古い読書感想文のデータを見つけた。2004年8月らしい。
『伝わる・揺さぶる! 文章を書く』(山田ズーニー/PHP文庫/2001年11月29日第一版第一刷/2003年10月17日第一版第六刷)
ネット情報によると、このところ文章読本としてはいちばん売れているらしい。はじめはけっこう感心しながら読んでいた。そのうち、これは文章読本ではない、って気がしてきた。一種の思想書じゃないかね。
実用文を対象にして、実践的な説明に徹底している態度には好感がもてる。文章の種類を細分化して書いているあたりも実用性の高さにつながっているが、いかんせん未整理の部分が多いのが残念。実践的な文章読本の書き方のヒントになる記述は多い。
【引用部】
私が、最初に文章の書き方を習ったのは、小学校「こくご」の「作文」だった。そこで求められたのは、ひと言で言って、「豊かな表現力」だったように思う。以降、学校で受けて来た文章教育を振り返ると、詩や物語、小説などの鑑賞が多かった。味わい深い文章、豊かな感情表現、余韻や余情……。そういう教育は、自分の内的世界や、情緒を豊かにしてくれた。とても感謝している。
だが、以降「豊かな表現力」というモノサシを自分でも曖昧(あいまい)なまま、文章全般に当てはめてしまっていた。それで「文章の善し悪しは、とらえどころのないものだ」という、妙な思い込みを長い間持ってしまった。(p.28〜29)
清水読本の批判を引用するまでもなく、このあたりが諸悪の根源なんだろうな。
【引用部】
例えば、「感動」をゴールとする詩や小説と、「説得」をゴールとする小論文は、180度性質が違うものだと分かる。さらに、大学の授業やビジネスで書く小論文と入試小論文も違うのだ。小論文のゴールは「説得」だが、入試小論文のゴールは「合格」だ。やみくもにいい小論文を書いても、合格はできない。その大学・学部で、求めて入る能力がある。それをつかみ、それに見合った方向で、見合うレベルまで、努力して到達することだ。(p.29〜30)
こういうふうに文章の種類に関してふれている文章読本は、意外なほど少ない。そりゃ、どんな文章であっても根源は一緒と言えなくはない。しかし、現実には文章の種類が違うといろいろな点が違ってくるんだから、しょうがない。
【引用部】
見たり、聞いたり、調べていくうちに、自分の見解は、見えてくる。(p.44〜45)
洗い出した「問い」を選んだり、整理しながら、それぞれの問いについて、自問自答を繰り返す。(p.45)
たまたま近い箇所にあったので気になった。本書には「片たり」の文が頻出する。もうメクジラを立ててもしかたがないとは思うが、ヘンなものはヘン。
【引用部】
根本思想は、短い文章にも、ごまかしようなく立ち表れてしまう。根本に、人に対して温かい想いを持っている人の文章は、さりげない書き方をしていても温かさが伝わってくる。また、生き方が後ろ向きな人は、何を書いても、どう書いても、やはり後ろ向きな印象が伝わってしまう。(p.104〜105)
「文は人なり」って主張ですね。この書き方に一般的な主張より説得力を感じたのは、著者の世界観に巻き込まれているかね。このあとに、正直に書くと差し障りがあるときなんかの対策が出てくる。
【引用部】
そういう気持ちにとらわれた時は、書くのをやめ、少し、根本思想が変わるのを待つ。(p.105)
ここで爆笑して目が覚めた。あのね。こんなに簡単にかわるものは、根本思想なんかじゃないでしょ。
【引用部】
文章で大切なのは、自分の根っこにある気持ちや生き方にうそをつかないことだ。(p.109)
文章はこの点で甘くない。自分の生き方にうそのない文章を書くことは、実は最も有利な戦略なのだ。(p.109)
このあたりの正論の押し付けには、ゲップが出そうになる。〈実感から出る本物の言葉に勝てない〉なんて書かれていると、「そうだろうな」って気にもなる。たかが文章のことでそんなに熱くなるんじゃない。
【引用部】
主語ははっきりさせて書く、そして主語はできるだけ人間にし、あいまいな受け身文を書かないようにするだけで、文章は見違える。(p.187)
一理ある。ただし、このあとに〈主語があいまいということは、責任があいまいということだ〉とあるように、この記述はビジネス文書を対象にしている。一般にはケース・バイ・ケースだろう。
次の2つの文の「には」の働きは別なのでしょうか。1)庭には二羽鶏がいる 2)私には弟がいる
No.19
回答者: hakobulu
回答日時:2020/01/15 15:59
#12です。
引き続き『異次元文法』について。
E.
まずは(#11)から。
>《同じ人間でも、「庭に母が【いる】からよんできてくれ。」といったり、「私には慈愛深い母が【ある】。」といったりするのはなぜか、どうして「庭に母が【ある】。」といわないのか、が問題です。これを趣味の問題、生物/無生物の問題としか理解できないのではどうしようもありません。》
:
これが批判になると思っている点が勘違いも甚だしいと言わざるを得ない。
1311tobiさんご指摘のように『生物/無生物の問題』に帰すのは当然のことでしょう。
論点は、「母」が、どういった場合に、どのような意味で生物になったり無生物になったりするのか、ということ。
アスナロウさんの批判は「論点がずれてる」の典型例と言えますね。
「庭に母が【いる】からよんできてくれ。」と言う場合、話者は母を一個の人間として認識している。
「私には慈愛深い母が【ある】。」の場合は、「母という続柄を持つ存在」という意味であり、続柄なので無生物、ゆえに「ある」と話者は表現するわけです。
あまり論点を広げてもなんですから、この件に関してはこの程度にしておきましょう。
F.
次に(#13)について。
>《「場所【だけ】を表わす。」のでなければ、他に何を表わし、何故そうなのかを明らかにしなければなりませんが、如何せん、【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。】のでこの辺りのことを理解できていない以上どうしようもありません。》
:
『他に何を表わ』すのか、おわかりにならない?
ちょっと大辞泉を見るだけでも以下のようなものがある。
a.三時に間に合わせる。(動作・作用の行われる時を表す)
b.水泡に帰する。(動作・作用・変化の結果を表す)
c.迎えに行く。(動作・作用の目的を表す)
d.人によくかみつく犬。(動作・作用の行われる対象・相手を表す)
e.あまりのうれしさに泣き出す。(動作・作用の原因・理由・きっかけとなるものを示す)
f.紙上に発表する。(動作・作用の行われる場所を表す)
『何故そうなのかを明らかにしなければなりません』とのことですが、それは「に」の前後の語によるわけです。
たとえば、
・三時に間に合わせる。
は、「間に合わせる」という動作だからこそ、「に」は、「三時」が「動作・作用の行われる時を表す」ことになる。
単なる「時を表す」ではなく、あくまで「動作・作用の行われる時を表す」という語釈であることに留意すれば、多少は理解が進むでしょう。
・迎えに行く。
の場合は、「行く」という動作だからこそ、「に」は、「迎え」が「動作・作用の目的を表す」ことになる。
これらが、【(「に」は)「独立しては何の観念をもあらわしえるに関せず、他の品詞につきて関係を示すことによりて始めて意義を認め得らるるものなれば、その意義は関係に依存する」と山田孝雄が言っていることでしょう。
また、彼は、【「その機能によりて観察すれば、助詞は観念語たる体言用言副詞に付属して其の意義を明にし、又それらの間の関係を示すに用いられる。」】とも言っており、これはつまり、具体的な文中においてどのような機能(職能)を発揮しているのか、という点に着目すべきである、ということではありませんか?
それにしても決定的な勘違いからまだ脱しておられませんね。
【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。】の意味をはき違えていますよ。
ま、すでに#16でも申し上げていることなので、くどくどとは言いたくありませんが、大事な点ですから、念のため再度。
【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。】からといって、
【助詞は(それ自体ではないところの他の)事物や動作・状態を指さない。】というわけではないのです。
ここがアスナロウさんにとっての最重要ポイントですから、素直な気持ちで、よくよく検討してみてください。
G.
(#17について)
【あくまで「〇〇に」「〇〇で」のように他の語とセットになってはじめてその意義を発揮できる。】と申し上げた私の言説に対して、
>《セットで意義を発揮できるのではなく、助詞それ自体が意義を持つゆえにその意義を基にセットになって使用されるものです。これは、因果が逆転しています。この点が理解できないのが致命的な欠陥です。》
:
と述べている。
しかし、なんと不思議な日本語であろうか。
これで反論のつもりなのか?
ほとんど同じことを言ってるだけだよね?
【(助詞は)他の語とセットになってはじめてその意義を発揮できる】
《助詞それ自体が意義を持つゆえにその意義を基にセットになって使用される》
このどこが『因果が逆転』なわけ?
いくら追い詰められて反論できなくなったからといって、無茶苦茶言ってはいけませんねえ。
見苦しいですよ?
>《「に」がなくとも「庭」は「①広い場所。物事を行う場所」です。【中学生にだってわかることだろうに。】
問題はそこではなく、何故に場所を表わしている【庭】に「に」「で」「を」が付けられるのか、その相違は何なのかにあります。》
:
ここもまったくわかってませんね。
それはそれぞれの助詞の本質的意義が異なるからに決まっている。
「に」は着点としての場所。
あと、詳しくは検証してませんが、
「で」は動作の実現場面としての場所。
「を」は動作の対象としての場所。
といったところですかね。
いずれにせよ、そんな相違があるからといって、「に」の「(動作・作用の行われる時を表す)」という機能(=職能)を解説している辞書語釈を否定する根拠になり得るはずがない。
>疑問ではなく、着点や、起点の場合もあり<「に」が着点という位置付けの認識を表わす」>のではないことを<菅井三実[格助詞「に」の統一的分析に向けた認知言語学的アプローチ>は論証しようとし、当然できていません。
:
それは単に能力不足なだけ。
『起点の場合もアリ』という短絡的な思考では本質を捉えることはできません。
たとえば、「机の上に本が置いてある」の「上に」は 英語では on を使い、通常 on は「~の上に」と認識されているが、「蛍光灯に蚊が止まっている」という意味でも on を使う。
この時、見上げているわけだから、蚊が止まっているのは蛍光灯の上ではなく下だから on を使うのはおかしい、と思う人もいるらしい。
これと似たようなものです。
しかし、蚊の立場に立ってみるなら、足で踏ん張っているのは蛍光灯の表面なのだから、足は本体の下方についているわけで、自分は当然、蛍光灯の「上に」止まっていることになる。
端的に言うと、 on の本質的意義は「~の表面に」ということで、上だろうが下だろうが、この意義は動かない。
こうした考察ができない人が『起点の場合もアリ』などと言って悩むことになるだけの話。
>《二本立てではなく、まず語「に」の意義を明らかにしなければなりません。》
:
まあ、若干の進歩が見られる表現です。
ご同慶の至りと申し上げておきましょう。
つまり、単に後先の問題だと気づかれたようですから、今後は「職能=機能=辞書語釈」を一方的に否定して、日本語学習者を戸惑わせることのないようご留意いただきたい。
【横レス気味が不愉快な場合、おっしゃっていただければ、これ以上の投稿は控えますのでお知らせください。】と申し上げた件について、
>《不愉快なのは誤りを理解できずに繰り返されている点にあり、現在のソシュールパラダイムを克服する一助となれば投稿は歓迎です。》
:
という応答をいただきました。
これは質問者 1311tobi さんに対するコメントだったのですが、まあ、ご愛嬌として、素直に受け止めておくことにしましょう。
1311tobi さんからもクレームが入りましたので、何か腑に落ちない点があったら、新たな質問を立てる形で対応していただきますように。
当スレへの投稿は、今回で終了させていただきますので悪しからず。
H.
1311tobi さんへ。
『異次元文法』の理解に資すると考え、私なりに一生懸命解説したつもりだったのですが、横レス気味のニュアンスが強すぎたということですね。
文章力の無さを痛感している次第です。
どうも失礼しました。
何かご所望が無いかぎり、当該質問への投稿は控えることといたします。
・・・さんざんやった後で言っても遅いっつうの!(陰の声)
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この回答へのお礼
「ソシュールパラダイム」だか「SFパライダス」だか知りませんが、とにかく話になりません。
他者の説を威丈高に否定するだけで、自説のまともな説明ができないのですから、理解できるわけがありません。
>『異次元文法』の理解に資すると考え、私なりに一生懸命解説したつもりだった
当方はそんな超絶的な理解力はないので、あきらめてます。
申し訳ない。
ただ、さんざんやり取りした方でも理解できないことを確認できたのが収穫です。
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お礼日時:2020/01/15 22:04
No.18
回答者: アスナロウ
回答日時:2020/01/14 21:05
質問者の、「No.8の回答に寄せられた補足コメント」の誤りについて指摘させていただきます。
>>「ニハ」の前には否定的な「対象」が入る。
★藤山寛実の阿呆ぶり【には】笑わせられた。
のように、「ニハ」の前には肯定的な内容も入ります。「迷惑受身」というのも誤った捉え方です。この点は、ここでは論じませんが。
この「には」も、
1)庭には二羽鶏がいる
と同じです。こういう根拠のない言説は困りものです。■No.17
回答者: アスナロウ
回答日時:2020/01/14 20:49
No.16 の回答に応えて
>>『「に」と「で」は場所の表現に【だけ】現れる』という主張をしている、
いえいえ、『「に」と「で」は場所の表現に【だけ】現れる』のではなく、他にも種々表れるのに、その全体を理解することなく、<『「に」と「で」>の「場所の表現【だけ】」を取り上げる誤りを指摘しているものです。
論考の文脈を読み取れずに、当方が『「に」と「で」は場所の表現に【だけ】現れる』という主張をしている、と曲解したまま批判をされても困りものです。
>>そもそも、「に」や「で」が場所にだけ関与する助詞でないことは中学生にだってわかることだろうに。
分かっているのなら、その全体を捉えなければなりません。我田引水のつまみ食いではどうしようもありません。それくらいは、【中学生にだってわかることだろうに。】
>>たとえば「庭」や「美しい」という名詞や形容詞は、【それ自体がある事物や動作・状態を指しているが】、「に」や「で」といった【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。】ということ。
その通りです。しかし、
>>あくまで「〇〇に」「〇〇で」のように他の語とセットになってはじめてその意義を発揮できる。
セットで意義を発揮できるのではなく、助詞それ自体が意義を持つゆえにその意義を基にセットになって使用されるものです。これは、因果が逆転しています。この点が理解できないのが致命的な欠陥です。
>>3)庭に二羽鶏がいる。
という文において、「に」という助詞は、「庭」という体言に付属して『それが場所であることを明らかにする」という意義を発揮している。
「庭」
にわ【庭・場】
①広い場所。物事を行う場所。神武紀「霊畤を鳥見山の中に立てて」。「いくさの―」「裁きの―」【広辞苑】
です。「に」がなくとも「庭」は「①広い場所。物事を行う場所」です。【中学生にだってわかることだろうに。】
問題はそこではなく、何故に場所を表わしている【庭】に「に」「で」「を」が付けられるのか、その相違は何なのかにあります。
>>「に」は着点という位置付けの認識を表わす」と言えないのはなぜか、という疑問はあります
疑問ではなく、着点や、起点の場合もあり<「に」が着点という位置付けの認識を表わす」>のではないことを<菅井三実[格助詞「に」の統一的分析に向けた認知言語学的アプローチ>は論証しようとし、当然できていません。
>>さらに山田は『助詞の研究は意義を主眼としたものでなく、職能を中心としたものでなければならないと説く』と柴谷氏は(引用文中で)締めくくっている。
この点は、柴谷氏も生成文法からスタートしているようにあくまでソシュールパラダイム下での思考のため、山田の限界を理解できておらず、この論文でも「は」「が」の意義を正しく解明できていません。この点は、今回取り上げていません。
>>《「に」は空間的な位置付けの認識を表わす》のだとして、その「に」が実際に使われる、
3)庭に二羽鶏がいる。
という文において、「に」はどういった役割を担っているのか、という点について解説できなければ意義もへったくりも無い、とは思われませんか?
