20250707 下記のやり取りをどう思う? 【「雨が降れば ずっと家にいようと思います。」について、地方によっては揺れがあるが、誤用とされている、】 https://oshiete.goo.ne.jp/qa/14116658.html ===========引用開始 質問者:park123質問日時:2025/07/05 11:20回答数:2件 山下好孝が、次の5例文について、地方によっては揺れがあるが、誤用とされている、と書いています。 (私は、これらの例文は誤用とまでは思いませんが、しっくりときません) 雨が降れば ずっと家にいようと思います。 雨が降れば 家にいてください。 雨が降れば 家にいた方がいいです。 雨が降れば 外に出ないでください。 雨が降れば 外に出てはいけません。 質問は、なぜ誤用とまでなるのでしょうか? ===========引用終了 これはよくある質問で、例によって下記のようなコメントが入っている。 ===========引用開始 No.1 回答者: アスナロウ 回答日時:2025/07/05 13:14 これらの文では、「~ば」ではなく、「~たら」を使用するべきということです。 「ば」は話者が現実とは異なる仮定/条件の世界に観念的に移行し、事実として仮定/条件を表現した後、即現実に戻り結論を提示するので、推量、未来、当然などの表現が続かなければなりません。従って、正しくは次のような表現にならなければなりません。 雨が降れば ずっと家にいるでしょう。 雨が降れば 家にいるはずです。 雨が降れば 家にいた方がいいでしょう。 雨が降れば 外に出ないようにしましょう。 雨が降れば 外に出るべきではありません。 「たら」の場合は、話者が現実とは異なる仮定/条件の世界に観念的に移行し、事実として仮定/条件を表現した後、そのままその世界に留まったまま結果を述べ現実には戻らないために、下記のような提示された結論の表現が正しいということです。 雨が降ったら ずっと家にいようと思います。 雨が降ったら 家にいてください。 雨が降ったら 家にいた方がいいです。 雨が降ったら 外に出ないでください。 雨が降ったら 外に出てはいけません。 質問者が、「私は、これらの例文は誤用とまでは思いませんが、しっくりときません」と言われる理由もここにあります。」 詳しくは、 今井 幹夫 (著) 『非常識の日本語―三浦つとむ認識論による日本語解明』 (社会評論社:2015/3/24) を参照下さい。■ ===========引用終了 肝心の『非常識の日本語―三浦つとむ認識論による日本語解明』の記述がないんじゃさぁ。 この問題に関しては下記のやり取りが参考になると思う。 【「ば」は後ろには依頼などの表現は付けられない、主語が違う場合、つけられるといいますが、つまり、「雨が】 https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11896534.html ===========引用開始 「ば」は後ろには依頼などの表現は付けられない、主語が違う場合、つけられるといいますが、つまり、「雨が降れば、窓を閉めてください」という文は文法的には正しいですね、確認したいんですが、教えていただければ助かります 質問者からの補足コメント 皆さん、はっきり言えなくて、すみませんでした、中国の先生が編集している参考書に、「s1+ば、s2」という文型が書いてありますが、「s1の動詞は状態系述語文、あるいは、前後の主語が違う場合は、後ろに依頼文とか、意志文とか、命令分とか付けられないという制限があって、でも、テキストの後ろに「❌雨が降れば、窓を閉めてください」と強調しました、どうしても理解できなくて、皆さんに伺ってみました、丁寧なご返信を、誠にありがとうございます ===========引用終了 このときにはいろいろなコメントが入っているけど、下記の庭先生のコメントに尽きる気がする。 ===========引用開始 No.10 回答者: nwsaburoo 回答日時:2020/09/16 23:51 難しい問題ですね。 まず、いくつか資料を。 1 松岡弘監修(2000)『日本語文法ハンドブック』スリーエーネットワーク 「~ば」の文では、原則として、後件に意志・希望・命令・依頼などの表現が来ることはありません。この点で後に述べる「~たら」とは異なります。 (5){×帰宅すれば、/帰宅したら}、必ずうがいをしなさい。 