話をそれ以前の時期に限りたい。夢の
神性のが信じられた時期の下限は,どうもそのへんにあるらしく目測される。(注④)
としたうえで,古代の夢については個人的な「夢」でなく,公的なものとして「夢」を論じている。
それも,悪夢であるという。本論で指摘をしたいことは,「夢」という字はどのような字源であったか
ということである。古典の代表的な作品,源氏物語の葵の巻きには六条御息所が夢のなかで魂が葵の上
にとりつくさまが描かれている。まさに生霊あるいは死霊である。それこそが「夢」に他ならないと考
える。しかし,現代ではだれも「夢」を公共的なもの,あるいは呪いとは考えない。と同様に「供」の
字の字源まで遡っては用いないのである。
(9)すべてを了解していながら,「子ども」と表記する。
表記に関することが国語審議会の答申をうけて,内閣告示で示されることは,表現の国家管理に繋が
る恐れがあると考える人がいる。それは思想の問題であり,本論での問題にはなじまないので,論ずる
ことの対象外とする。
これら(1)から(8)までの要因が多様に入り組んで,lこども」は「子ども」あるいは「子供」と表記される
ようになったと考えれる。(6)から(8)の説のなかで「こども」の表記に関して,「子ども」と表記する学問的
な論述を現段階で管見することきできなかった。しかし,学生,先生などに聞くとあいまいであるが,(6)か
ら(8)のいずれかに当てはめて理由を説明する傾向が強いのである。

===========引用終了

 

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