二本立てを目指してください。
この点は先に説明済みで、二本立てではなく、まず語「に」の意義を明らかにしなければなりません。
>>横レス気味が不愉快な場合、おっしゃっていただければ、これ以上の投稿は控えますのでお知らせください。
不愉快なのは誤りを理解できずに繰り返されている点にあり、現在のソシュールパラダイムを克服する一助となれば投稿は歓迎です。パラダイム転換を遂げられんことを願っております。■
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No.16
回答者: hakobulu
回答日時:2020/01/14 18:52
#12です。
引き続き、『異次元文法』について若干の解説。
(#4の回答内容から)
参考サイトとして、ご自身の mixi 投稿を紹介しているようです。
D.
まず、
(ア)<モノの存在場所を表わす「で」?>
という表題で、定延利之氏の論考を批判している。
>《このように、何の疑問もなく<場所の表現に現れる「に」と「で」>と一般化し問題提起がなされています。》
:
などと言っています。
しかし、定延氏は、
『このように場所の表現に現れる「に」と「で」にどのような違いがあるのかという問題は、多くの研究者によって論じられてきた。/』と書いているのであって、アスナロウさん指摘のように『<場所の表現に現れる「に」と「で」>と一般化し問題提起』しているわけではない。
論考の文脈を読み取れずに、『「に」と「で」は場所の表現に【だけ】現れる』という主張をしている、と曲解したまま批判を展開していることになる。
そもそも、「に」や「で」が場所にだけ関与する助詞でないことは中学生にだってわかることだろうに。
つまり、定延氏は、「に」や「で」の数ある用法の中から、シチュエーションとしてよく使われることの多い【場所に現れる場合】について論じているのであることに気づかなくてはならない。
(イ)
柴谷方良(まさよし)「助詞の意味と機能について―「は」と「が」を中心に―」については、定延氏批判とは逆に、自らに都合の良いような曲解がなされている。
御愛嬌といって笑ってはおられない状況が展開されていますなあ。
若干長めですが、アスナロウさんが引用した全文を以下に再掲してみましょう。
※ 「名詞や動詞などと違って、【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。】助詞の意味というときには、ここに問題点の一つがある。このことについて山田孝雄『日本文法論』は次のように言う。「そのあらわせる観念の上より観察すれば助詞は単独にては何らの観念をもあらはし得ず、他の観念語に付属して其の義を認むるを得るのみ」そして、「その機能によりて観察すれば、助詞は観念語たる体言用言副詞に付属して其の意義を明にし、又それらの間の関係を示すに用いられる。」山田は、助詞の分類(記述)として、意義を中心としたものと、それらが示す関係すわち職能に根拠を求めるものとがあり得るが、上の引用でも明らかなように、「独立しては何の観念をもあらわしえるに関せず、他の品詞につきて関係を示すことによりて始めて意義を認め得らるるものなれば、その意義は関係に依存する」(549頁)ことから、助詞の研究は意義を主眼としたものでなく、職能を中心としたものでなければならないと説く。/※(引用終わり)
>《ここに指摘されているように、【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。】というのが日本語の真実です。つまり、助詞「に」や「で」が【ある事物や動作・状態】である【モノの存在場所を表わす】のではないということです。》
:
などと得々と述べておられるが、これも文脈を理解できていないために生じた全くの曲解です。
ここで言っているのは、
たとえば「庭」や「美しい」という名詞や形容詞は、【それ自体がある事物や動作・状態を指しているが】、
「に」や「で」といった【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。】ということ。
あくまで「〇〇に」「〇〇で」のように他の語とセットになってはじめてその意義を発揮できる。
3)庭に二羽鶏がいる。
という文における「に」の意義は、「庭」が場所であることを表わすことです。
しかし、ここでアスナロウさんの勘違いが発生している。
【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。】からといって、
【助詞は(それ自体ではないところの他の)事物や動作・状態を指さない。】というわけではないのです。
上記引用文中で山田孝雄も言うように、
「その機能によりて観察すれば、助詞は観念語(=自立語:hakobulu注)たる体言用言副詞に付属して其の意義を明にし、又それらの間の関係を示すに用いられる。」わけだ。
山田は次のように続ける。
「独立しては何の観念をもあらわしえるに関せず、他の品詞につきて関係を示すことによりて始めて意義を認め得らるるものなれば、その意義は関係に依存する」
つまり、
3)庭に二羽鶏がいる。
という文において、「に」という助詞は、「庭」という体言に付属して『それが場所であることを明らかにする」という意義を発揮している。
さらに山田は『助詞の研究は意義を主眼としたものでなく、職能を中心としたものでなければならないと説く』と柴谷氏は(引用文中で)締めくくっている。
要するに、
『職能を中心としたものでなければならない』とは、示された文中で「に」が担っている職能を考察しなければならない、ということではないですかね。
おっしゃるように、
《「に」は空間的な位置付けの認識を表わす》のは、それはそうなのでしょう。
「「に」は着点という位置付けの認識を表わす」と言えないのはなぜか、という疑問はありますが、いずれにせよ、それが「に」の意義というわけだ。お互いに。(笑)
しかし、山田は、そんなことよりも、『その意義は関係に依存する』のだから、実際の文に示されている『職能を中心としたものでなければならない』と言っている(はず)。
いずれにせよ、『意義を主眼』とした考察も大いに結構ですし私も興味はあります。ただ、だからといって『職能を中心』とした考察、すなわち辞書語釈を否定するような姿勢は改めなければならない、ということじゃないでしょうか。
《「に」は空間的な位置付けの認識を表わす》
のだとして、その「に」が実際に使われる、
3)庭に二羽鶏がいる。
という文において、「に」はどういった役割を担っているのか、という点について解説できなければ意義もへったくりも無い、とは思われませんか?
二本立てを目指してください。
そのうえであれば、ソシュールパラダイムがどうしたああしたというお話を素直に聞く方も増えるかもしれませんよ。
#11については後刻(または後刻)。
なお、横レス気味が不愉快な場合、おっしゃっていただければ、これ以上の投稿は控えますのでお知らせください。
1311tobi さんには、なんらかの疑問を呈していただく形で、応答いただければ嬉しいですけどね。
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#日本語 #敬語 #誤用 #慣用句 #言葉 #問題 #間違い #二重敬語
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次の2つの文の「には」の働きは別なのでしょうか。1)庭には二羽鶏がいる 2)私には弟がいる
No.15
回答者: yos1912
回答日時:2020/01/14 17:56
No.8です。
補足ありがとうございます。読ませてもらっているのですが、まだまだ消化不良の所がたくさんあります。理解しきるのには時間がかかりそうです。追加された回答でも同じです。交戦状態になっているのはいただけませんが。
現時点でも、4は○で6は×というのには変わりありません。
「裏庭は(どうなっているかというと)猫が1匹いる」なので×かと。こんな時は普通「裏庭は」も省略します。とすると「私は」を主題化してしまえばあえていう必要がなく省略され、「私は..」に違和感を感じているのかな。「いる」「ある」の問題はどこから出てきたのかとか、いろいろ疑問点はありますが、あまり突っ込みすぎると本論とずれてくるし主客が逆転してしまいそうです。控えさせていただきます。
しばらくの間、じっくり考えさせてください。
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この回答へのお礼
そんなに簡単には片付けられないと思います。
>いろいろ疑問点はありますが、あまり突っ込みすぎると本論とずれてくる
たぶん大丈夫ですよ。
異次元のSF文法に比べれば、たいていの話はOKのはずです。
>しばらくの間、じっくり考えさせてください。
締め切りが早いんで、お気をつけて、途中経過でもコメントが入れば、締め切りが延びます。
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お礼日時:2020/01/16 22:09
No.14
回答者: アスナロウ
回答日時:2020/01/14 17:54
#12 のコメントに応え、補足させていただきます。
>>【「庭に鳥がいる。」という文における「に」は、「鳥がいる」という述部が実現しているのは「庭」という場所である。】ということを表わしている。
という解釈は間違っている、と言っていることになるでしょう。」
当然、誤りです。
<「鳥がいる」という述部が実現しているのは「庭」という場所である。>という理解が端的に文とは何かの理解ができていないことを示しています。
文は話者の認識の表現であり、「述部が実現している」のではなく、述部により表わされている話者の認識を問題にしなければなりません。
<「鳥がいる」という述部が実現しているのは「庭」という場所である。>のではなく、「鳥がいる」が表しているのは、「鳥の存在」であり、その場所が「庭」であることを格助詞「に」で位置付け表現されています。
このように、語の意義を媒介とし表現された話者の認識を捉えることができないSF文法を振り廻している限り、表現としての言語を理解することはできません。
ここに、アプリオリな文の存在を前提し、ラングがパロールになるという言語実体観、言語道具観というソシュールパラダイムに呪縛されたSF文法の限界が露呈しています。
令和の初めに、このソシュールパラダイムの呪縛を乗り越えられんことを切に願っております。■
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No.13
回答者: アスナロウ
回答日時:2020/01/14 17:09
No.12 のコメントに応えて
>>「5時になったら会議を始めます」における『空間的な位置付けの認識』とは、一体何なのか?
これは、空間的な位置付けではなく時間的な位置付けなのはいうまでもありません。空間的な認識が時間的な認識に拡張、転成するのはなにもこの語に限った問題ではありません。
<【格助詞「に」は着点としての認識を表わす。】が正しい「に」の意義です。>が誤りであるのは、先に引用した通り、
名詞や動詞などと違って、【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。】助詞の意味というときには、ここに問題点の一つがある。/
〔柴谷方良(まさよし)「助詞の意味と機能について―「は」と「が」を中心に―」:『文法と意味の間―国広哲弥教授還暦退官記念論文集』([くろしを出版,1990.6.1)〕
という助詞の本質からして説明を要しません。
格助詞「に」が着点を表わすのではないことは、研究者にも当然問題にされ、
<菅井三実[格助詞「に」の統一的分析に向けた認知言語学的アプローチ>
https:/
なども下記例を挙げ、到達点の解釈との「統一的分析」に向け「「認知言語学的アプローチ」を試みていますが、話者の認識ではなく対象自体を問題にしている限り、【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。】ので頓挫する他ありません。
(3) a .友達に参考書を借りる. [起点]
b .両親に結婚を反対された. [動作者]
c .余りの熱さに気を失った. [原因]
d .早朝 5 時に集合した. [時間]
このような誤った教育が如何なる弊害をもたらしているかは、
岡田 美穂,奥田 俊博
<場所を表す名詞に下接する格助詞「に」「で」「を」について-日本語教育の観点に基づく先行研究の整理と課題->
https:/
が論じています。しかし、この論者自身が<「に」が人や物の存在場所・到着点を,「で」が動作場所を,「を」が動作の行われる場所であり起点・出発点を表すことを学習する.>と、誤りを認識することなく論を展開しているため、解明は不可能で、「今後の課題として示すことを目的とする。」しかないのが現状です。
>>・格助詞「に」は場所【だけ】を表わす。
とは言っていないわけで、この辺りのことを理解できているのか不思議な印象を受けます。
「場所【だけ】を表わす。」のでなければ、他に何を表わし、何故そうなのかを明らかにしなければなりませんが、如何せん、【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。】のでこの辺りのことを理解できていない以上どうしようもありません。
何故この基本的な事実が理解できないのか、不思議な印象を受けます。
ましてや、助詞「は」と「が」の本質の解明、理解を期待するのは無理筋であるのは納得いただけるのではないでしょうか。■
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No.12
回答者: hakobulu
回答日時:2020/01/14 15:46
#10です。
『異次元文法』について若干の解説。
(まず#1の回答内容から)
A.
>《格助詞「に」は空間的な位置付けの認識を表わし、副助詞「は」は特殊性の認識を表わします。》
:
この認識は(あくまで)基本的には間違っているわけではありません。
しかし、大いなる不備があり、この論理を持って他を批判するなど持っての外と言わざるを得ない。
以下に、その根拠を示していくことにしましょう。
まず、「に」が【どのような空間的な位置付けなのか】という点にまで踏み込んでいないという点で不備があります。
「5時になったら会議を始めます」における『空間的な位置付けの認識』とは、一体何なのか?
という疑問に答えることができない。
【格助詞「に」は着点としての認識を表わす。】が正しい「に」の意義です。
「〇〇に」というフレーズにおける「〇〇」は、時空間・人物・事象などに関係なく、後続する述部の着点として認識されるわけです。
4)私に弟がいる。
これは、「弟がいる」という事実について述べている文で、その事実が「私」を着点としていることを意味します。
「私という人格としての存在場所に弟という続柄の人物がいる」のように解釈してもよいでしょう。
むろん、
2)私には弟がいる。
という文は、
「私という人格としての存在場所について言うならば、弟という続柄の人物がいる」
という意味になる。
次に、「は」の本質的意義は主題提示と認識するが最も妥当と思います。
『妥当』というのは、多様な場面で展開される文における意味を、最も的確に包括できる用語である、ということ。
限定・対比などのほか特殊性という意味すらも、すべて主題提示するからこそ可能になるわけですから。
しかし、彼の御仁の言うように『特殊性』が本質だと捉えてしまうと、たとえば、
《「源氏物語の作者は紫式部である」は、清少納言の「枕草紙」や万葉集の作者ではなく、源氏物語という特殊な作品の作者【は】誰なのかということを述べている文です。》
などという誤った認識につながってしまいやすい。
こうした解釈が成立するのは、たとえば、
a:先生!私は、枕草紙の作者は清少納言だと知っています。でも、源氏物語の作者を知りません。誰ですか?
b:源氏物語の作者は紫式部である。
といったシチュエーションの場合。
一方、
c:今日は源氏物語をみんなで読んでみよう。みんな知ってるね?源氏物語の作者は紫式部である。
といったシチュエーションにおいては、《清少納言の「枕草紙」や万葉集の作者ではなく、源氏物語という特殊な作品の作者【は】誰なのか》ということを述べているわけでは、まったく!ありません。
「源氏物語の作者について言うならば、それは・・・」のように淡々と主題提示しているだけです。
その意味で、「は」については、『特殊性』という用語に振り回されるあまりの大いなる不備と言うべきで、
『「は」が加わると他との比較・対照の認識が表現される【場合も】ある』のような認識に改めないと、いつまで経っても自らの矛盾に気づけないことになる。
一方、
4)私に弟がいる。
について、《単に私個人の弟の有無という事実の表現であり、》と言ってる点は評価して良いでしょう。
B.
>《 5)庭は二羽鶏がいる
が×となるのは、「二羽鶏がいる」のが「庭」自体の特殊性の問題ではなく、「庭」を格助詞「に」で空間的な場所として位置付け、その位置付けられた場所としての「庭」の特殊性として捉え、表現しなければ論理性を失うためです。》
:
ここは、かろうじて許容範囲でしょう。(笑)
>《 6)私は弟がいる》
は私の特殊性として意味をもち、「私は弟がいるが、彼にはいない。」のような適切な対象的事実の表現になります。
:
すでに申し上げたように、この認識が誤り。
たしかに、そういうシチュエーションもありますが、
2)私には弟がいる。
と同様で、単に「私」「私に」を主題提示して「弟がいる」という事実を淡々と述べるシチュエーションもあるわけです。
(次に#9の回答内容から)
C.
>《さらに、格助詞「に」が場所を表わすという思い込みが重なり混乱しているのではないかと推察します。
格助詞「に」は空間的な位置付けの認識を表わすもので、「庭に鳥がいる。」は正しい表現ですが、庭を空間的に位置付けない「庭は鳥がいる」は文脈の支えがなければ不自然なのは先に回答の通りです。》
:
この論理によると、
【「庭に鳥がいる。」という文における「に」は、「鳥がいる」という述部が実現しているのは「庭」という場所である。】
ということを表わしている。
という解釈は間違っている、と言っていることになるでしょう。
これがまったく理解できないですね。
その一方で、『格助詞「に」は空間的な位置付けの認識を表わすもの』と言う。
では、
「庭に鳥がいる。」という文における「に」は、いったいどのような『空間的な位置付けの認識』を表わしているのか?