ただし、前件の述語が状態性の場合((6))、および前件と後件の主体が異なる場合((7))は例外となります。 (6) わからないことがあれば、いつでも聞いてください。 (7) 父が許してくれれば、彼と結婚するつもりです。 (p.222) 2 蓮沼・有田・前田(2001)『セルフマスターシリーズ7 条件表現』くろしお出版 バには次のような制限がある。タラにはこのような制限はない。 1.Yが依頼・命令・意志・希望・勧め・許可・義務などを表すときには、 Xは状態述語だけが使える。 X Y ○時間があれ バ 仕事を手伝ってくれ。 (依頼) ○時間があっ タラ 仕事を手伝いなさい。 (命令) ×あした来れ バ 先生の部屋に寄ろう・寄りたい。(意志・希望) ○あした来 タラ ×二、三分たて バ 足したほうがいい (勧め) ○二、三分たっ タラ ふたをあけて水を 足していいです (許可) 足さなければならない(義務) 3 庭三郎「現代日本語文法概説」から (1999) 49.3 ~ば (略) 「~ば」の制限としてよく言われるのは、主節(後件)の述語に制限があることです。 命令や強い意志などを表わす文はだめです。 ×間違いを見付ければ、すぐ直しなさい。(→たら) ×ご飯を食べれば、散歩に行きましょう。(→たら) ?雨が降れば、中止にしよう。 しかし、前件の述語が非意志的な状態の時は、使えます。 次の文に間違いがあれば直しなさい。 何か不満があれば、どうぞ言って下さい。 食べ物が足りなければ、買いに行きましょう。 帰りたければ、帰りなさい。 (「希望」は意志ではない) 安ければ、たくさん買おう。 ×風邪をひけば、すぐ薬を飲みなさい。(○ひいたら) ?彼がいれば、連れてきて下さい。 (○いたら) ◇コメント この「~ば」に関する「制限」は、けっこう昔から言われているものです。 後件に意志・希望・命令・依頼などの表現が来ることはありません。(『ハンドブック』) ただし、『ハンドブック』が書いているように、「前件の述語が状態性の場合」は「例外」となり、制限がなくなります。(私は「非意志的な状態」としました。) これを言っておかないと、「あてはまらない例文がいくらでも考えられます」。 No.6の回答の「~よければ、~」は状態性ですね。No.3の(1)「あれば」も状態性です。 もう一つの「例外」、「前件と後件の主体が異なる場合」については、よくわかりません。 雨が降れば、試合を中止する。 は、この例ですが、 雨が降れば、試合を中止しよう。 雨が降れば、試合を中止しなさい/しろ。 とすると、どうでしょうか。「ちょっと引っかかるけど、OK」でしょうか。 「~たら」にすれば問題ないことは明らかです。 以上が「バの制限」に関する説明の基本ですが、実際に例文を検討していくと、なかなか難しいところがあります。 「~しよう」という強い意志はダメでも、「~する」という「終止形」による「意志」だと言えてしまいそうだとか、依頼の「~てください」はけっこう言える、とか。 (私の「文法概説」では「命令や強い意志など」として、「依頼」は抜いてあります。) 質問の例文、 「雨が降れば、窓を閉めてください」 は、OKと言う人がけっこういるようですが、私には?です。 言われてわかるし、「間違いだ」とは思いませんが、自分ではそう言わないな、と思います。 文法の問題は、○か×かがはっきりしている問題もありますが、その中間がいろいろあって、程度問題に過ぎないこともよくあります。 また、「そういう使い方が多い/少ない」だけだとか、文体によって違うとか、世代によって違うとか。 条件表現の「文法性/適格性」の判断は、人により多少違い、方言によってもけっこう違うようです。 関西の研究者が話しことばの条件表現について書いた論文で、どうも内省の違いがあるな、と感じたことがあります。 なお、話しことばの文法が方言によって違うのは当然のことです。形式が違えばはっきりしますが、形が同じだと、その違いが見えにくくなります。 それにしても、上に出した例文で、 ×間違いを見付ければ、すぐ直しなさい。(→たら) ×ご飯を食べれば、散歩に行きましょう。(→たら) (「ご飯を食べる」のは「私達」) これらをOKだと言う人は、私とは頭の中にもっている「文法」が少し違うのだな、と思うしかありません。そう言う人が多ければ、私は少数派になります。 saburoo ===========引用終了 どう思う?
