胎蔵界曼陀羅・中大八葉院

たいぞうかいまんだら・ちゅうだいはちよういん

 

 

 

「萃点・すいてん」とは

 

  南方熊楠(みなかたくまぐす)が用いた言葉「萃点・すいてん」の「 萃」とは何か。

 草冠に「卒・そつ=「卒業・卒倒」は「終了・尽き果てる・終わる」意味で、漢音は「そつ」で呉音は「そち」と読む。つまり「草や木の先端部分の穂先の生命点」を意味する語で、そこの個所を切断すれば簡単に、植物の生命の成長が終わりを「とげてしまう=卒げる」という意味の語である。

  萃点は、生命の「芽生えるところ」を意味すると同時に、「言語」が芽生える状況を説明する絵図が「胎蔵界曼陀羅の中心に描かれている。

 「大日如来を中心に描かれた5個の如来と4個の菩薩で構成された八葉院(はちよういん)である。これこそが言語の基礎体である「5母音:アイウエオ」と「4合成母音の、ヤ行+ワ行+濁音(ガザダバ)+上代乙類(コソトノモヨロ:キヒミケヘメ)である。

 

 和語の表音記号の総体を表す絵図こそがこの「八葉院」なのである。空海がたてた「真言=日本語の成立原理=曼陀羅絵図」とは、この和語の表音システムの論理体系のことである。

 

 ◆大日如来は「あ」=「あ=吾・主体」であり、宇宙の全世界を認識する中心の「すいてん」が大日如来なのである。

 世界の中心にある我が身『ア』は、自称の人代名詞「吾・我」であるが原意は、この世の中心に存在する者・自我を表す。

 「ある・在る」の「ル」は、現在進行中の状態・存在する事象の形式的概念で、英語のingと同じである。

 「アル=有る・在る」はこの二個の「素語」の結合によって動詞の語幹の意味と動的な「テンスと局面」が「ル」によって構造化されている。

 

 胎蔵界曼荼羅図の中心に座す大日如来は様々な言葉で捉えられている。

 即ちインド哲学では【叡智・アートマン・ブラフマン・梵・唯一者】と言われ、仏教では、【涅槃・無我・如来像・法性・真如】と称されるが、本質的には皆同じで、南方熊楠はこれを脳が思考判断を実行する「主体認識の知覚集中作動基点」と観じ、これを「萃点・すいてん」と呼び、空海の「真言=如来」の語を、自分の科学思想の観点から「言い換え」をしてみせたものである。

 

真言密教は、救済の宗教ではない。あくまでも人間存在の哲学である。人間の存在を言語の存在と同一視する認識の哲理を「言語の誕生」という究極の側面から解明した「意義素」という「真言」で説明し、これを科学的(要素還元的)に理解せよと求めている。

南方熊楠は、真言密教の本質を見抜いている。彼の慧眼は、密教研究者らに欠落している科学の基本思考の元認識(要素還元主義)を会得しているところに、彼の卓越した頭脳を観ることができる。この「すいてん」なる語も彼が多用した言葉で、彼の卓越した科学思考に筆者は驚愕するばかりである。

 

 ◆今、言語学・国語学・論理学・ AI 技術を研究されている方々に、思想家としての南方熊楠の探求した世界に、新たな光を当てて頂けたらと念ずる次第です。

 

 ◆「見えないもの・はっきりしないもの」は「判らないもの」であるが、決して「棚上げしてはならないもの」である。

 探求の手を緩めると、たちまちマンネリの世界に飲み込まれ、思考が衰微し、重箱の隅をほじくりまわす事態となる。

 ◆「意味の世界」が見えないと、学問自体が衰退する。魅力を感じない世界には若者は寄り付かないから学問が進化しない。

 要素還元主義とは「意味の解を求める手段のこと」である。この理法を会得出来ないと、科学時代の進化はあり得ないのである。

 

 ◆日本が30年の怠惰に沈み、国力の凋落を招来した最大の理由は、「家族計画の理念」を国が国民に、問わなかったからである。国は国民とともに一体の「有機的な機能体」であり、家というミクロの単位が国の規模を決定づける。