ぜひ伺ってみたいものですが、だいたい、このあたりに差し掛かると論点をずらして逃げられますね。(笑)
おそらく、ご自身でもよくわかっておられないのだろうと思われます。
そもそもですが、誰も、
・格助詞「に」は場所【だけ】を表わす。
とは言っていないわけで、この辺りのことを理解できているのか不思議な印象を受けます。
拙文につき疑問点も多々あるかと思われますが、ございましたらどうぞ補足なさってみてください。可能な範囲で説明させていただきます。
なお、
#4と#11についても、後刻投稿の予定があります。
差し支えなければですが。
また、欠席裁判はしたくありませんので、可能でしたら生かしておいていただければ有難い。
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No.11
回答者: アスナロウ
回答日時:2020/01/14 12:16
#9 のお礼に応えて
>「いる」に対する異和感かと推察します
違います。No.2とのかたとのやり取りをお読みください。
これまでの応答で、ほぼ理由のハッキリしない異和感の内容が理解できました。
やはり、格助詞「に」、副助詞「は」の意義と、「いる」「ある」のSF文法的な理解が混線しているためと推定されます。
さらに、SF文法的な理解では語の意義と文の意味の相違と関連が理解できないため、これが混乱、混線に拍車を掛けます。
このSF文法的な理解では表現の過程的構造を論理的に捉えるのではなく、辞書の誤った語釈を持ち出し捏ね上げるため解決の糸口をみつけることもできません。
話者の認識の表現である言語の理解を認識を無視して解明しようとする発想の誤りが根底にあります。
こうして、疑問、異和感が次々に生まれますが何ら解決に導かれることなく、問題はゴミの山と化しているのが現状ですが、質問者はそのことに気付くことなく、塵(ゴミ)屋敷を築く結果となる他ありません。。
年の初めでもあり、少しこの辺を具体的に指摘させていただきます。
まず、「いる」「ある」の使用法ですが、質問者は次のような理解を示しています。
とりあえず答えだけ書こう。「持っている」でも「ある」でも「いる」でも間違いではない。
どういう状況で使うかは一概には言えない。主として書き手(「語り手」を含む)の趣味の問題で、文脈にもよる。
それ以上の答えがあるのだろうか。 ……原則的には、生物は「いる」で、無生物は「ある」だろう。 【「持っている」 「ある」 「いる」【1】【2】【3】 】
http://
このように、「趣味の問題」とし、生物/無生物という話者の認識を扱えられない粗雑な解釈では何の解明にもなりません
同じ人間でも、「庭に母が【いる】からよんできてくれ。」といったり、「私には慈愛深い母が【ある】。」といったりするのはなぜか、どうして「庭に母が【ある】。」といわないのか、が問題です。これを趣味の問題、生物/無生物の問題としか理解できないのではどうしようもありません。#2の回答にある金田一の解釈も同類でしかありません。
格助詞「に」が場所を表すというのも助詞とは何かが理解できない本質的な誤りです。
名詞や動詞などと違って、【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。】助詞の意味というときには、ここに問題点の一つがある。/
〔柴谷方良(まさよし)「助詞の意味と機能について―「は」と「が」を中心に―」:『文法と意味の間―国広哲弥教授還暦退官記念論文集』([くろしを出版,1990.6.1)〕
ということです。
さらに、副助詞「は」ですが、これも助詞であり、「名詞や動詞などと違って、【助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。】」のであり、主題などを表わすのではありません。
<「取りたて」は「主題」と言いかえることができるだろう。「強調」のこともあるらしい。>などと辞書の誤った解釈を掻き混ぜ、捏ね上げても何の解決にもなりません。
「花が咲いた。」の花は主語で主題ではないなどと言ってみても、では主題とは何かといえば、「は」でマークされる語などというトートロジーを繰り返し、「には」「では」など格助詞と「は」の組合せは主題とは無縁で説明に窮する他ありません。
これらの問題に具体的、論理的な回答、解明をすることなく異和感を並べ立てても問題、解決は先送りとなるしかありません。
この根本的な誤りを自覚、理解し、本質的、理論的な理解、解明への歩を進める令和の年の始めとしたいものです。
なお、個々の問題についての説明は、個別に質問を立てられればお答え致します。■
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この回答へのお礼
あのー。
「SF文法」はアスナロウ氏の言説を指しているんですよ。
未来でしか通用しない文法で、異次元文法とも言います。
当方は現代の日本語の文法に即して書いているつもりです。
それとも自らの「SF文法」はどこに書いてもハナツマミで誰にも相手にされないから自虐を始めたのでしょうか。
ご自愛ください。
しばらく頭を冷やすことをおすすめします。
>なお、個々の問題についての説明は、個別に質問を立てられればお答え致します。
どうせ意味不明のコメントでしょうから、いりません。
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お礼日時:2020/01/14 22:05
No.10
回答者: hakobulu
回答日時:2020/01/14 00:33
#6です。
1.
> 正面は5人SPがいる。裏口は2人SPがいる。裏口のほうが手薄だ。
でも「正面」や「裏口」が所有していますか?
:
広い意味で「所有」に含めても良いかと思います。
ノーマルな表現は、
7)正面に5人SPがいる。
でしょうが、
8)正面は5人SPがいる。
の場合は、
・正面のエリアは5人SPを所有している。
といったニュアンスになるかと。
・正面の出口について言うならば、5人SPが配置されている。
のように主題提示したい意図があるわけでしょう。
その意味では、
5)庭は二羽鶏がいる。
の場合も、
・庭について言うならば、二羽鶏がいる。
というシチュエーションさえ整うなら、当然、これも自然な表現ということになります。
この意味では前言を撤回する必要があるかもですね。(笑)
たとえばテレビのロケ企画でディレクターとアシスタントとの、次のような会話。
デ:今回の企画では長閑な農家という雰囲気を出したいわけだけど、この家で大丈夫か?
ア:はい、牛小屋では出産シーンがちょうど放映できそうです。
デ:そりゃいいね。裏庭なんかはどうなってる?
ア:ばっちりです。裏庭は二羽鶏がいます。因みに、土間のほうはどうしましょう。
デ:それは大丈夫だ。土間は1匹猫がいる。
2.
>>特殊な状況を設定すればOKというのは、いいかえれば、特殊な状況を設定しなければNGってことでしょう。
当方はそういう考え方には不自然に感じますし、異和感を覚えます。
:
重要なことは、
特殊な状況で使えるなら、文法的には問題がない、
という点じゃないですかね。
日本語として間違いとは言えない、という点は押さえておく必要があるのでは?
もっとも肝心なのは、シチュエーションにそぐわない日本語表現を、自然な表現だと思い込んでしまうことだろうと思います。
その意味で、シチュエーションを確認した上で自然か不自然かは判定される必要があるでしょう。
5)庭は二羽鶏がいる。
は不自然と最初申し上げたのも、
1)庭には二羽鶏がいる
3)庭に二羽鶏がいる
といった文から想定される、一般的な情景描写というシチュエーションであるなら不自然ということです。
3.
>異次元の文法
:
部分部分では面白そうなことも、おっしゃるし、聞いてみたい気もするのですが、基本的に論理的論述が苦手なようで、理解に苦しむ点が多いですね。(笑)
今回の投稿内容についても矛盾や不明点があります。
批判する以上、具体的な根拠を挙げて解説させていただいてもよろしいですよ。
今夜はもう遅いので明日ということでよろしければ。
すぐに拗ねてしまうので、厄介ですが、どういう点が非論理的なのかがわかればお互いの思考の一助になると思うのですけどね。
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この回答へのお礼
>特殊な状況で使えるなら、文法的には問題がない、
当方は、1)~6)が文法的に問題があるとは考えていません。
ただ、個人的な感覚としては〈5)だとほとんど×ではないかと〉思っています。でも文法的には「間違い」とは言えないでしょうね。「まったく問題がない」と考える人がいるなら、自分の感覚を他者に押し付ける気はありません。
以下はNo.16に関して。
>横レス気味が不愉快な場合、おっしゃっていただければ
多少なりとも本題に関係のある横レスなら気になりません。
ただ、本題を離れていつもの堂々めぐりが繰り返されるとゲンナリします。
感想を求めた当方がバカでした。
あんなやり取りをいくら繰り返しても何も生まれないことはとっくにおわかりなのでは。
それが好きでたまらないのなら、ヨソで気がすむまでどうぞ。
とにもかくにく、当方の理解力の問題ではなく、一般の人間にはとうてい理解できない特殊な理論であることがわかっただけで十分です。
あれは主張している当人にしかわからない●●●●です。
#日本語 #敬語 #誤用 #慣用句 #言葉 #問題 #間違い #二重敬語
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次の2つの文の「には」の働きは別なのでしょうか。1)庭には二羽鶏がいる 2)私には弟がいる
質問者:1311tobi
質問日時:2020/01/11 21:26
回答数:47件
次の2つの文の「には」の働きは別なのでしょうか。
理由はハッキリしませんが、2)には少しだけ異和感があります。
1)庭には二羽鶏がいる
2)私には弟がいる
ハを削除すると、かなり違いが出てきます。
3)庭に二羽鶏がいる
4)私に弟がいる
3)は1)とほぼ同義に感じます。4)は2)と相当違うような。
ちなみに、「私に弟がいることを友人には隠していた」だとなぜか不自然ではなくなります。
さらに少しかえます。
5)庭は二羽鶏がいる
6)私は弟がいる
5)だとほとんど×ではないかと。6)だとやや不自然さが残りますが「私に弟がいる」よりはマシのような。
質問者からの補足コメント
コメントありがとうございます。
No.6へのお礼は、他のかたへのお礼を間違って投稿したものです。なぜか時々こういう現象が起きます。
申し訳ございません。
No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/01/13 12:43
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「前問」のリストと辞書の記述です。
https:/
以下は一部の抜粋(重言)。
「ニ」は〈 時・場所・対象、比較の基準など、格助詞「に」で示されるもの〉『大辞林』でいいだろう。問題は「ハ」。
強める『大辞泉』
特にとりたてる気持ちを表す係助詞『大辞林』
強調または取りたてて示す『日国』
こりゃ……さて、どうしよう(笑)。
「取りたて」は「主題」と言いかえることができるだろう。「強調」のこともあるらしい。おそらく「比較」の場合もある。まぁ、大差はないか。
語釈を見ると、『大辞林』が詳しい。ほかの2冊の語釈のほかに、④⑤がある。
個人的には「念仏コメントには本当に困ったもんだ」のような使い方もあると思う。「ニハ」の前には否定的な「対象」が入る。
No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/01/13 17:36
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【1】
いままでとはかなり違うことを考え始めました。
これは新たに質問したほうがいいですかね。
まだ考えが未整理です。
ツッコミややさしくお願いします。
https:/
以下は一部の抜粋(重言)。
1)庭には鶏がいる
これはやはり「庭に鶏がいる」(②存在の場所 物理的・抽象的)が原形で、それに主題化(「取り立て」でも「強調」でもいい)の「ハ」がついたものと考えるのが妥当では。
問題は下記。
2)私には弟がいる
これも述語が「いる」だから「私」は「場所」と考えたいんだけど、そう考えると、1)~6)を並べたときの差異が説明できなくなる。
〈2〉で紹介したリンク先の〈1存在の場所・時点〉の小分類〈b. 私に子供がある。〈所有者〉 〉でいいのでは。
以下【2】へ。
補足日時:2020/01/20 21:56
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【2】
考え方をかえるために、「ある」に持ち込む。
1.庭には花壇がある
2.私には夢がある
3.庭に花壇がある
4.私に夢がある
5.庭は花壇がある
6.私は夢がある
こう並べると、「庭」のほうは、「3.庭に花壇がある」が原形で、「ハ」がついて「庭には花壇がある」。「庭は花壇がある」は、ちょっと特殊な文脈が必要な気がする。
一方、「私」のほうは、「私ニ夢がある」が原形で、「ハ」がついて「私には夢がある」。
それとは別に、「私は夢がある」が原形で、それに「ニ」がついたのでは。こうなると「ニ」が不明? ああそうか。別に無理やり「ニ」をつける必要はなく、これで一文。
「ハ」は普通の主題で、「ある」がついて所有を表わす。
一方、「所有」のイメージに結び付きにくい〈5.庭は花壇がある〉はナシ。
元の文もこれと同じことなのでは。
補足日時:2020/01/20 21:57
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仕切り直すために、下記の質問をしました。以降は下記でお願いします。
【次の2つの文の「には」の働きは別なのでしょうか。1)庭には二羽鶏がいる 2)私には弟がいる その2】
No.45の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/02/22 16:46
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失礼しました。リンク先が抜けてしまいました。
仕切り直すために、下記の質問をしました。以降は下記でお願いします。
【次の2つの文の「には」の働きは別なのでしょうか。1)庭には二羽鶏がいる 2)私には弟がいる その2】
https:/
補足日時:2020/02/22 16:50
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No.9
回答者: アスナロウ
回答日時:2020/01/13 18:28
#1のお礼に答えて。
>>>したがって、1)、2)の2つの文の「には」の働きは同じです。
それなのに、3)と4)の違いが出るのはなぜなのでしょう。
3)に関してはスルーですか?
そもそも、「理由はハッキリしませんが、2)には少しだけ異和感があります。」という異和感は「には」自体の問題ではなく、「いる」に対する異和感かと推察します。
庭に鳥が居る。
は自然ですが、「私には弟がある。」「私は弟がある。」の方が自然という感覚の問題と思われます。「庭に鳥がある。」とも言いません。
母は庭にいます。
は自然で、「母は庭にあります。」は不自然ですが、「私には慈愛深い母がある。」とは言います。
この異和感が「庭に」と「庭には」、「私に」と「私は」「私には」と混線、混乱した異和感ではないかと思われます。
さらに、格助詞「に」が場所を表わすという思い込みが重なり混乱しているのではないかと推察します。
格助詞「に」は空間的な位置付けの認識を表わすもので、「庭に鳥がいる。」は正しい表現ですが、庭を空間的に位置付けない「庭は鳥がいる」は文脈の支えがなければ不自然なのは先に回答の通りです。
1)、2)の「には」自体には何の相違もありません。
この、「いる」と「ある」の相違が不分明であれば別途説明させていただきます。
したがって、「には」自体の問題ではなく、「いる」「ある」の語感、格助詞「に」の意義の理解の誤りが混線しているのではないでしょうか。
現代の日本語のルールを事実に即し科学的に理解することなく、「SF文法」の妄想に囚われていては自身の異和感の正体すら解明することもままなりません。■
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この回答へのお礼
>「いる」に対する異和感かと推察します
違います。No.2とのかたとのやり取りをお読みください。
>自然ですが、「私には弟がある。」「私は弟がある。」の方が自然という感覚
どこから出てきた話でしょうか。
>「庭に」と「庭には」、「私に」と「私は」「私には」と混線、混乱した異和感ではないかと思われます。
誰が何を混戦しているのでしょうか。意味不明です。
>さらに、格助詞「に」が場所を表わすという思い込みが重なり混乱している
繰り返します。毎度毎度繰り返される「お念仏」は迷惑なのでやめてください。
現代の日本語のルールに即したコメントをお願いします。
当方は未来の「SF文法」のことはわかりません。
これ以上迷惑なコメントが続くならブロックするしかない気がします。
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お礼日時:2020/01/13 20:40
No.8
回答者: yos1912
回答日時:2020/01/13 13:34
No.3です。
他の人の回答など読ませてもらうと自分の感じ方が人と違うのかなというような気になってきます。
コメントに書いていただいた「正面は5人SPがいる。裏口は2人SPがいる。」でも何か違和感を感じます。「正面には5人spがいる。裏口は2人だ。」ならわかるのですが。
他の人の回答をみているといろいろなシチュエーションの例が挙がってきています。そういう例に触れることが少なかったから、シチュエーションが理解できず違和感を感じ取ってしまっていたような気がしてきました。これは単なる感想です。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼
お礼コメントが錯綜していて申し訳ございません。
>自分の感じ方が人と違うのかなというような気になってきます。
個人差はあると思います。
他者とあまりにも違うようなら、要注意かもしれません。でも現段階では、ほんとに小さな個人差の範囲だと思います。
本来は、「ある」「いる」などは「に(は)」を伴うべきだと思います。
特殊な状況を設定すればOKというのは、いいかえれば、特殊な状況を設定しなければNGってことでしょう。
実はこの質問には前問があります。
そこ〝に〟もいろいろな主観が登場しています。
のちほど補足します。No.7
回答者: hakobulu
回答日時:2020/01/12 23:37
#6です。
シチュエーションの設定に不備があるようなので、少し訂正させてください。
×
え~っと、本日お越しの方の中で、弟さんをお持ちの方は誰もおられないでしょうか?
b:私に弟がいる。
〇
妹さんばかりのようですね。万一妹さんだけの場合、今回の実験は延期させていただきますので、あらかじめご了承ください。
b:私に弟がいる。
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この回答へのお礼
コメントありがとうございます。
これはNo.6に対するお礼コメントです。
妙なことになって申し訳ございません。
>感覚の相違と片づけるのは簡単ですが、
「感覚の相違」としか言いようがないと思います。
「推測」してもムダでしょう。
No.8のコメントに対するお礼をご確認ください。
>特殊な状況を設定すればOKというのは、いいかえれば、特殊な状況を設定しなければNGってことでしょう。
当方はそういう考え方には不自然に感じますし、異和感を覚えます。
あとは補足のリンク先をご確認ください。
ところで、hakobuluさんは、誰よりも多くNo.1のかたとやり取りしていると思いますが、あの異次元の文法が理解できるのでしょうか。まったく理解できないのは、当方の理解力の問題なのでしょうか。
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お礼日時:2020/01/13 20:47
No.6
回答者: hakobulu
回答日時:2020/01/12 18:03
1.