ご提示のやり取り(特に「雨が降れば、ずっと家にいようと思います。」の文法性を巡る議論)については、以下のように考えます。
◆総論:
この問題は文法書上の「制限」と実際の使用感覚がかみ合っていない典型例であり、
・一方で「~ば」の後件に意志・命令・依頼などが来にくい(とされる)という通説的制限
・他方で、自然に聞こえる/許容される例も実際には少なくないという現場感覚
がぶつかりあっている構図です。
庭三郎氏のコメントが非常にバランスが取れており、以下の点で高く評価できます:
◆庭三郎氏の見解:要点
- 「ば」は意志・命令などを後件に取りにくいが、例外あり
- 例外①:前件が状態性(非意志性)であればOK
- 例外②:主語が異なるとOKの場合がある(ただし不明確)
- 「ば」で依頼・命令を使うと違和感を覚える場合が多いが、完全に×とは言いがたい
→たとえば「わからないことがあれば聞いてください」は非常によく使われる。
- 文法性の判断には“程度”の問題がある
→「絶対に×」と言い切ることはできず、文脈・文体・地域差・世代差が大きく影響する。
- 自分が「言わない」からといって、「誤用」と断定するのは早計
◆一方、「アスナロウ」氏のコメントの問題点
このコメントは一見論理的ですが、実は下記の点で問題が多いです:
【1】無根拠な「構文の哲学的説明」
「観念的に移行し、現実に戻り、結論を提示する」などの記述は、三浦つとむ流の観念論的説明を借りた形ですが、これは記述文法としての有効性に乏しい。
→使用実態の分析ではなく、概念操作に終始しており、予測可能性や再現性がない。
【2】例文修正が恣意的かつ文体的な好みでしかない
「雨が降れば家にいようと思います」→「降ったら」に直せ、というのは好みの問題。
→「ば」で不自然というが、実際にこういう構文は会話やエッセイでよく出る。
【3】『非常識の日本語』を引き合いに出すが、実証的な裏付けがない
肝心の該当記述が出てこないため、単なる権威付けのための名前借りにしか見えない。
◆あなたの提示した2つの「教えて!goo」質問の違い
- 2025年の質問(park123氏):
→「なぜ誤用とされるのか」がテーマ。これに対してアスナロウ氏は観念的構文論で答えており、質問者の疑問を解決していない。
- 2020年の質問:
→こちらはかなり明快。庭三郎氏のように実例と辞書的・通説的文法を抑えつつ、「揺れ」があることを認め、安易な断定を避けている。
◆結論
❖「雨が降れば、ずっと家にいようと思います」
→不自然と感じる人が一定数いるが、「誤用」と断定すべきではない。
→むしろ文体や方言、文脈依存の**「グラデーションのある許容範囲」**として扱うべき。
- 「~ば」は確かに制限が多いが、それを絶対視するのは実用的ではない。
- 教師・指導者が言うべきは、「たらの方が無難だが、ばも使われることがある」くらいの柔軟な姿勢。
- アスナロウ氏のような「白黒つけたがる断定」は、むしろ学習者や一般話者の混乱を招く。
◆補足
「雨が降れば、家にいようと思います」という言い方は、少し文語的・内省的であり、エッセイや日記的な文体であればむしろ自然に感じられることもあるため、「文法誤用」扱いは適切でありません。
必要なら「ば文に来る後件の文型調査(例文コーパス)」や「文体別・地域別の許容度」も掘り下げ可能です。ご希望あればお知らせください。
念仏コメントに関しては、 https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11896534.html のときに庭先生が手厳しく書いている。 両方のコメントをひく。 ===========引用開始 No.14 回答者: アスナロウ 回答日時:2020/09/17 11:51 No.10/No.11 の回答について No.10 >>難しい問題ですね。 これは、いつもの得意の逃げの回答で、要は判らないということを告白しているだけです。後は、他人の引用にあれこれ言っているだけです。 No.11 >>おそらく違うと思います。 これも何の論証もない主観的な思い込みです。 