 国家の力は「家」の規模の総体であるといえる。国力は人口や経済の規模の大小ではないとする意見もある。国家の置かれた自然環境や、国力の規模や適正範囲などの理想基準設定は難しいが、これに正面から取り組まないと、日本の行方は混沌となるばかりだ。

 

国力を左右する最大の要件は「人(文化・科学・技術)・モノ(国土・資源)・カネ(経済力)」で、これは常識となっているが、それだけでは勝てない。新しい国家の「イズム」という国民総力で立ち向かうはっきりした「国家の目標設定」が必要である。これは政治家に任せるのではなく、有能者の発掘が必要である。その方法を考えるのが「学術会議」という組織である。成果が出なければ絶えず人材を入れ替える必要がある。これを毎年国民総がかりで、審査機構を立ち上げ、官民一体で推進する。

成果に対する評価は厳しくして、成果の有った者には10億円単位の莫大な恩賞を与える。外国のノーベル賞ばかりが能ではない。国内で世界の頂点と位置づけされるような報奨制度を設けることが必要である。空海や南方熊楠クラスの人材を発掘できればその社会的効用は計り知れないものがあるだろう。学歴ばかりを重視しない、物まねや応用をしない斬新な思考のできる人物、基礎研究のできる人物、記憶力を武器にしない人物、新たな原理を発掘できる人物を探し求めることである。

 

近未来社会の予想図は決して夢物語ではない

1,原子エネルギー化された社会。放射能を除去・弱体化させる技術の獲得。

2,AI 搭載の人工筋肉で動く万能ロボット。制御され、規則を守り人間の理念逸脱しない構造を完備。

3,ロボットは人類の新時代の忠犬ハチ公であり有能な執事であり、無給不休の多務的労働者である。

4.人体の強化で若々しい体が得られ、寿命が長くなる。医学の進化は、AIと有機的メカトロの時代に突入。細胞の研究の進化で、薬の概念を超える薬が開発される。飲まない薬で、直接患部に注入する薬である。

5,人間は、労働から解放され、自由闊達に生活する方向へ進む。

 極楽浄土のような環境で人類は、どのような生き方を選択するのでしょうか。

 恐らくその時、人間の野性的本性が顔をのぞかせるでしょう。

 人間の性(さが)は、善ですかそれとも悪ですか。こはAIでもはっきりできない問題でしょう。人間の犯す悪事に対し、法律でがんじがらめにしても完全に取り締まることはできないのです。

スポーツなど争を好む人間は、戦いが好きで、この弱肉強食の本性は決して「おとなしく成らない」であろう。

 人種対立・宗教対立などでの、殺し合いに明け暮れる人間は、宗教の教えでも救われないという現実は大きな皮肉と言える。だから戦争をさせないように「平和・平和・戦争反対」と唱え続ける人も必要なのである。黙っていると「戦争是認」と錯覚するのが人間であり、人は常に危うい存在なのである!

 

 命名は、熟慮が必要です。易姓判断を頭から否定はできません。この世は不思議なことが起こるのですから。

 

 定義「あやか」=「あ=吾・主体」+「や=矢で射る形態」+「か=強固な形態」

 つまり、「わが身に矢を向けて脅す形態」が原義だから、「怪しい」「危うい」「あやまち」「殺める」という恐ろしい語彙があるのです。

 

「あや」という恐ろしい言葉を、人の名前に付ける理由は、秀吉が初めての我が子に「すて」とか「おひろい」と命名したのと同じ真逆の言葉をつけて、「魔性の悪魔」から身を守るために、言葉で「たぶらかし」を行ったのである。可愛い我が子に「恐ろしい名前を付ける」ことで魔性のモノに対峙したのである。

これは「魔物」から身を守るという素朴な古代の庶民の「呪い:まじなひ」であった。しかしながら、現代社會ではもう止めた方が良いのではないかと考えます。

 「名は体を表す」という言葉があります。これは真実です。だからもう「危険な言葉」を逆説的に使うというやり方は変更してもよいのではないかと考えますが如何。

 

            それではまた!