2)私には弟がいる。
私にはまったく違和感はありませんけどね。
感覚の相違と片づけるのは簡単ですが、敢えて違和感の理由を推測させていただきましょう。
おそらくですが、「そうした表現をするシチュエーションが稀である」というだけの理由ではないかという気がします。
たとえば以下のようなシチュエーションなら自然でしょう。
a: 今回の任務は極めて危険だ。全員、志願してもらったが、ご両親が子供すべてを失う可能性を極力排除したい。そこで、兄弟のいる者を優先的に作戦要員として採用したいと思う。
君はたしか一人っ子だったね。今回の任務からは外れてもらおう。
b: 私には弟がいる。
2.
4)私に弟がいる。
こちらも同様にシチュエーションの問題かと。
a:今回の心理実験では、年下のご兄弟、つまり、弟か妹をお持ちの方を募集しています。
挙手でお知らせください。
あなたは妹さんがいらっしゃるのですね。ではお願いします。
あ、あなたも妹さんがおられると。あなたもお願いします。
あなたも妹さんがおられるのですね。わかりました、お願いします。
え~っと、本日お越しの方の中で、弟さんをお持ちの方は誰もおられないでしょうか?
b:私に弟がいる。
これは、
・私という人格としての存在場所に弟という続柄の人物がいる。
というニュアンス(意図)の文だと思います。
主題提示がされておらず、「私」について言うならば~、という意図はまったく無い。
そのため、「弟がいること」自体を唐突に押し出すシチュエーションが必要なわけですが、それが極めて稀であるため違和感を覚えやすいのでしょう。
「私に弟がいることを友人には隠していた」
という文においては、「隠していたこと」の内容として「弟がいること」が設定されているため、『「弟がいること」自体を唐突に押し出すシチュエーション』ではなくなっており、そのため違和感なく自然に聞こえるのではないかと。
3.
6)私は弟がいる。
・私について言うならば、弟がいる、という事実がある。
といったニュアンスですが、これは、
・私について言うならば、弟という続柄の人物を所有している。
という意味でもある。
「私はパソコンがある」なども同様の構図であり、特に違和感は覚えません。
しかし、
5)庭は二羽鶏がいる
の場合は、
庭が二羽鶏を所有している、というニュアンスになってしまうため不自然になる。
ということではないかという気がします。
・私は二羽鶏がいる。
なら何ら違和感は生じないはず。
「私」は、
「私は」のように、「一個の人格として」主題提示することと、
「私に(は)」のように、「人格としての存在場所として」機能することの両方ができる。
「庭」には、それができない。(たぶん)
この回答への補足あり
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この回答へのお礼
コメントありがとうございます。
>たぶんどの例でも、庭...と私..で使われ方は同じだと思います。
だとすると、3)4)の違い、5)6)の違いはどこから生まれるのでしょう。
>さらに「何処」にとか「誰に」とかを強調したい場合は「に」に続けて「は」をつけて「には」にします。
辞書の記述を見るとそのとおりだと思います。辞書に関しては後ほど補足します。
だとすると、「強調」(または「比較」)のニュアンスがなければ「に」になるはずです。
4)は不自然に感じませんか。
>庭が二羽鶏を所有している、というニュアンスになってしまうため不自然
そうかもしれません。
正面は5人SPがいる。裏口は2人SPがいる。裏口のほうが手薄だ。
でも「正面」や「裏口」が所有していますか?
……あまりにも特殊すぎますか(泣)。
>「私は」のように、「一個の人格として」主題提示することと、
>「私に(は)」のように、「人格としての存在場所として」機能することの両方ができる。
>「庭」には、それができない。(たぶん)
これはポイントになる気がします。
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お礼日時:2020/01/13 12:38
No.5
回答者: fxq11011
回答日時:2020/01/12 12:37
いる、は自動詞?、なら目的語は不要、となれば「に」はどちらも場所を表します。
「は」係助詞、簡単に言えば、「私に」(場所・位置)、を主題にし、以下それにかかる説明をします、内容は主題にかかる内容に限定されます、言いかえれば提示した主題に限定して・・とも理解できます。
現実には、どんな状況で使うか?、使われるか?によります、「私に」・・単純に場所・位置の表現だけでOK?、またはそれを限定することで強調の必要があるのか。
表現に対する、表現者の、表現に対する感性(TPO)次第?。
年下の兄弟のことで話が盛り上がっているが、他の者は女兄弟ばかり・・・、そんな中なら「私には」。
単純に兄弟の有無を聞かれただけなら「(私は)弟がいます」。
> 5)だとほとんど×ではないかと。6)だとやや不自然さが残りますが「私に弟がいる」よりはマシのような。
実際に使われる状況によって異なり、これだけで判断は拙速です。
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この回答へのお礼
コメントありがとうございます。
>いる、は自動詞?、なら目的語は不要、となれば「に」はどちらも場所を表します。
あまり関係ないのでは。
「(私は)記入欄に住所を書きました」のような文でも、「に」は場所を表わすはずです。SF文法の場合は違うようですが。
>表現に対する、表現者の、表現に対する感性(TPO)次第?。
それはそのとおりだと思いますが……。
>単純に兄弟の有無を聞かれただけなら「(私は)弟がいます」。
おそらく、(私は)を省略して「弟がいます」が素直でしょう。
主題(「主語」でもほぼ同様?)を入れるなら(私は)(私には)のどちらもありでしょう。
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お礼日時:2020/01/13 12:49
No.4
回答者: アスナロウ
回答日時:2020/01/11 23:19
#1の補足です。
現在の日本語学、日本語文法論の助詞理解がどの程度のレベルかについて、
<モノの存在場所を表わす「で」?>
https:/
で提起しておりますので参照下さい。
他の回答もこうしたパラダイム下での発想でしかないのは明らかかと愚考致します。■
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この回答へのお礼
本題に関係のないコメントお控えください。
迷惑です。
そんな書き方をするから、ここでもリンク先でも誰にもまともに相手をしてもらえないんですy。
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お礼日時:2020/01/20 21:04
No.3
回答者: yos1912
回答日時:2020/01/11 23:08
たぶんどの例でも、庭...と私..で使われ方は同じだと思います。
基本は34の形になります。文章の主語は「鶏」「弟」で、それを「何処に」とか「誰に」とか補足している形になっています。
さらに「何処」にとか「誰に」とかを強調したい場合は「に」に続けて「は」をつけて「には」にします。こうすることによって、補足した内容が強く伝わってきます。さらに、何かと比較していっているのだというニュアンスが生まれてきます。またそういうふうに比較したいときに使うこともあります。
たとえば1でしたら、「他のどこにも鶏がいない」というような状態が背景にあるときに使います。「私」「弟」の関係でも同じです。「に(だけ)は」という意味合いなのでしょう。
56の例はどちらも違和感があります。
文章の主語は「鶏」「弟」ですが、「には」を「は」だけにすることで「は」は強調のためにつけられたものではなく、主語を示すものになります。主語が2つになって文章のつながりがわかりにくくなってしまいます。「私は」「庭は」に続けて「いる(います)」という動詞がくることはありません。また、これ以外に対応する動詞はありません。主語がどうなったのかわからず終わってしまっています。ものすごくおかしな感じがしてきます。
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この回答へのお礼
コメントありがとうございます。
>たぶんどの例でも、庭...と私..で使われ方は同じだと思います。
だとすると、3)4)の違い、5)6)の違いはどこから生まれるのでしょう。
>さらに「何処」にとか「誰に」とかを強調したい場合は「に」に続けて「は」をつけて「には」にします。
辞書の記述を見るとそのとおりだと思います。辞書に関しては後ほど補足します。
だとすると、「強調」(または「比較」)のニュアンスがなければ「に」になるはずです。
4)は不自然に感じませんか。
>庭が二羽鶏を所有している、というニュアンスになってしまうため不自然
そうかもしれません。
正面は5人SPがいる。裏口は2人SPがいる。裏口のほうが手薄だ。
でも「正面」や「裏口」が所有していますか?
……あまりにも特殊すぎますか(泣)。
>「私は」のように、「一個の人格として」主題提示することと、
>「私に(は)」のように、「人格としての存在場所として」機能することの両方ができる。
>「庭」には、それができない。(たぶん)
これはポイントになる気がします。
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お礼日時:2020/01/13 12:41
No.2
回答者: OKAT
回答日時:2020/01/11 23:08
語感的にはちょっとわたしとは違うようです。
1)庭には二羽鶏がいる
洒落としての言い方ではありませんか。
3)庭に二羽鶏がいる
主題化する「は」を外しただけで、内容にそれほど差が出ません。
5)庭は二羽鶏がいる
「庭」を主題化しているだけで、「いる」とは結びつきにくいようです。
(「庭には」の「は」は「庭に」を主題化しています)
2)私には弟がいる
わたしが(勝手に)師とと仰いでいる金田一春彦氏は、「わたしには三人の子があり、
お手伝いさんが一人います」という文を引いて、子どもはこの家に生まれ、そのままここに住んでいるので「ある」を使う。お手伝いさんは「ここに居よう」という意志を持って住んでいるので、「いる」を使ったと、説明されていました。
そういえば、「妻も子もある」「妻子ある身」という言い方があります。たとえ鶏でも余所へ行きたければ行くことは可能だけれども、餌をもらうこともできるからここにいるだけである。(まあ、大げさな話です)弟も妻子並にあつかえば、「ある」でしょうね。
4)私に弟がいる これも同様に「弟がある」と言いたいところです。
6)私は弟がいる 同じように「わたしに関して言えば」(私を主題化して)弟がある。
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この回答へのお礼
コメントありがとうございます。
>語感的にはちょっとわたしとは違うようです。
いろいろあると思います。
>洒落としての言い方ではありませんか。
たしかにそのとおりです。つい……。
「庭には弟がいる」でお考えいただければ幸いです。
>5)庭は二羽鶏がいる
>「庭」を主題化しているだけで、「いる」とは結びつきにくいようです。
つまり、1)2)の「には」の働き自体は同様であっても、「庭」と「私」で違いが出るということですかね。
このあたりがわからなくて……。
「妻子ある身」は現在でもいいますが、「わたしには三人の子があり」はやや古風な気がします。
この金田一氏の「いる」「ある」の使い分けはどうなんでしょう。
古いエントリーですが、下記あたりが関係するかもしれません。
【「持っている」 「ある」 「いる」【1】【2】【3】 】
http://
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お礼日時:2020/01/13 12:28
No.1
回答者: アスナロウ
回答日時:2020/01/11 22:24
格助詞「に」は空間的な位置付けの認識を表わし、副助詞「は」は特殊性の認識を表わします。
したがって、1)、2)の2つの文の「には」の働きは同じです。
4)と2)の相違は副助詞「は」の特殊性の認識の差異によるもので、「は」が無い場合は単に私個人の弟の有無という事実の表現であり、「は」が加わると他との比較・対照の認識が表現されます。
5)庭は二羽鶏がいる
が×となるのは、「二羽鶏がいる」のが「庭」自体の特殊性の問題ではなく、「庭」を格助詞「に」で空間的な場所として位置付け、その位置付けられた場所としての「庭」の特殊性として捉え、表現しなければ論理性を失うためです。
6)私は弟がいる
は私の特殊性として意味をもち、「私は弟がいるが、彼にはいない。」のような適切な対象的事実の表現になります。
このような助詞の語の意義と、対象→認識→表現の過程的な構造という言語表現の本質を捉えることなく、感覚的な不自然感をいくら並べても何の解決、解明にもなりません。■
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この回答へのお礼
コメントありがとうございます。
>したがって、1)、2)の2つの文の「には」の働きは同じです。
それなのに、3)と4)の違いが出るのはなぜなのでしょう。
3)に関してはスルーですか?
5)6)の違いが出るのはなぜなのでしょう。
>このような助詞の語の意義と、対象→認識→表現の過程的な構造という言語表現の本質を捉えることなく、感覚的な不自然感をいくら並べても何の解決、解明にもなりません。
毎度毎度繰り返される「お念仏」は迷惑なのでやめてください。
いずれにしても、現代の日本語のルールに即したコメントをお願いします。
当方は未来の「SF文法」のことはわかりません。
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日本語アレコレの索引(日々増殖中)【38】
https:/
mixi日記2026年04月23日から。
1)のニュースを見て薄寒いものを感じた。
こんなに高騰してほんまに大丈夫なんだろうか。「弾けるぞ」っていう警鐘もあまり聞かない。そういう話は門外漢なのでパス。
1)のニュースを読んで異和感が2カ所。
●6万円の大台を突破
「6万円の大台に乗ったこと」はわかる。「突破」が意味不明。これが「6万円を突破」ならまだマシ。
昼のNHKのニュースでは、スタジオのアナウンサーも取材中の記者も「大台を突破」と言った。
2)のニュースを読むと、「初の6万円超え」「6万円台に到達」とある。これが通常の日本語だろう。
ちなみに「5万円到達から半年 」とのこと。ここが重要なポイントのはずだが、1)には記載がない。【速報】だからしょうがないのか。 ネット検索すると「大台を突破」と「大台に乗る」が混在しているイメージ。
https:/
●停戦期限が延長されたことも好感され
そんな日本語アリなの?
2)にも「停戦延長を表明したことが好感され」とある。
辞書をひいてのけぞる。
https:/
===========引用開始
デジタル大辞泉 「好感」の意味・読み・例文・類語
こう‐かん〔カウ‐〕【好感】
よい感じ。好ましい印象。「好感がもてる青年」「人に好感を与える」
[補説]「長期金利低下が好感されて株価が上がる」のように株式市場では以前からサ変動詞としての使い方があった。近ごろでは「もっとも好感される女優」のように、株式用語以外の場面でも使われ始めている。
[類語]善意・厚意・老婆心・好意・親切
===========引用終了
===========引用開始
精選版 日本国語大辞典 「好感」の意味・読み・例文・類語
こう‐かんカウ‥【好感】
〘 名詞 〙
① 好ましい感じ。よい感じ。感じのよい印象。
[初出の実例]「新しい興味と好感(カウカン)が湧いてゐた」(出典:桐畑(1920)〈里見弴〉邂逅)
② ( ━する ) 経済活動において、先行きが明るいという感触をえること。「株式市場の堅調を好感する」
===========引用終了
『大辞泉』は動詞を認めてはいないが、「株式市場では以前からサ変動詞としての使い方があった」としている。やはり「サ変動詞」って呼称が妥当?
『日国』は「② ( ━する ) 経済活動において、先行きが明るいという感触をえること。」としている。
うーむ。アリなのね。
あれ? 『日国』はサ変動詞の表示ってしてたっけ。「感動」は表示ナシ。
https:/
下記は参考になるのかならないのか。ここまでビミョーだとなんと申しましょうか。
【受け止め方が分かれる「3000人台を突破」】
https:/
===========引用開始
「3000人台を突破」とは何人になったことを指すのか。「3000人超」と「3001~3999人」を選んだ人の合計が半数をやや上回りましたが、回答は割れました。幅のある数字を「突破」するという表現は言葉のかみ合わせがよくないようです。
「~人台を突破」という言い方をどう受け止めるか伺いました。
目次
回答は割れる
「台」は数字の幅を示す
「突破」はラインを超えること
「大台」を使った表現なら
意味が伝わりにくい表現
回答は割れる
新型ウイルスの感染者が「3000人台を突破」――これは何人になったということ?