以下にこれらの誤りを具体的に指摘しておきます。 「ば」と「たら」の本質的な相違はその意義、主観のありかたの相違、つまり観念的な話者の移動の相違にあります。 「仮定」というのは、眼前の現実の認識ではなく想像、想定です。この想像と対峙する話者は現実の話者ではなく、観念的に分離、移行した観念的な話者です。 「ば」は仮定のために観念的に分離、移行した観念的な話者は、仮定した後、直ぐに現実に戻ります。これに対し、「たら」は観念的な話者がそこから現実に戻ることなく、その仮定が既定、つまり実現したものとして次の認識、記述に進みます。これが、「ば」と「たら」の本質的な相違です。 ○時間があれ バ 仕事を手伝ってくれ。 この場合、「時間がある」という想定をした観念的な話者は、「ば」と仮定した後に、現実の話者に戻り、そうした場合には「仕事を手伝ってくれ」と依頼しています。 これに対し、 ○時間があっ タラ 仕事を手伝いなさい。 「時間がある」という観念的な仮定の立場のまま、それを既定とし、次に進みます。したがって、「時間がある」という場面を構成し「仕事を手伝いなさい」と命令をすることができます。しかし、「ば」の場合には、すでに「時間」がない現実に戻っているため、「手伝ってくれ」と依頼、お願いをする他ありません。 ○二、三分たっ タラ ふたをあけて水を 足していいです (許可) も、「二、三分たっ」た場面に観念的な話者は対峙しているので、「ふたをあけて水を 足していいです」と許可することができます。 ○ 二、三分たっ タラ ふたをあけて水を 足します。 (肯定判断) と、次の事態に進むことができます。しかし、 ☓ 二、三分たて バ ふたをあけて水を 足します では、事態は進展せず誤まった表現になります。 >>「~ば」の制限としてよく言われるのは、主節(後件)の述語に制限があることです。(No.10) これは単に現象、結果を述べているだけで、なぜ「制限がある」かを明らかにするものではありません。それは、「ば」と「たら」という語の意義が全く理解できていないからです。 >>命令や強い意志などを表わす文はだめです。 これがだめなのは、上記のとおり、事態が成立していないために「命令や強い意志」を表わすことはできないということです。 >>前件の述語が非意志的な状態の時は、使えます。 述語に「非意志的な状態」などありません。述語は判断により格付けされた述格の語であるに過ぎません。 ○次の文に間違いがあれば直しなさい。 ○何か不満があれば、どうぞ言って下さい これらの文で、主節の命令、依頼が成立するのは「間違いがあれ」「不満があれ」というのは、未定の事態で、「仮定」としての意義を持っているからです。「見付けれ」「食べれ」は行為しなければ「事態」が成立しないために「ば」では「仮定」となりえないからで、意志など何の関係もなく、客体のあり方の相違に過ぎません。 >>◇コメント この「~ば」に関する「制限」は、けっこう昔から言われているものです。 それが何故かを明らかにできないために昔から、現在まで単に現象、結果の印象を並べているだけです。 >>以上が「バの制限」に関する説明の基本ですが、実際に例文を検討していくと、なかなか難しいところがあります。 これこそ、単に現象、結果の印象を並べているだけであるため、因果関係を明らかにすることができず、「なかなか難しいところがあります」などといつもの逃げ口上を並べる結果になるしかないことを露呈しています。 言語は話者の認識の表現であり、語は意義を表わしています。この表現過程の認識を捉えることなく、結果の解釈をいくら繰り返しても正しい理解には到達できません。 >>だなたか、その詳しい説明のサイ「トを教えてください。(No.8) 残念ながら、現在この点を明らかにしたサイトや、研究書はありませんが、下記に唯一具体的な解明がされているので、参照下さい。 今井 幹夫 (著) 『非常識の日本語―三浦つとむ認識論による日本語解明』 (社会評論社;2015/3/24)■ ===========引用終了 ===========引用開始 No.18 回答者: nwsaburoo 回答日時:2020/09/17 21:33 No.14の「回答」について (No.10のsaburooです) いや、驚きました。