胎蔵界曼陀羅(たいぞうかいまんだら)の中心に座す、

       大日如来は「言語の誕生=爆発=発生(赤色・血の色)」

       を表している。

      「真なる言語=真言・しんごん」とは、生まれたばかりの

      「赤ちゃん」の言語の「形態を表徴」して描かれているのである。

 

 

       赤ちゃんは「あ あ」という言葉しか発しない。

       これは人類共通の母音であり、日本語固有ではない。

       世界中の言語の「音節構造」は、子音と母音で音節が複雑に

       そして個性的に構造化されている。

 

             日本語の「あ」とは何か。

 

      「あ」という「母音・ぼいん」は、母の胎内で伝授した秘密の言葉」

       である。だから真言密教の曼陀羅の絵図は、言語の誕生が「地下階

       層」という、目に見えないところで生成されていることを表して

       いる。

 

    **********************************

   

         ◆「素語理論・そごりろん」◆

                                野村玄良

 

 

 日本語の「あ」とは何か。その回答を、定義式で表せば、

 

 定義:「あ=吾・主体」 である。

 

 日本語の5母音を定義しよう。

1、「あ=吾・主体」

2、「い=尖りの形態」

3、「う=屈曲した形態」

4、「え=選ばれた形態」

5、「お=押す形態」

 

 日本語の子音は、/s/ /t/ /n/ /h/ /m/ /y/ /r/ /w/ の、8個の子音語で構造化され体系化されている。この1音節語の定義は次回に、詳しく説明。

 

本論

 

◆さて、私「あ=吾・主体」が、対象の存在認識を行うとき、その対象は、それを見る私と、つながりを持つ限りにおいてのみ「対象が存在」するのである。そしてこの「つながり」とは生きると言う生の必要性原理との繋がりのことである。死せる人にとっての世界は「無」でしかない。

 

 モノやモノゴトは、その「もの」が対象化される場合においてのみ「意味付け」されて「コトバ・名称」が与えられる。

 対象の存在する「形態」を「ものごと」として把捉する主体認識が即ち「観念」である。

 自我はモノの有様を、構造的あるいはさまざまに記述的に見て取るにせよ、自分の見る観方でしか「モノ・ゴト=形態」は見られないし、見えないものの存在を確定したり保証することなど出来ない。

 自分が見たものを他者に如何なる方法を用いてその「心象」を伝えるのか。「モノ」を「モノゴト」という「コト・事・言」に「ココロ」が思考して「言語の創生」を実施しない限り、相手に伝わる自己の観念は表出できない。ここで問題となるのは「モノゴト」に対する「観点」の特定化の問題である。この特定が「普遍的」に他者に、直ちに誤まりなく通じて「納得」されなければ「言語」は成立しない。

 

 本論の「ア」についての集中的な概念抽出の実証は、和語全般の語彙成立の原理と意味構造の成立原理を一つの側面から把捉したことになる。何故ならば「ア」と結合する他の音節の意味概念との相関において、単体の音節の意味概念が、他の語彙との関係において相同性の条件を満たして還元的に合致する事実を実証することとなるからだ。

 和語には多くの同音異義語が存在するのであるが、「aki・アキ・空き・開き・明き・飽き・秋」などの「ア」がどのような地位を和語の語彙体系の中で形成しているのか、閉ざされた意味体系を構成する有限個の動詞の中から、意味構造体系がどのような原理によって構築されているのかを明らかにしたい。

 日本語の語彙の意味構造成立がどのような原理によって支配されているのか、語の水準の捉えかたに対する新しい考え方を提示する。

 問題解決の方法として、「ア」を語頭に持つ語彙全てを分析の対象として、「ア」がどのような概念を持った形態素子であるのか。「ア」の語彙群が、意味概念の相同性と還元性の原理が働いていなければ、形態素子としての「ア」の概念は特定出来なくなる。これらの条件的課題に対し、解決の為の峻別技法が必要になる。和語の単音節には、知識形態として概念化された因果律構造のイベント・スキーマ(event schema・認知言語学の学術用語)が関わっていることを明らかにし、同音異義語「ア+キ=秋・開き・空き・飽き」の語彙構造の成立原理と仕組みを解明することによって意味の最小レベルを説明する。