3000人超 34%
3001~3999人 19.9%
4000人以上 27.7%
上の複数に当てはまり、決められない 18.4%
「3000人台を突破」と言った場合、いったい何人になったことを指すのか。回答は割れました。「3000人超」と「3001~3999人」を合わせると半数を少し上回りますが、同時に「4000人以上」と「決められない」の合計も半数近くになります。「~台を突破」という言い方自体に分かりづらさがあると考えるべきでしょう。
「台」は数字の幅を示す
「台」とはどういうことか。国語辞典では「数量の大体の範囲を示す語」(岩波国語辞典8版)のような説明が多いのですが、大辞林(4版)は具体的に
数量の大体の範囲を示すのに用いる。例えば「千円台」は「一〇〇〇円から一九九九円まで」。
と説明しています。「1000円台=1000~1999円」という幅のあるゾーンを表しているということです。
質問文の例に即していえば「3000人台」とは「3000~3999人」を表していると言えるでしょう。「3000人台を突破」というのは、この幅のあるゾーンを「突破」することでなければならないと出題者は考えます。「3000人超」や、「3000人台」とほぼ重なる「3001~3999人」という範囲の場合には、「3000人台を突破した」とは言いにくいのではないでしょうか。
「突破」はラインを超えること
でも「~人台を突破」みたいな言い方はよく見る、という人もいるかもしれません。「ある目標・数量を超えること」(大辞泉2版)という意味を持つ「突破」は数字と合わせて使われることが多いので、そのように感じるのかもしれません。ただし辞書の用例を見ると、「人口が一億人を突破する」「参加者は五万人を突破する」「一千万を突破した」など、「台」のような幅のある数字を例示することはありません。あくまで一つの数字を挙げて、そのラインを超えることを「突破」と言っています。
もちろん世の中には細い線もあれば太い線もあるわけですから、「3000人台」のような太いラインを突破して、その上に出ることを「3000人台を突破する」と言っていけないという理屈はありません。その場合は「3000人台を突破」イコール「4000人以上になること」を意味しますが、あまり釈然としません。なぜそんな幅の広いラインを想定しなければならないのか。出題者なら、そうした書き方よりは、「4000人台に乗せた」のような表現を選びます。
「大台」を使った表現なら
上で述べたことは要するに、幅のある数字と「突破」という表現がかみ合わないということです。「突破」を使いたければ「3000人を突破」とすれば良さそうですし、「台」を使いたければ「3000人台に達した」などの言い方をするのが穏当でしょう。
どうしても「突破」に加えて「台」の文字を使いたいならば「大台」を使った表現にすることも可能です。「大台」はもとは株式相場の用語で100円単位を指す言葉ですが、現在はもっぱら「金額・数量などで、大きな区切りや目安になる境目。『二兆円の大台を突破した予算』」(大辞泉2版)として使われます。この用例に倣えば「3000人の大台を突破した」も問題ないと言えるでしょう。
意味が伝わりにくい表現
出題者の考え方としては、今回のアンケートで「正解」と呼べそうな選択肢は「4000人以上」ですが、実際に原稿で「3000人台を突破」のような表現が使われている場合に「4000人以上」を指すことはまずありません。大抵は3000人台に乗せたことを指して使われています。
実態がそうしたものだとすると、「3000人超」「3001~3999人」を選んだ人はむしろ自然な受け止め方をしているのだと言えるのですが……。しかしやはり、このように紛らわしく受け止め方に困る表現を使うこと自体に問題があると言った方がよさそうです。「~台」のような幅のある数を「突破」する、という表現は避けるに越したことはないと申し上げます。
(2021年09月07日)
質問に際して
「観光客が○万人台を突破」「株価が△円台を突破」……こうした書き方を見るたびに「いったい幾らになったと言いたいのかな」と感じます。「台」は数字の桁を表す表現ですが、「突破」というならばその桁を通過して、次の桁に入ったと考えるのが素直な読み方とも思えるからです。
これらの例は、大抵は「~の大台を突破」といった表現との混同から生まれたものとみられます。「大台」を辞書は「大きな境目となる数値。『―を割る』『ついに二百勝の―を突破』」(新明解国語辞典8版)と説明します。「3000人の大台」を突破したとあるなら「3000人のライン」を超えて3000人超になったということで、「3000人台」という数字の桁を表す表現とは意味が違うのです。
実際の作業で目にする「3000人台を突破」のような書き方は、まず間違いなく「3000人の大台を突破」あるいは「3000人を突破」と同じ意味です。つまり3000人超ということ。基本的には出稿元に念を押していずれかの形に直すのですが、「3000人台を突破」をあえて文字通りに受け止めるなら、皆さんは何人と取るでしょうか。
(2021年08月19日)
===========引用終了
1)【【速報】日経平均株価 史上初6万円突破】
https:/
===========引用開始
2026年04月23日 09:10 TBS NEWS DIG
きょうの東京株式市場で日経平均株価は、史上初めて6万円の大台を突破しました。
中東情勢が不透明ななかでもAIや半導体関連の銘柄がけん引。市場ではアメリカとイランの停戦期限が延長されたことも好感され、買い注文が先行しました。
===========引用終了
2)【東京株、初の6万円超え=米国株高を引き継ぐ―5万円到達から半年】
https:/
===========引用開始
東京株、初の6万円超え=米国株高を引き継ぐ―5万円到達から半年
2026年04月23日 10:02 時事通信社
時事通信社
23日午前の東京株式市場で日経平均株価が一時、前日比428円12銭高の6万0013円98銭まで上昇し、1950年の公表開始以来初めて6万円を超えた。前日の米国株上昇を受けて買いが入り、前日に続いて取引時間中の最高値を更新。昨年10月に5万円台に乗せてから半年で6万円台に到達した。
その後は利益確定の売りに押され、マイナスに転じる場面もあった。午前9時半現在は298円88銭高の5万9884円74銭。
前日の米国市場では、トランプ米大統領がイランとの停戦延長を表明したことが好感され、ハイテク業種を中心に買いが広がった。好決算を発表した銘柄が大きく値上がりしたことも、米株価指数の上昇に寄与した。東京市場もこれを引き継ぎ、取引開始直後から半導体関連株などに買いが入った。
===========引用終了■【速報】日経平均株価 史上初6万円突破
(TBS NEWS DIG - 04月23日 09:10)
https:/
===========引用終了
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下記の仲間。
日本語アレコレの索引(日々増殖中)【36】
https:/
mixi日記2025年08月日から。
下記の続き。
【「サ変動詞」(熟語動詞)の怪】〈1〉~〈4〉
https:/
下記で「サ変動詞」という呼称を目にして、〈【「サ変動詞」(熟語動詞)の怪】〈5〉?〉を下書きのまま棚上げしていることに気づいた。
【サ変動詞の中止形?】
https:/
某閉鎖空間で、〈熟語動詞(仮称)〉という書き方をしたら、貴重なご意見をいただいた。保全しておく。ああ、全文をひけないのがもったない。
===========引用開始
Kさん
「熟語動詞」は「複合動詞」のことかと思ってしまうので、ここは「漢語サ変動詞」あたりがよいのでは。
===========引用終了
━━━━━━━━━━━引用開始
当方
>「熟語動詞」は「複合動詞」のことかと思ってしまうので、ここは「漢語サ変動詞」あたりがよいのでは。
長年懸案事項になったままです(泣)。
【「サ変動詞」(熟語動詞)の怪】〈1〉~〈4〉
https:/
===========引用開始
まず根本的な問題から。
「成長する」みたいな形の動詞は、どう総称するべきなのだろう。
「サ変動詞」「漢語サ変動詞」「漢語動詞」なんて呼称を見たことがある。厳密に言うと「サ変動詞」だと「サ行変格活用」の動詞全部を指す気がする。
愛用のワープロ専用機だと、単語登録の際に「サ変名詞」を選べたはずだ。
メンドーなので、以降は熟語動詞と呼ぶことにする。「成長する」のように「熟語+する」の形で「サ行変格活用」になる動詞のこと。一般に熟語は2字。「度外視する」「白眼視する」「重要視する」(なぜか「~視」ばかり)のように3字のものもあるけど、あえて無視する(笑)。
===========引用終了
本質坊主が妙なことをいっていた。「漢語複合動詞」だったかな。知らんわ。
【〔【「サ変動詞」(熟語動詞)の怪】〈1〉~〈4〉〕の迷妄 《1》】
https:/
〈「サ行変格活用複合動詞」、略して「サ変複合動詞」くらいが妥当〉らしい。違うだろうなー。
「漢語サ変動詞」が正確かな、とは思います。ただ、字面が……。
━━━━━━━━━━━引用終了
「複合動詞」はどこから出てきたのだろう。
===========引用開始
Kさん
国立国語研究所の「日本語研究・日本語教育文献データベース」で検索すると…
https:/
bit.ly
漢語サ変動詞 が多いです。
あとは、
二字漢語サ変動詞
漢字サ変動詞
など
熟語動詞は、1件あり。
「コリンズ英語熟語動詞辞典」
===========引用終了
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No.29
回答者: hakobulu
回答日時:2019/12/27 00:20
#19です。
1.
>
【1】6)だけはなぜか「を」があってもなくてもいい気がします。理由は不明です。
:
6)公園で掃除(を)する。
いわゆる動名詞と考えて良いのでしょうが、「で」によって表される公園という場所で行われる掃除という動作が、
・名詞扱い=掃除(というもの)をする。
・動詞扱い=掃除(という動作を)する。
どちらも可能になるからではないかと思います。
5)は、公園が「を」によって動作の対象と位置づけられているので、「掃除する」という動詞にならざるを得ない。
7)は、「公園の掃除」が「を」によって動作の対象と位置づけられているので、「する」という動詞にならざるを得ない。
【2】「散歩」だと「の」に異和感があるのに、「掃除」だと自然なのはわかりますが、なぜなのでしょうか。
:
3)公園の散歩をする
7)公園の掃除をする
「を」は動作の対象を表わしますが、公園は散歩の対象とは認識しづらいからではないかと思います。
自動詞と他動詞の違いに着目するとわかりやすくなるかもしれません。
【3】5)と6)は相当違う気がします。どう考えればよいのでしょうか。
:
5)公園を掃除する
⇒公園という場所が、掃除するという動作対象の場所と認識されている。綺麗になるのは公園。
6)公園で掃除(を)する
⇒公園という場所が、掃除するという動作の行われる場所と認識されている。掃除の対象が何かは不明かと。たとえば、何かを持ち込んでの掃除だったり、あるいは、公園の一部の側溝だったり。
2.
おさわがせいたしました。
>現代の日本語にはあてはまらない文法
:
であっても、それなりに筋が通っていれば、「見解の相違」ぐらいのことは言ってあげられるのですが。(笑)
それだとまだマシなんですけどね。
なにしろ、辞書語釈にある、
【「で」は場所を表わす】
という日本語の意味が通じないのですから、話の糸口すら掴めない。
通じた上で、それは間違っている、と言うならまだわかります。
しかし、『日本語の意味が通じない』と申し上げたのは、比喩とかではなく本当に通じていないらしいので、困ったもんです。
冗談みたいな話ですが、辞書語釈のこの日本語の意味が理解できないからこそ、
《★「公園で掃除する」
この「で」が場所を表わすと考えられている方が多いようですが、そもそも「公園」は場所でしかなく、それにも関わらず何故「で」が場所を表わすと考えられるのか》
なんてことを平気で言ってくるのだと思います。
「公園」が場所であるのは確かなのですから、『「公園で」の「で」は場所を表わす』自体が間違いであろうはずはありませんよね?
この理屈が通じないのだから、どうしようもない。
それをわかった上で、「で」は場所以外の他の何か(たとえば、手段・理由など)も表わすことがある、と言うなら、まだ会話が成立するのですが、そうじゃないので火星人と話しているようなもんです。
あげくの果てには、
《いちいち「で」で表さなくても)「公園」を時間や、宇宙と受け取る人はいません。》
ときたもんだ。(笑)
『場所が場所であることを表わすのではなく、どんな場所なのか、ということが問題なわけ。』
と噛み砕いてあげても、
《「どんな場所なのか」→「公園」となるだけで、このレベルで応答を繰り返しても同義反復となるだけで、助詞「で」の意義の廻りを堂々巡りするだけです。》
と開き直る。
しかし、この苦し紛れの詭弁が通用するなら、
「公園で掃除する」と「公園を掃除する」の公園は、どちらも『「公園」という場所』で片づけられてしまうことに気づいていないようです。
自分の言っていることに脈絡というものがまったくなく、その場凌ぎの場当たり的な返答を延々と続ける。
最後には行き詰ってしまうわけですが、そうなると得意のソシュールパラダイムなんちゃらやカントの登場と相成る。(笑)
それなりに聞いてみたい気もしますが、そこに至る過程が滅茶苦茶なのでまったく信用できない。
1+1は3だ、と言う人に相対性原理を解説してもらおうとは思いませんよね。(笑)
長々と愚痴ってしまいましたが、ご寛恕のほどを。
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この回答へのお礼
「いわゆる動名詞」?
日本語の文法で「動名詞」と言いますか?
それは「スル動詞」などと呼ばれるもののことでしょうか。
「掃除する」も「散歩する」も「スル動詞」だと思います。
なぜ接続などがこんなに違うのか、当方には見当もつきません。
「散歩」も、名詞扱い(名詞のイメージが強い?)の場合と動詞(動詞のイメージが強い?)扱いの場合があると思います。
>自動詞と他動詞の違いに着目するとわかりやすくなるかもしれません。
それは可能性があると思いますが、現段階では不明です。
「SF文法」に関わっても、何も得るものはないと思います。
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お礼日時:2019/12/29 14:48
No.28
回答者: r_umaniamnvi_the_5th
回答日時:2019/12/25 05:32
おはようございます。
生を生きたり死を死んだりします。目的語が要らないけど付けるとそれっぽくなります。再帰です。再帰っぽく公園を散歩します。それなら散歩を散歩すればいいのに。
公園を公園するのはダメです。動作と物の違いがあります。散歩とするに別れて散歩をします。散歩を散歩をするのは気持ち悪いです。
全部一遍に使ってみたくなります。公園を公園で公園での公園の公園をする。
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この回答へのお礼
コメントありがとうございます。
本題に関してはどうお考えでしょうか。
コメントNo.1のお礼に書いたことを再掲します。
【1】6)だけはなぜか「を」があってもなくてもいい気がします。理由は不明です。
【2】「散歩」だと「の」に異和感があるのに、「掃除」だと自然なのはわかりますが、なぜなのでしょうか。
【3】5)よ6)は相当違う気がします。どう考えればよいのでしょうか。
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お礼日時:2019/12/26 22:37
No.27
回答者: アスナロウ
回答日時:2019/12/22 22:34
No.26 にお答えします。
1.
>「公園で掃除する」
公園という場所が、掃除するという動作の行われる場所と認識されている。
で、格助詞「で」の意義は?
>「公園を掃除する」
公園という場所が、掃除するという動作対象の場所と認識されている。
で、格助詞「を」の意義は?
何を問題にしているのかが全く理解できていませんね。
問題の本質が理解できずに、思い込みを並べても空回りするだけです。
2.
>着点という本質的意義は
いつの間に「本質的意義」になったのですか?
日本語の意味を理解することが先決であるのに、それができていませんね。
3.
>「中河原駅を出発した。」という動作は何時に起きたのか?
「9時に中河原駅を出発した。」という文の中には、「起きた」という動詞はありません。
【動詞が表す移動性に着目しなければならない.】のに、表現されていない動詞を持ち出して説明するのは、全くのご都合主義で、意味をなしません。
融通無碍のお遊びではどうしようもありません。
まあ、いちいち対応しているとキリがないので、このへんにしておきます。
しばらくじっくり論理的な思考、解明とは何かをお考えになった上で、不明な点を別途質問下さい。
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No.26
回答者: hakobulu
回答日時:2019/12/22 21:22
#23です。
#25に応じて。
1.
>「どんな場所なのか」→「公園」となるだけで、
>何が根拠なのですか。「で」に指がありますか?
:
「公園で掃除する」
公園という場所が、掃除するという動作の行われる場所と認識されている。
「公園を掃除する」
公園という場所が、掃除するという動作対象の場所と認識されている。
これらの違いが理解できない、ということですね?