いまどき、こんなデタラメを思いつく人がいるんですね。 驚きの新鮮なうちに、ちょっとコメントを。 (No.14から引用) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「ば」と「たら」の本質的な相違はその意義、主観のありかたの相違、つまり観念的な話者の移動の相違にあります。 「仮定」というのは、眼前の現実の認識ではなく想像、想定です。この想像と対峙する話者は現実の話者ではなく、観念的に分離、移行した観念的な話者です。 「ば」は仮定のために観念的に分離、移行した観念的な話者は、仮定した後、直ぐに現実に戻ります。これに対し、「たら」は観念的な話者がそこから現実に戻ることなく、その仮定が既定、つまり実現したものとして次の認識、記述に進みます。これが、「ば」と「たら」の本質的な相違です。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (引用終わり) いやー、すごいですね。少しずつ見ていきましょう。 つまり観念的な話者の移動の相違にあります。 「観念的な話者の移動」? なんじゃそりゃ。「観念的」な話のようです。 「仮定」というのは、眼前の現実の認識ではなく想像、想定です。 これはその通り。No.14の中で、唯一、まともな内容の文です。 この想像と対峙する話者は現実の話者ではなく、観念的に分離、 移行した観念的な話者です。 ひぇ? 「観念的に分離、移行した観念的な話者」? そんなもん、誰が、どうやって検証したんでしょう? 根拠、証拠は?? 言語学は科学なんですが。 上の一文、どうやって「立証」あるいは「論証」するんでしょうか。 なーーんにも、「証拠」「根拠」はないんでしょうね。 ただ、そう言っている人の「空想」「妄想」に過ぎませんね。 「ば」は仮定のために観念的に分離、移行した観念的な話者は、 仮定した後、直ぐに現実に戻ります。 はー。戻るんだ。どうやって? キントウンかなんかに乗って? どうしてそれがわかるの? 誰がそうわかるの? これに対し、「たら」は観念的な話者がそこから現実に戻ることなく、 その仮定が既定、つまり実現したものとして次の認識、記述に進みます。 これが、「ば」と「たら」の本質的な相違です。 「たら」だと戻らない? 誰がそれを確かめたの? 「本質的な相違」ですか。「本質的」なんて語を使っているあたり、相当怪しいですね。 「条件表現の<本質>とは何か」 人をごまかす人は、「本質」とよく言うんですよね。 以上、要するに全部でまかせ、デタラメです。 何の根拠、言語事実に基づく証拠もなく、誰かさんが考えた妄想に基づく「ファンタジー」です。 (再びNo.14から引用) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ○時間があれ バ 仕事を手伝ってくれ。 この場合、「時間がある」という想定をした観念的な話者は、「ば」と仮定した後に、現実の話者に戻り、そうした場合には「仕事を手伝ってくれ」と依頼しています。 これに対し、 ○時間があっ タラ 仕事を手伝いなさい。 「時間がある」という観念的な仮定の立場のまま、それを既定とし、次に進みます。したがって、「時間がある」という場面を構成し「仕事を手伝いなさい」と命令をすることができます。しかし、「ば」の場合には、すでに「時間」がない現実に戻っているため、「手伝ってくれ」と依頼、お願いをする他ありません。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (引用終わり) こんなデタラメを読んで、なんとなくわかったような気になって、「納得」してしまう人がいるのでしょうかねえ。そういう人は詐欺に気をつけましょう。 でも、いわゆる「霊感商法」だって、もう少しホントらしい「説明」をするんじゃないかしら。 以下、No.14の「回答」はまだ続きがありますが、むだなのでここでやめます。 しかしなあ、「科学的な言語学」とか言っている人物が、こんな途方もないデタラメを書いて、(「霊感商法」の詐欺師たちは自分のウソを知っているはずですが)それを本気で信じているのかもしれないと思うと、何とも言えない気分になりますね。 元ネタは三浦つとむですかね。三浦も相当メチャクチャなことを書きますからね。 何の言語学的根拠もなしに。 saburoo ===========引用終了 このときは何も反論できずに別な話をしている。 そして今回も同様のことを繰り返す。 何を言ってもダメなんだろうね。
おっしゃる通り、この件は非常に典型的な「議論にならない人」との応酬の例ですね。以下、整理して所感を述べます。
◆問題の構図
- アスナロウ氏:三浦つとむ流の「観念論的説明」(=言語事象を心理・哲学用語で記述し、それ自体を論証なしに真理とする)を振りかざすが、具体的な文法的根拠や実証データには触れない。質問の趣旨ともずれており、相手を「理解が浅い」「逃げている」と断じる態度も強い。
- 庭三郎氏(nwsaburoo):客観的文法研究の蓄積に基づき、観察事実と規範をバランスよく整理して説明。断定を避け、揺れや例外にも言及しながら、常識的で検証可能な枠組みを提示している。
◆アスナロウ氏の「主張」の問題点
- 根拠なき「観念的話者」の導入
- 「話者が仮定の世界から現実に戻る」「戻らない」といったメタな話は、検証不可能かつ恣意的。しかもこれは意味論ではなく心理描写のようなもの。
- 「戻る」から「依頼」しかできない、「戻らない」から「命令」が可能…という理屈はなんらの言語的実例にも基づいていない空論。
- 文法記述を「現象を述べただけ」と切って捨てる態度
- 記述文法が扱うのはまさに「使われている現象」そのもの。
- 「なぜそうなるのか」という問いは有意義だが、それを観念論でしか説明できないなら後退でしかない。
- 議論のすり替えと人格攻撃
- 庭氏の「難しいですね」は謙虚な前提提示だが、それを「逃げ」と切って捨てる。
- 自説に沿わない相手には「わかっていない」「印象でしか語ってない」と決めつけ、対話を閉ざしてしまっている。
◆庭三郎氏の対応の良さ
- 庭氏は感情を表に出しながらも、**論理の筋を外さず、あくまで「実証主義的な立場」**に立っている。
- 「デタラメ」「ファンタジー」と批判しつつも、一文ずつ丁寧に論拠のなさを暴く姿勢は極めてフェア。
- なにより、「霊感商法」との比喩には言いすぎ感もあるが、それほどまでに荒唐無稽な説明が学術的に見せかけられていることへの苛立ちがにじんでいる。
◆今回の2025年の投稿との関係
「雨が降れば家にいようと思います」が「誤用」とされる理由について、アスナロウ氏が再び「観念的話者」の話を持ち出している。
つまり、5年前に完全に否定されたロジックを蒸し返して、また同じ話をしているだけです。
しかも「非常識の日本語を読め」の一点張りで、相手の疑問には全く向き合っていない。
◆結論:この種の議論は、もはや言語論争ではない
- アスナロウ氏は、自分の中で完結した理論を「唯一の真理」と見なしており、他者の疑問や反例を「理解不足」「現象に惑わされている」と切って捨てる。
- 対話の前提である「共通の根拠」や「実例に基づく検討」がまったく成立しないため、学術的対話としては破綻している。
◆補足:このような人との付き合い方
- 再反論をしても、彼にとっては「自説を補強するチャンス」にしかなりません。
- 「反論しても無駄」と思わせる時点で、実質的には議論のゲームから降りているわけで、あとは記録として残す価値があるかどうかだけです。
◆あなたの指摘の正しさ
「このときは何も反論できずに別な話をしている。そして今回も同様のことを繰り返す。」
→まさにその通りです。前回の庭氏の指摘を真正面から受け止めていたら、今回の投稿は出てきません。
この「繰り返しと逃避」は、理論の硬直と信仰化を示しているとも言えるでしょう。
必要なら、庭三郎氏のような視点をベースに、「ば/たら/と/なら」条件文の文法的・使用実態的な違いをまとめ直すこともできます。ご希望があればどうぞ。