まず、ここから始めてください。
2.
>それで分かった気になるため、今回のような疑問、質問が延々と繰り返されることになります。
:
ひと言で表すのが本質的意義ですから、実際の文に適用する場合に、色々と難しい問題が出てくるのは当たり前のことでしょう。
それをわかりやすく解説しているのが辞書の用法です。
そうか、着点という本質的意義は、この文においては、こうした用法として適用されているのだな、という理解に至ることができるわけです。
日本語の意味を理解することが先決であるのに、本質的意義を偉そうに開陳するだけでは何の役にも立たない。
しかも、それが間違っているときては終わってますよ。
3.
>これでは、「9時に中河原駅を出発した。」に何故「に」を使用するのかを説明できません。「出発」は移動の始点です。極めて倒錯した論理です。
:
「中河原駅を出発した。」という動作は何時に起きたのか?
という源を辿れば、それは「9時」という時刻に辿り着く。
およそ、こういった構造です。
a:中河原駅を出発した。
b:いつ?
a:9時に。
といった会話を総合してみると理解しやすくなるでしょう。
「出発」という動作の行われた時刻、それは「9時」ですよ、と格助詞「に」を使うことで表しているわけです。
まあ、いちいち対応しているとキリがないので、このへんにしておきます。
しばらくじっくりお考えになった上で、なお腑に落ちなければ新たに質問でも立ててください。
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No.25
回答者: アスナロウ
回答日時:2019/12/22 11:11
No.23 に 答えて
1.
>『場所が場所であることを表わす』のではなく、どんな場所なのか、ということが問題なわけ。
「どんな場所なのか」→「公園」となるだけで、このレベルで応答を繰り返しても同義反復となるだけで、助詞「で」の意義の廻りを堂々巡りするだけです。
何ら、この質問者の疑問を理解したことにはならず、ましてや解明、回答などできません。
「中学生でもわかる認識なのですが。」などと言ってみたところで、この質問者が中学生でないのは明らかで、回答者のパラダイムに呪縛された思い込みを述べてみても全く解決にはななりません。
まず、この点を自覚、認識することが大切です。
2.
>いや【指す】と根拠を挙げて申しあげている。
何が根拠なのですか。「で」に指がありますか?
あなたこそ論理的根拠を示したうえで、その説の正当性を主張しましょう。
>誰か偉い先生が言ったからそうなんだ、というだけではお話になりません。
「ああ言えば、こう言う」の典型ですね。
「偉い先生が言った」からではなく、当方の主張が助詞とは何を論理的に考えれば当然そうなりますという事例を挙げたまでです。残念ながら、その後の「は」「が」論の展開は鋭い指摘はありますが、生成文法の発想に縛られ十分な解明には至っていません。
問題は、助詞とは何かを明らかにすることで、この点をどのように考えられているのでしょうか?
3.
>『無限』と感じるのは勉強不足のせいでしょうね。
限定されていますよ。
言語表現が他の絵や音楽と比し限定された表現であるのは確かですが、言語表現自体としては生成文法論者の云う意味とは異なった無限の表現が可能です。
この辺が理解できないのは、勉強不足のせいでしょうね。
>用法として示しているのが辞書の語釈
本質を明らかにできないため、用法で糊塗しているのが現在の辞書の実状です。
4.
>そのぐらいのことは辞書で誰でも確認できること。
そのぐらいしか辞書では確認できないため、質問がされているのが理解できませんか。
>見解の相違でしょうから致し方ない。
見解の相違ではなく、パラダイムの呪縛が理解できない発想の限界です。
自らの見解の不都合に気づき、いつまでもごり押ししてないで改めるという態度を見せるのが大人の作法だということぐらいは覚えておくとよろしいです。
5.
a.むべなるかな。
一律に「場所」で片づけられると勘違いする方ばかりです。
b.
>以前から申し上げている格助詞「に」の用法【着点】に附合する解説が載っている
だから、課題が残るということです。
>よくご覧になれば、それほど難しいことじゃないことがおわかりになるでしょう。
それで分かった気になるため、今回のような疑問、質問が延々と繰り返されることになります。
>動詞が表す移動性に着目することができれば,「に」が「移動の到着点」を指す働き(國廣1980)17)を身につけることができると考えられる.
この國廣氏の発想の限界、誤りを指摘しているのが先に紹介した弟子である柴谷方良(まさよし)の
「助詞の意味と機能について―「は」と「が」を中心に―」
(『文法と意味の間―国広哲弥教授還暦退官記念論文集』 [くろしを出版,1990.6.1])
です。
「動詞が表す移動性に着目すること」というのが単なる後付けの論理でしかないことが理解できないところに、ソシュールパラダイムのラングを言語本質とする発想の限界、誤りを見なければなりません。
話者の認識の媒介という言語表現のもつ立体的な媒介の構造が理解できずに、平面的な解釈に陥った道具観の発想です。
>「で」はなぜ不可なのかについて、着点だから「に」を使う必要がある、と説明するのは、極めて明快な論理でしょう。
これでは、「9時に中河原駅を出発した。」に何故「に」を使用するのかを説明できません。「出発」は移動の始点です。極めて倒錯した論理です。
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No.24
回答者: hakobulu
回答日時:2019/12/21 22:37
#23です。
訂正がありますので再度失礼。
×
つまり、着点という意義を知らないと、場所だということで、「9時で中河原駅で集まった」のような文を作ってしまうと言っている。
〇
つまり、着点という意義を知らないと、場所だということで、「9時に中河原駅で集まった」のような文を作ってしまうと言っている。
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No.23
回答者: hakobulu
回答日時:2019/12/21 22:33
#21です。
#22に応じる形で。
1.
>「公園」を時間や、宇宙と受け取る人はいません。
:
ですから、場所じゃないとは言ってませんよね?
『場所が場所であることを表わす』のではなく、どんな場所なのか、ということが問題なわけ。
と言っている。
この文の意味が理解できないのですか?
2.
> 名詞や動詞などと違って、助詞はそれ自体が【ある事物や動作・状態】を【指さない】。助詞の意味というときには、ここに問題点の一つがある。
ということです。日本語が理解できませんか?
:
【指さない】と決まってるんだから指さないんだ、と駄々っ子のようにごねるだけでは用を為しません。
こちらは、いや【指す】と根拠を挙げて申しあげている。
あなたも論理的根拠を示したうえで、その説の正当性を主張しましょう。
誰か偉い先生が言ったからそうなんだ、というだけではお話になりません。
3.
>辞書は単語の意義を説明するもので、文脈を説明するものではありません。
いちいち文脈を説明していたら、無限の説明が必要になります。
未来に使用されるものを説明することはできません。
:
『無限』と感じるのは勉強不足のせいでしょうね。
限定されていますよ。
本質的意義はひとつでしょうが、シチュエーションに応じ、それを咀嚼する形でわかりやすく用法として示しているのが辞書の語釈というものでしょう。
4.
>「で」の本質的意義について触れないで、毎回思いつきの都合のよい解釈を並べてどうするのですか、
:
上の3でも申し上げたように用法は、ある程度限定されている。
その質問に合った用法を示し、必要であれば他の用法も提示するようにしている。
これを『都合の良い解釈』としか認識できないようでは、用法という言葉の意味を知らないとしか思えませんね。
そもそも、そのぐらいのことは辞書で誰でも確認できること。
思いつきと言うなら、それは、むしろ本質的意義のほうでしょう。
「で」の本質的意義は「原因・理由」だなどと、とんでもない思いつきをいつまでも主張する御仁もおられますが、それはそれでご愛敬。
見解の相違でしょうから致し方ない。
しかし、他人の見解を聞いて自らの見解の不都合に気づいたら、いつまでもごり押ししてないで改めるという態度を見せるのも大人の作法だということぐらいは覚えておくとよろしいです。
5.
><場所を表す名詞に下接する格助詞「に」「で」「を」について-日本語教育の観点に基づく先行研究の整理と課題->
:
a.
これは面白そうですね。
冒頭付近の以下のような記述が印象的かと。
※日本語学習者には,人や物の存在場所を表す「に」と動作場所を表す「で」の混同による誤りが現れることが知られている.※
むべなるかな。
ネイティブでさえ、
『場所が場所であることを表わす?
表わさなくとも公園は場所です。』
と宣いつつ、
「公園で掃除する」
「公園に砂場がある」
の公園を、一律に「場所」で片づけられると勘違いする方もおられますのでね。
b.
以前から申し上げている格助詞「に」の用法【着点】に附合する解説が載っているので、下記に引用しておきます。
よくご覧になれば、それほど難しいことじゃないことがおわかりになるでしょう。
※「9時に中河原駅で集まった」(鈴木1978)3)に「に」を正しく用いるためには,動詞が表す移動性に着目しなければならない.
日本語学習者が,動詞が表す移動性に着目することができれば,「に」が「移動の到着点」を指す働き(國廣1980)17)を身につけることができると考えられる.※
つまり、着点という意義を知らないと、場所だということで、「9時で中河原駅で集まった」のような文を作ってしまうと言っている。
「で」はなぜ不可なのかについて、着点だから「に」を使う必要がある、と説明するのは、極めて明快な論理でしょう。
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No.22
回答者: アスナロウ
回答日時:2019/12/21 18:38
#21に応じる形で。
>>「公園で掃除する」という文における「掃除する」という動作の行われる場所として公園を指定するために格助詞「で」が使われるわけです。
「公園」を時間や、宇宙と受け取る人はいません。
No.14 で引用した通り、
名詞や動詞などと違って、助詞はそれ自体が【ある事物や動作・状態】を【指さない】。助詞の意味というときには、ここに問題点の一つがある。
ということです。日本語が理解できませんか?
>>文脈からはずれた批判は避けないと議論がかみ合わなくなりますよ。
辞書は単語の意義を説明するもので、文脈を説明するものではありません。
いちいち文脈を説明していたら、無限の説明が必要になります。
未来に使用されるものを説明することはできません。
その程度のことが理解できませんか。
>>そもそも、「で」の本質的意義については触れていません。
「で」の本質的意義について触れないで、毎回思いつきの都合のよい解釈を並べてどうするのですか、
その結果、<場所を表す名詞に下接する格助詞「に」「で」「を」について-日本語教育の観点に基づく先行研究の整理と課題->
https:/
のような混乱を引き起こしています。そして、課題だけが解決されずに残ります。
>>>学校が点(・)ですか。目が・になります。(@_@;)
:
こうした感覚では、何も理解はできないでしょうね。
中学生でもわかる認識なのですが。
非母語話者の中学生に理解できれば、上記のような問題は起きませんね。
こうした感覚では、大人の日本語学習者に対し正しい教育を行い、理解を得ることはできません。
■
#日本語 #敬語 #誤用 #慣用句 #言葉 #問題 #間違い #二重敬語
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No.21
回答者: hakobulu
回答日時:2019/12/21 16:40
#19です。
#20に応じる形で。
1.
>トートロジー、同義反復という言葉をご存じでしょうか。
場所が場所であることを表わす?
表わさなくとも公園は場所です。
:
「公園で掃除する」
という文における「掃除する」という動作の行われる場所として公園を指定するために格助詞「で」が使われるわけです。
また、
「公園を掃除する」
という文における「掃除する」という動作の対象として公園を指定するために格助詞「を」が使われる。
『場所が場所であることを表わす』のではなく、どんな場所なのか、ということが問題なわけ。
公園という場所が、掃除するという動作の行われる場所と認識されているのか、
公園という場所が、掃除するという動作対象の場所と認識されているのか、
という違い。
2.
>★ペンで字を書く。
「ペン」は場所ですか?
:
そんなことは一言も言ってませんが?
そもそも、「で」の本質的意義については触れていません。
要するに一言で言うなら本質は何か?
という点については取り上げていません。
文脈からはずれた批判は避けないと議論がかみ合わなくなりますよ。
まだ検討段階ですが、せっかくだから、敢えて申し上げるなら、「場面・状況」かなと考えているところ。
仮に場所だとしても、「ニューギニアで戦死した」が原因・理由という強弁よりは数段マシですよね?
3.
>>「ニューギニアで戦死した」などは、
「ニューギニア」を場所として捉えていると思いますが、どうでしょうか。
と問われる可能性に気づいてないらしいのが痛いところですな。
可能性ではなく、意義の拡張の契機を考えるということです。
:
だから、その拡張過程が、まったく論理性を欠いている、と申し上げているわけ。
・戦争で国民の目を外に向けさせるのも一法であろう。
は確かに手段・方法でしょうが、
・ニューギニアで戦死した。
に適用するには納得の得られない用法だ、ということ。
ニューギニアは「手段・方法」でないのはもちろん、それをどう拡張、発展させたって「原因・理由」などになるはずがないでしょう。
桜を見る会の、太鼓持ち官僚の詭弁を聞いている気分になりますね。(笑)
論理というものが一切通用しない世界。
都合が悪い箇所は、思い切り端折って胡麻化す姿勢もよく似ている。(笑笑)
4.
>★学校【に】大きな木があります。
<「に」は、空間的なある点として学校を指定する働きをしています。>とは、<「に」という助詞それ自体が(学校という)事物を指していると解釈している>のではありませんか、そうでなければ何を言っているのでしょうか?
:
ですから、自体という語を使うから、ご自分で勘違いしてしまうのではないですか、と申し上げているところ。
あなたは、『「助詞それ自体がある事物や動作・状態を指す」と解釈した誤りだ』と言っている。
そうではなく、「助詞は、ある事物や動作・状態を指す」と素直に捉えれば済む話です。
「に」自体が「ある事物や動作・状態」だと言っているわけじゃないんです。
そんなことは、どの辞書も言っていない。
であるのに、「自体」という語を使うから勘違いをしてしまうわけ。
ま、じっくりお考えになってください。
5.
a.
>学校が点(・)ですか。目が・になります。(@_@;)
:
こうした感覚では、何も理解はできないでしょうね。
中学生でもわかる認識なのですが。
比喩という言葉すらご存知ないようです。
論点をはぐらかさず、少しは素直に他人の言うことを検討してみましょう。
b.
>★ペン【で】(字を書く。)
「ペン」は場所ですか?
【おもむくところ(=時間・空間・心理上ノ静止点)をそこと指定】していますか?
:
相変わらず、日本語の読解力に問題がありそうですね。
くりかえしますが、この「で」が場所だとはひとことも言っていない。
字を書くという動作のおもむくところ(この場合は着点としての「場面・状況」)を、そこ(=ペン)と指定している。
少し難しいかもしれませんが、ちょっと考えればお分かりになるでしょう。
c.
>指すことができるのは指です。
:
おやおや、困ったものですね。
こんなことから説明しなければならないとは。
以下に示した大辞泉の語釈を参照してください。
あなたが言っているのは、
2 (指す・差す)
㋐指などで目標とする物や場所・方向を示す。指さす。「指で―・して教える」「後ろ指を―・される」「時計の針が七時を―・している」
https:/
という意味だけ。
すぐ下を見れば、
㋑人や物をそれと決めて示す。指名する。また、密告する。「文中のそれは何を―・しますか」
という語釈があるので、よく見て覚えておきましょう。
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No.20
回答者: アスナロウ
回答日時:2019/12/21 11:44
No.19 の回答に答えて
1.
>>『「公園」は場所』だからこそ、
「公園で」というのは、《「で」が(公園という)場所を表わす》
トートロジー、同義反復という言葉をご存じでしょうか。
場所が場所であることを表わす?
表わさなくとも公園は場所です。
★ペンで字を書く。
「ペン」は場所ですか?
2.
>>「ニューギニアで戦死した」などは、
「ニューギニア」を場所として捉えていると思いますが、どうでしょうか。
と問われる可能性に気づいてないらしいのが痛いところですな。
可能性ではなく、意義の拡張の契機を考えるということです。
3.
>>★学校【に】大きな木があります。
この「に」は、空間的なある点として学校を指定する働きをしています。
「に」という助詞それ自体が(学校という)事物を指していると解釈している人などどこにもいませんよ。
誰がそんなことを言っているのですか?
学校が点(・)ですか。目が・になります。(@_@;)
画面の上のドットの集合である「に」がどうして、「学校を指定する働き」などできるのかを説明する必要がありますね。
<「に」は、空間的なある点として学校を指定する働きをしています。>とは、<「に」という助詞それ自体が(学校という)事物を指していると解釈している>のではありませんか、そうでなければ何を言っているのでしょうか?
言っているのは回答者自身ではありませんか。
>>【おもむくところ(=時間・空間・心理上ノ静止点)をそこと指定】
すばらしい日本語じゃありませんか。
もう一度言っておきます。
★ペン【で】(字を書く。)
「ペン」は場所ですか?
【おもむくところ(=時間・空間・心理上ノ静止点)をそこと指定】していますか?
確かに、<「に」という助詞それ自体が(学校という)事物を指していると解釈している>のであり、指すことができるのは指です。画面の上のドットの集合である「に」がどうして、指(ゆび)さすことができるのでしょうか?
「すばらしい日本語」ではありますが、何の説明にもなっていません。
>>個人的に以前から認証している【着点】という意義を的確に表現した内容とも言えます。
未だに、着点などという<客体を指す>という迷妄には恐れ入谷の鬼子母神です。
自分が何を言っているのか、よく内省しましょう。
これを理解できないようではネイティブの名が廃るかもですよ。!
■No.19
回答者: hakobulu
回答日時:2019/12/21 01:56
まだ続いているようなので、興味は無いかもしれませんが、すこしお邪魔させていただきましょうかね。
アスナロウさんの論理が、あまりに無茶苦茶なもんで、見るに見かねてということで。
1.
>★「公園で掃除する」
この「で」が場所を表わすと考えられている方が多いようですが、そもそも「公園」は場所でしかなく、それにも関わらず何故「で」が場所を表わすと考えられるのか、その理由を参考までに伺えれば幸いです。(#15)
:
『「公園」は場所』だからこそ、
「公園で」というのは、《「で」が(公園という)場所を表わす》
と言えるのです。
こんな簡単なことがなぜおわかりにならないのか?
『それにも関わらず』と論を展開している時点で論理破綻していることにお気づきになってください。
2.
>>「戦争」が「原因・理由」にはなると思いますが、「手段・方法」とは考えにくいのですが。
★戦争で国民の目を外に向けさせるのも一法であろう。
などは、「戦争」を手段として捉えていると思いますが、どうでしょうか。(#15)
:
詭弁の例証みたいなことをおっしゃっておられる。
そもそもは、「ニューギニアで戦死した」という#10さんの例文が元ネタです。
「ニューギニアで戦死した」原因・理由が戦争だとは言えるかもしれないが、【ニューギニアで】が「手段・方法」とは考えにくい。あくまで「場所」という用法ではないか。
と#10さんは言っているわけだ。
それに対して、【戦争で】と「手段・方法」用法が明らかな例文を挙げることで、いかにも【ニューギニアで】も「手段・方法」用法であるかのような論理展開を試みようとしている。
だから【ニューギニアで】も「手段・方法」用法になると思うがどうか?
と詰問しているわけだ。
この展開で場所ではないことを納得させようとしているらしいのだが、それは無理筋すぎるでしょうよ。
小学生あたりなら胡麻化されるかもしれないが。
逆に、
「ニューギニアで戦死した」などは、
「ニューギニア」を場所として捉えていると思いますが、どうでしょうか。
と問われる可能性に気づいてないらしいのが痛いところですな。
まあ、ヘーゲルやカントを持ち出すまえに、こうした基本的な姿勢や論理を少し見直してみてください。
それからのご高説なら、喜んで拝聴したいものと感じてはおりますので。
3.
#18についても誤解が顕著なので触れておきましょう。
>辞書が書いているように場所や時間や「時間的・空間的・心理的なある点を指定するのが原義〔広辞苑〕」というのは「助詞それ自体がある事物や動作・状態を指す」と解釈した誤りだということです。
:
★学校【に】大きな木があります。
この「に」は、空間的なある点として学校を指定する働きをしています。
「に」という助詞それ自体が(学校という)事物を指していると解釈している人などどこにもいませんよ。
誰がそんなことを言っているのですか?
アスナロウさんが勝手に思い込んでいるだけでしょう。
[ 自体 ] という言葉の重要性を再確認してください。同様に、
★5時【に】会議が始ります。
この「に」は、時間的なある点として5時を指定する働きをしています。
「に」という助詞それ自体が(5時という)状態を指していると解釈している人などどこにもいません。
因みに、「に」の意義を最も正確に語釈しているのは、下記に引用する学研国語大辞典(※)でしょうね。
【おもむくところ(=時間・空間・心理上ノ静止点)をそこと指定】
すばらしい日本語じゃありませんか。
個人的に以前から認証している【着点】という意義を的確に表現した内容とも言えます。
これを理解できないようではネイティブの名が廃るかもですよ。
※「に」
㊀《格助詞》{体言または体言あつかいのものにつく}動作・作用が存在し、成立し、由来し、おもむくところ(=時間・空間・心理上ノ静止点)をそこと指定し、連用修飾句を作るのに用いる。※
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この回答へのお礼
ホニャララ問答はやっと終わったのでしょうか。
何を書いてもムダだと思いますよ。現代の日本語にはあてはまらない文法なんですから。そのことに気づいていないのは、おそらくご当人だけです。
未来なら通用するのかもしれません。
いわば「SF文法」なのでしょう。当方は関わりたくありません。
それより、本題に関してはどうお考えでしょうか。
コメントNo.1のお礼に書いたことを再掲します。
【1】6)だけはなぜか「を」があってもなくてもいい気がします。理由は不明です。
【2】「散歩」だと「の」に異和感があるのに、「掃除」だと自然なのはわかりますが、なぜなのでしょうか。
【3】5)よ6)は相当違う気がします。どう考えればよいのでしょうか。
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お礼日時:2019/12/26 22:42
No.18
回答者: アスナロウ
回答日時:2019/12/16 18:28
もう少し補足しておきます。
>>国語辞典ひけば、格助詞の「で」には「場所を表わす」と書いてあります。おそらくすべての辞書にそういった記述があるはずです。
これが誤った説明、解釈だということです。
★先生【に】お電話をいただきました。
★先生【に】はペンをあげました。
★先生【に】本をもらいました。
★ここ【に】見本があります。
★学校【に】大きな木があります。
★僕【に】は弟がいる。
★5時【に】会議が始ります。
★5時【に】会議が終わります。
これらの格助詞「に」は全て、空間的・時間的な位置付けの認識を表わすもので、何ら特別の用法ではなく、格助詞「に」の通常の用法に過ぎません。
つまり、No.17で「名詞や動詞などと違って、助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。」と言っている通りで、格助詞は話者による対象の関係の捉え方を客体化することなく直接に表現しています。
この本質が理解できずに、辞書が書いているように場所や時間や「時間的・空間的・心理的なある点を指定するのが原義〔広辞苑〕」というのは「助詞それ自体がある事物や動作・状態を指す」と解釈した誤りだということです。
この本質を理解できずに、文での意味を取り上げ「二の特殊用法? 」などと寝ぼけた戯言を繰り返しても無意味だということです。意味は使用された文でそれぞれ異なり、無限に生み出されるに過ぎません。
膠着語としての日本語の特殊性を正しく理解し、科学的な日本語文法を築き展開する必要があります。
>>それを全否定するなら、もはや日本語の文法の話ではなくなるでしょう。
などと、あさっての方向を向いている人こそ、「ヨソでやってください」ということです。
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No.17
回答者: アスナロウ
回答日時:2019/12/14 23:13
No.16 の補足として「助詞の意味ということ」を述べた、柴谷方良(まさよし)「助詞の意味と機能について―「は」と「が」を中心に―」の一部を次に引用しておきます。
これは、『文法と意味の間―国広哲弥教授還暦退官記念論文集』 [くろしを出版,1990.6.1]に寄せられたものです。
「2.助詞の意味ということ」より
名詞や動詞などと違って、助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。助詞の意味というときには、ここに問題点の一つがある。このことについて山田孝雄『日本文法論』は次のように言う。「そのあらわせる観念の上より観察すれば助詞は単独にては何らの観念をもあらわし得ず、他の観念語に付属して其の義を認むるを得るのみ」そして、「その機能によりて観察すれば、助詞は観念語たる体言用言副詞に付属して其の意義を明にし、又それらの間の関係を示すに用いられる。」山田は、助詞の分類(記述)として、意義を中心としたものと、それらが示す関係すわち職能に根拠を求めるものとがあり得るが、上の引用でも明らかなように、「独立しては何の観念をもあらわしえるに関せず、他の品詞につきて関係を示すことによりて始めて意義を認め得らるるものなれば、その意義は関係に依存する」(549頁) ことから、助詞の研究は意義を主眼としたものでなく、職能を中心としたものでなければならないと説く。
助詞の研究ということで注意すべきいまひとつの点は、これ以下に言及する国広先生の論考にも触れられていることであるが、「記述に際し、発語の『意味』や文の『意義』の記述を混じ」ないことである(服部 1953)。
助詞の研究にとって上述の2点は最も肝要なことと思われるが、近年の助詞研究では必ずしもこれらの点が守られているとは思えない。このことが、現在の有力な助詞論の根本問題であると思われる。例えば、助詞の職能(以下「機能」という)の観点からすれば、係助詞「は」と格助詞「が」は違った系列に属し、現在行よく行われているように、同じレベルで取り扱われるべきものではない。(このことから、本論の表題についても、これらを同系列のものとして取り扱おうとしているのではないということに留意されたい。)/
以下、「は」の主題、「が」の総記、中立叙述という誤りについて論じられ、最終的に認識の相違について限定的ではありますが論じられているので、是非参照下さい。
師である国広哲弥の「は」「が」論、野田 尚史の「は」「が」の俗論を鋭く批判しています。
あくまで、生成文法文法研究者としての枠内ですが鋭い指摘をしています。
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No.16
回答者: アスナロウ
回答日時:2019/12/14 21:16
>>国語辞典ひけば、格助詞の「で」には「場所を表わす」と書いてあります。
おそらくすべての辞書にそういった記述があるはずです。
辞書の誤りを信仰、妄信していては進歩も、発展もありません。
辞書は信仰の対象ではなく、批判的に扱うべきものです。
No. 15 で提起した疑問に答えられますか?
>>それを全否定するなら、もはや日本語の文法の話ではなくなるでしょう。
いいえ。
科学的、論理的に正しい真実の日本語の文法で、現在のソシュールパラダイム化の誤りを正さないと日本語教育も進歩しません。
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No.15
回答者: アスナロウ
回答日時:2019/12/10 16:29
No.11 に加えて
No.10 の質問をいただいたので、逆に当方の疑問を提起したいと思います。
★「公園で掃除する」
この「で」が場所を表わすと考えられている方が多いようですが、そもそも「公園」は場所でしかなく、それにも関わらず何故「で」が場所を表わすと考えられるのか、その理由を参考までに伺えれば幸いです。
>>「戦争」が「原因・理由」にはなると思いますが、「手段・方法」とは考えにくいのですが。
★戦争で国民の目を外に向けさせるのも一法であろう。
などは、「戦争」を手段として捉えていると思いますが、どうでしょうか。
そもそも、助詞とは何であると回答者の皆さんは考えられているのでしょうか?
この点を明確にしないと、今回の質問に対する回答は不可能で、「理由は不明です」ということにならざるをえないと考えますが。
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No.14
回答者: fxq11011
回答日時:2019/12/10 10:17
手段・方法は如何に拡張解釈しても原因・理由になる得ることはないと思います。
だって、手段・方法は人が選びます、原因・理由は必ずしも人が選ぶ必要はあり得ません、どころか、少なくとも個人が選択不可能のものの方が多いのでは。
ニューギニアで戦死、非常に短い内容ですが、何を表している?。
「で」が理由・原因を表す必要が有るのか、この内容で理由・原因が必要な内容は「死」だけです、「戦死」と表現されています、戦争による戦い、が原因です、「で」なんか無関係で単純に理解できます。
何処で死んだのか、それを表現しています、もちろん単に死だけでなく、また病死でもなく戦死、なんですね
話し代わりますが、最近中学校当たりで、生徒同士が互いに教え合う、と言う授業が有るそうです、あれは教える側の当人にとっても非常によい勉強になると聞いたことがあります。
何故か?教える側は十分理解しているだけではダメなんですね、理解するに必要な情報だけではなく、関連する周辺情報も理解しておく必要が有るからです。
つまり、理解していない相手だから、多少ピントはずれの質問(自分が理解するだけなら不要な内容、知らなくても良い内容)をされても、理論的に説明して、結論に結びつける必要が有るからです。
さらに、相手の理解力によっては、教える当人なら必要のない内容を織り込んで説明して理解を得る必要もあります。
言い換えれば、先生がそう言っていたでしょう、教科書のここに載っているでしょう(いわば、引用、批判的に言ってしまえば、自分の責任回避)、では相手は聞く気にもなりません、とても理解なんかには繋がりません。
戦いの方法の一つにゲリラ戦と言うものがあります。
どんな方法なのか?、手段=武器だけの相違なのか、方法に待ち伏せ(場所、タイミング)はないのか、闇(夜=時刻)に乗じて・・はないのか ・・・、俗に言うはかりごと、も手段とも言われますね、例 汚い手(手段)を使いやがって・・・。
すぐに、専門書の内容を引っ張り出して(引用して)より、日常、身の回りで経験する内容・事例を取り込み、自身の裁量で、加工して、そのまま提供する、これができて本物?。
だから、できる人(教える側)はこの本物?に、より近づき、教えられる側は、身近で経験した内容を通して理解でき、十分納得できます。
専門的知識をひけらかして理解に至る最短距離を示されても、とても付いてゆけるものでは有りません、余裕の遊び?がないことには、その専門知識たるや、責任丸投げの引用ばかりでは、さらに・・・です。
※リハビリ・筋肉トレーニング。
本当に修復、発達し、より強くなるのは、リハビリ、筋トレの最中ではなく、安静時、いやそれよりも直接の関係がない部分を使っている時なのです、単に安静、ではなく遊んでいる時なのです。
#日本語 #敬語 #誤用 #慣用句 #言葉 #問題 #間違い #二重敬語
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質問者:1311tobi
質問日時:2019/12/06 22:07
回答数:29件
このところいくつかの同じような質問があって、眺めているうちに妙なことを思いついてしまいました。
1)公園を散歩する
2)公園で散歩する
どちらもフツーに使うでしょう。
日本語教育のジャンルでは有名な話のようです。
https:/
3)公園の散歩をする
4)公園での散歩をする
どちらも無理気味です。特殊な文脈をもってくればなんとかなるかもしれません。
「公園(で)の散歩」を日課にしているくらいならアリでしょうか。
さて、本題はこのあとです。
5)公園を掃除する
6)公園で掃除(を)する
7)公園の掃除をする
6)だけはなぜか「を」があってもなくてもいい気がします。理由は不明です。
「散歩」だと「の」に異和感があるのに、「掃除」だと自然なのはわかりますが、なぜなのでしょうか。
1)と2)はほとんど同じ意味に思えます。
でも、5)よ6)は相当違う気がします。どう考えればよいのでしょうか。
質問者からの補足コメント
どう思う?
国語辞典ひけば、格助詞の「で」には「場所を表わす」と書いてあります。おそらくすべての辞書にそういった記述があるはずです。
それを全否定するなら、もはや日本語の文法の話ではなくなるでしょう。ヨソでやってください。
https:/
補足日時:2019/12/13 21:43
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どんどん症状が悪くなっているようですね。
ご自愛ください。
補足日時:2019/12/19 22:27
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A 回答 (29件中21~29件)
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No.13
回答者: アスナロウ
回答日時:2019/12/08 18:34
No.2 の回答だけでは理解できないようなので補足をしておきます。
>>「散歩」だと「の」に異和感があるのに、「掃除」だと自然なのはわかりますが、なぜなのでしょうか。
格助詞「の」は所属・所有の関係認識を表わします。
掃除は他動の公園自体に対する行為・作用で公園自体の属性ですが、散歩は自動の話者自体の属性です。
このため、「公園の散歩」の公園と散歩は所属・所有の関係にないため違和感を感じることになります。
>> 1)と2)はほとんど同じ意味に思えます。
同じではありません。意味が異なります。
1)公園を散歩する。
公園を自動詞「散歩する」の対象として捉えています。
2)公園で散歩する。
公園を散歩の手段として捉え表現しています。
>>5)よ6)は相当違う気がします。どう考えればよいのでしょうか。
1)と2)は「散歩」という自動の行為なので、「を」でも「で」でも単に話者に対立する対象ですが、5)や6)の場合は「公園」が「掃除」という他動の行為、作用の対象で、「公園」自体に変化を与える行為・作用で所属の関係となるために自動の「散歩」という対立の関係とは異なり「相当違う気がします」ということになります。
このように、話者の認識を捉えないと、当然ながら「理由は不明です。」ということになるしかありません。
言語は話者の認識の表現であるというのは、この事を言っています。■
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No.12
回答者: fxq11011
回答日時:2019/12/08 17:51
「で」文法の解説書の説明では、手段・方法、場所、時刻と同列で説明されています。
個人的には場所・時刻も手段・方法に含まれると思っています。
武士の時代(に限りませんが)、戦の方法・手段、として「夜討ち・朝がけ」、戦の方法のひとつですね、実際の内容は時刻が問題ですが。
所かまわず・・・・、一定の範囲で目標物の密度が高ければ、方法として照準を合わす必要ありませんね、一定の範囲内でも密度にばらつきがあれば、より密度の高いところを狙う必要がありますね。
全く逆の方法が、絨毯爆撃・・という方法(手段です)。
何かをするにあたり、場所、時刻を選ぶのも、手段・方法のうちでもあります。
文法は膨大な言葉、文章を分類して、体系づけています、、まったく同じものをそれ絵r多だけではありません、分類したそれぞれの名称当、共通する部分(と言っても全く同じ、ことはありません)、が想定可能な名称をつけています、背梅井に使用される言葉も同様です、辞書等で説明される意味、以上に拡大してとらえる必要があります。
ただ、原因・理由への拡張・・・には同意しかねます。
あくまでも、す段・方法の認識を拡張するだけです。
①道具その他
②場所・位置
③時刻
④他と同じ場所、同じ時刻(タイミング)
泥棒の七つ道具・・・・これはは主殿としての、道具ですね。
真昼に堂々と実行しますか?、夜陰に紛れ(時刻)、人目ニつかないところ(場所)
留守の家(タイミング)。
すべてが、手段であり、方法でもあると認識できるかどうかが、文法をどこまで自分のものにでき、他人に説明できるかどうかの分かれ目?、とも言えそうに思います。
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No.11
回答者: アスナロウ
回答日時:2019/12/08 11:56
No.10 の質問に答えて
>>「公園で掃除する」は「公園」を使って(利用して)掃除するということになるのですか。
「利用」ではなく、手段・方法という認識を表わしており、その対象が場所であるため場所を表わすと理解されるもので、それは文での意味ということで、語としての格助詞「で」の意義は手段・方法という認識の表現ということになります。
>>「戦争で死んだ」「ニューギニアで戦死した」の「で」も「手段・方法」でしょうか。そう認識して使うのでしょうか。「戦争」が「原因・理由」にはなると思いますが、「手段・方法」とは考えにくいのですが。「ニューギニアで」も同じです。
この場合は、手段・方法から拡張、発展して「原因・理由」の認識になっています。「ニューギニアで戦死した」のような表現が丁度、手段・方法から「原因・理由」への拡張の転機といえます。
>>「これで、失礼します」の「で」はどう説明出来るのですか。「これ」は「このタイミング」だろうとは考えます。
格助詞「で」は古語の「にて」から転成したもので、「に」が時間的・空間的な位置付けの認識、「て」が確認の認識を表わす助動詞で、そこから「~をもって」のような手段・方法という認識を表わすものとして使用され、時間的な位置付けの認識もあり、「これにて失礼いたします」のような「この時をもって~」という手段・方法という認識を表わしてるものです。「これ」が「このタイミング」で、「このタイミング」自体は客体を表わす客体的表現である詞になります。
辞である助詞、助動詞、感動詞などは、こうした話者の客体である対象に対する主観を客体化することなく直接に概念化したもので、この点を明確に理解、認識しないと主客を混同した曖昧な解釈に陥ります。
カント哲学、新カント主義的な物自体の認識を不可とする不可知論に依拠する現在のソシュールパラダイム下の発想では、悟性という理性に対する不分明な認識しか展開できず、物自体の反映とそれに対する能動的な認識を正しく区分、理解することができません。
認知言語学の唱える認知もまたこのようなものでしかないというのがソシュールパラダイム下での現状です。これを超克するためにはヘーゲルによる弁証法の論理と唯物論に基づく反映、媒介の論理が不可欠です。■
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No.10
回答者: OKAT
回答日時:2019/12/08 10:24
アスナロウさんに一度お聞きしたかったので、この機会に質問します。
「で」が手段・方法の表現とおっしゃいますが、「公園で掃除する」は「公園」を使って(利用して)掃除するということになるのですか。「戦争で死んだ」「ニューギニアで戦死した」の「で」も「手段・方法」でしょうか。そう認識して使うのでしょうか。「戦争」が「原因・理由」にはなると思いますが、「手段・方法」とは考えにくいのですが。「ニューギニアで」も同じです。
話は変わりますが、「これで、失礼します」の「で」はどう説明出来るのですか。「これ」は「このタイミング」だろうとは考えます。
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この回答へのお礼
返信があったようですが、お礼も感想も反論も罵倒も苦笑もないのでしょうか。
あれで理解できるならOKATさんを尊敬します。
当方はとてもそのような解読力はありません。
「公園で掃除する」も「ニューギニアで戦死した」も「場所」だと思いますよ。
見たことのない不思議な文法をアレコレ垂れ流すかたですから、そのひとつなのでは。
ところで、本題の3つの質問に関してはどのようにお考えですか。
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お礼日時:2019/12/09 21:21
No.9
回答者: アスナロウ
回答日時:2019/12/07 23:02
NO.8 の補足。
>6)公園【で】掃除をする
の格助詞「で」は、
ナイフ【で】紙を切る。
バス【で】新宿に行く。
(小指を立て)「これ【で】、失敗しました。」
などの「で」と同じです。
助詞は主体的表現の語で、客体を表わす客体的表現の語ではないことを、これまで何度も回答していますが未だにご理解いただけてないようです。
この主体的表現の語という本質の理解なしに、あれこれ文での意味、機能をいじくりまわしても何の進展もありません。■
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No.8
回答者: アスナロウ
回答日時:2019/12/07 22:39
NO.2 のお礼に答えて
>6)公園で掃除(を)する
>の格助詞「で」は手段・方法を表わし、
ですか。当方は「場所」を表わすと思っていました。
イヤハヤ。
ここが大切な所ですが、場所自体を表わしているのは「公園」ですよね。
その「公園」を、掃除の手段・方法として認識しているということを格助詞「で」で表しています。
公園が場所であるのは言わずもがなのことです。
理解できますか。
イヤハヤ!
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No.7
回答者: アスナロウ
回答日時:2019/12/07 20:45
No.6 の補足
この程度の初歩的な文法理解もなく誤った回答は混乱を招くだけです。■
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No.6
回答者: アスナロウ
回答日時:2019/12/07 20:41
No.5 について。
>、「の」を準体詞ととらえると
文法的に正しいか、どうかはともかく理解は可能です。
文法的に誤りで、準体助詞ではないので理解は不可能です。■
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No.5
回答者: fxq11011
回答日時:2019/12/07 16:41
>「公園の掃除」の「の」は格助詞で、準体詞ではありません
文法の知識を披露するつもりはありません。
どのように理解するか?。
>、「の」を準体詞ととらえると
文法的に正しいか、どうかはともかく理理解は可能です。
>悪までも一つの考えか他です参考までに・・。
このように断っています、参考までに・・誰かさんみたいに押し付けてはいません。
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No.4
回答者: アスナロウ
回答日時:2019/12/07 12:18
No.3 の回答について。
「公園の掃除」の「の」は格助詞で、準体詞ではありません。
準体詞というのは正しくは抽象(形式)名詞で、リンゴの山を指し、
その赤い【の】を下さい。
や、
君の顔色が青い【の】が心配だ。
のような使いかたをします。■
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No.3
回答者: fxq11011
回答日時:2019/12/07 11:52
「の」格助詞、所有格、または直前の内容を名詞化する、準体詞の場合もあります。
悪までも一つの考えか他です参考までに・・。
公園の掃除、「の」を準体詞ととらえると、名詞+名詞となり、公園掃除という熟語にもなります、公園の掃除、この表現で一応自己完結?。
公園を掃除、これだけでは自己完結しませんね、即、するの?、しないの?。
①公園を散歩する、公園は「する」の目的語、散歩は「する」の具体的内容。
②公園で散歩する、散歩する場所を特定。
①の場合、個人的には「を」目的格でも拡散を感じます、公園内を動き回る、動きが想像されます、公園内でもどの部分まで言及は当然不要です。
②の場合、公園と特定しただけ、公園といっても広い公園だと、さらに限定する必要も・・・・・。
⑤掃除→動詞の動きの概念を名詞(熟語)で表現
⑥掃除→純然な名詞感覚なら、「を」が必要、⑤と同様感覚なら不要、ただこの表現では、掃除する対象がありません、例 公園で車の車内掃除をする。
「で」単に位置を表すだけと、助動詞、手段方法(位置、時刻)を表す、公園で・・・、現実にはさらに絞りこむことも可能だが・・・という表現になります。
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この回答へのお礼
コメントありがとうございます。
下記に書いた3つの疑問に関してはどうお考えですか。
【1】6)だけはなぜか「を」があってもなくてもいい気がします。理由は不明です。
【2】「散歩」だと「の」に異和感があるのに、「掃除」だと自然なのはわかりますが、なぜなのでしょうか。
【3】5)よ6)は相当違う気がします。どう考えればよいのでしょうか。
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お礼日時:2019/12/07 20:16
No.2
回答者: アスナロウ
回答日時:2019/12/07 11:32
言語は話者の認識の表現です。
単なる形式の並べ替えによるお遊びは言語ではなく、文字/語という形の遊びに過ぎません。
生成文法と同じアプリオリな文の実在という妄想です。
単なる語の機械的な並べ替えは文ではなく、本来意味がない形式に意味付けをしようとするために異和感が生まれるのは当然です。語の羅列は赤ん坊でも猫でもキーボードのキーを押せば可能ですが、そこに意味を見出そうとする発想が根本的に誤っています。
6)公園で掃除(を)する
の格助詞「で」は手段・方法を表わし、
7)公園の掃除をする
の格助詞「の」は所有・所属の関係を表わします。したがって、掃除は名詞で、「掃除する」と動詞にならないのは当然です。
言語とは何かの基本的な理解もなく、いつも「眺めているうちに妙なことを思いついて」、論理的な反省もなく屁理屈を並べても何の意義も、意味もありません。■
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この回答へのお礼
コメントありがとうございます。
>言語とは何かの基本的な理解もなく、いつも「眺めているうちに妙なことを思いついて」、論理的な反省もなく屁理屈を並べても何の意義も、意味もありません。■
ハイハイ、そうかもしれません。
で、
>6)公園で掃除(を)する
>の格助詞「で」は手段・方法を表わし、
ですか。当方は「場所」を表わすと思っていました。
イヤハヤ。
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お礼日時:2019/12/07 18:09
No.1
回答者: OKAT
回答日時:2019/12/06 22:56
「散歩する」は「歩く」と同様自動詞でしょう。
対して「掃除する」は他動詞で、当然目的語としての対格を伴うと思います。何を掃除するかと言うことです。
5)公園を掃除する の「を」対格、公園が対象になります。
6)公園で掃除(を)する←何の(どこの)掃除?
7)公園の掃除をする 上記の答を言っています。公園の掃除。したがって「公園の掃除する」にはなりません。
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この回答へのお礼
コメントありがとうございます。
未整理の書き方で申し訳ない。
おそらく当方の疑問は3つあります。
【1】6)だけはなぜか「を」があってもなくてもいい気がします。理由は不明です。
【2】「散歩」だと「の」に異和感があるのに、「掃除」だと自然なのはわかりますが、なぜなのでしょうか。
【3】5)よ6)は相当違う気がします。どう考えればよいのでしょうか。
>「散歩する」は「歩く」と同様自動詞でしょう。対して「掃除する」は他動詞で、当然目的語としての対格を伴うと思います。何を掃除するかと言うことです。
原則的にはそのとおりだと思います。
この「散歩する」の類いは自動詞の鬼っ子で、何かと悪さをするようです。
>6)公園で掃除(を)する←何の(どこの)掃除?
たしかに、公園で耳の掃除をする人もいるでしょう。
でも、フツーは「公園で掃除をする」といえば、「公園の掃除」でしょう。
>7)公園の掃除をする 上記の答を言っています。公園の掃除。したがって「公園の掃除する」にはなりません。
上記【1】の答えになっているのかもしれません。
そういうもの、と考えるしかないのでしょうか。
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お礼日時:2019/12/07 18:05
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日本語アレコレの索引(日々増殖中)【38】
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1991701622&owner_id=5019671
mixi日記2026年04月23日から。
例によって閉鎖空間の話。
当方のコメント====引用開始
熟語動詞(仮称)の中止形?で、「し」を省略する例ってけっこう見ませんか。
うまい例文が浮かばないのですが、たとえば……。
最後に○○氏が登壇、総括的な意見を述べた。
【登壇し】にするべきだと思いますが、なぜか「し」の1字を省略する。
新聞などでよく見る気がしますが、見当たらない。
現象名も不明、「、」がらみなのでネット検索うまくいきません。
2014年の朝日新聞からのメモを見てたら、1点だけ見つかった。もっとありそうなんだけど……。
【2014年06月の朝日新聞から】
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-3048.html
━━━━━━━━━━━引用開始
14-06-02
14日
NHKの朝ドラ「花子とアン」に帝大生で社会運動家の宮本龍一役で16日から登場、仲間扮する蓮子と恋に陥る。(朝刊26面)
平野和子記者。中島歩(ネクストブレイク候補?)のインタビュー。「登場、」ではなく「登場し、」だろう、というのはインネンになりそうだからパス。気になるのは「16日から登場」。やはり「16日(放映分)に登場」か「16日(放映分)から出演」だと思う。
━━━━━━━━━━━引用終了
===========引用終了
K氏のコメント====引用開始
これもよくいないということになりますか??
---
今年、友枝昭世=写真右=が「枕慈童(まくらじどう)」で10年ぶりに出演、「大原御幸(おはらごこう)」を演じる観世流の九世観世銕之丞=同左=とともに20回目の記念公演を彩る。
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO95750620Y6A410C2TCZ000/
===========引用終了
当方のコメント====引用開始
おお。このような用例をどうやって……すばらしい。
これだと異和感がぐっと弱くなるような。
でもやはり、
〈に出演し、「大原〜〉か
〈に出演。「大原〜〉にしたいような。
〈に出演する。「大原〜〉はなんかヘン。
===========引用終了
K氏のコメント====引用開始
日経新聞サイトを検索しただけです〜
ただいま有料会員。
本当は毎日新聞も登録したいところですが、ちと高い…
===========引用終了
当方のコメント====引用開始
どういうキーワードで検索したんですか? 想像がつかない……。
===========引用終了
K氏のコメント====引用開始
「に出演」のみですー
===========引用終了
当方のコメント====引用開始
うーん。
そうか。
「に出演」でいけますか。
「登壇」「登場」「出演」……だと「あらわれる」系って気がしました。
でも「に/で成功」「に/で起業」あたりもありそうだし……。
===========引用終了
このサ変動詞の中止形については昔から気になっていた。
たまたま下記の古い書籍で目にして、疑問が再燃した。
【引用部】
国労、勤労、その他敬老でも早漏でも何でも構わんが、鉄道関係労働者団体と本社側の給与引きあげに関する交渉が決裂、組合側は遂に無期限全面ストに突入、国電、地下鉄等首都圏の交通機関は一斉にまる一日麻痺し、東京と周辺を結ぶ血脈が絶たれる──という年中行事だから珍しいとも言えない設定で、男は東京を密室かするのだと言う。
『ある東京の扉』(連城三紀彦) 『密室殺人事件』所収(p339)
「決裂、」「突入、」「麻痺し、」……ですかい。
まぁ、こういう用例もあるってことだ。
別にこれでもおかしくないのだろうが、個人的には「〜し、」か「〜。」にしたい。上記の例だといろいろ制約がありそう。一文に3カ所もサ変動詞の中止形を使うとさぁ……。
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