 意味解析の必須条件となる奈良時代の古語十三音の意味の峻別の問題も合わせて検討を加えながら「ア」の意味概念の本質解明を進める中で、日本語の意味大系の基本構造にも言及したい。

 本論は、認知言語学が否定する「還元論」を中心に据えて、因果律を持つ「意味の弁別体」の分類とその意味構造を明らかにする。「語の構成要素」つまり「素語・そご」は「語の意味の基本構造を形成する言語素材」であることを明らかにする。

 これまで「アカ・赤」「アキ・秋」「アサ・朝」「アナ・穴」などの語彙は、これ以上意味的に分解できない最小の意味単位とされてきた。この定義は、日本語学の不変の「語認識」であり、語学上のテーゼとされており、これに対する批判はこれまで皆無であったが、もしこれ以上分解できないと言うのであれば、分解できない理由を論証しなければならない。

 

 意味に対する日本語学界のこれまでの考え方は.……(「意味場を形成する単語は、弁別的特徴により体系化がはかれる」)などとして例えば、(「親族名称といった意味場は、『父・母・兄・姉・弟・妹』などで形成され『父・母』は『両親』で『兄・姉・弟・妹』は『きょうだい』と弁別され構造化される」).……などと論じられているが、「意味場」などという造語を用いて説明してみても、一つの語彙自体が持つ意味弁別の本質は不明のままである。意味概念の弁別とは何かの「レベル認識」に重大な誤認が見られ、要素還元主義の「要素」とは何かが正しく理解されなければならない。

 意味「弁別」の課題は、例えば一つの単語「あね・姉」の構造体内に存在する意味の最小レベル単位の「あ」と「ね」の二つに分解して、意味構成要素の構成体を、還元的に実証し論証するすることによってその普遍的な弁別体を取り出すことではないのか。

 既に述べたことであるが、これまでの国語学界の語認識のテーゼは「一音節語」には弁別的な意味は存在しないと主張され、同時にまた、江戸期に流行した「音義説」も強く否定され続けてきた。音義説が還元性と統合性の欠如に依る論理矛盾によって否定されるのは、その説明に概念把捉の普遍的な基本原理が欠如しているからに他ならない。

 

  『ア』の系譜

 

 「ア・吾」は「自称・主体」の意。

 古い文献から「自称の代名詞」を探索すると、「ア」は万葉集では使用数、九十五例で「ワ」は百四十七例。源氏物語では「ワ」が五百例「ア」は五例と少なくなっている。

 ところが時代が下がった古今集では「ワ」のみで「ア」が全く使われていない。何故そのように変化したのか。辞書・辞典で調べてみると「単語の意味の定義」が全く記載されていない。この二つの代名詞の説明は「わたし・あたし・自分」と言替えしているだけで辞書・辞典の中で虚しく循環しているだけである。この現実から、どうしたら一歩前進できるのか、暗黒の地下室へ降りてゆくことにしよう。

 言語は明らかに時代の流れの中でその様相が変貌するけれども「ア」と言う自称を表わす代名詞が全く消失したのではない。

 今日では、「ワ」・「ア」は「アタクシ・アタシ・アタイ」「ワタシ・ワタクシ・ワイ」の二様の異音同義語が対置的に存在し使用されている。

 記号学の基本理念は「一対一記号」、つまり「一音一義」の基本原則が守られなければ記号体系は根底から崩壊してしまうという危うい「語」に対する認識がある。「赤は危険」「青は安全」という記号の基本原則が「赤は危険かつ安全」ということになってしまうと交差点から信号機を撤去しなければならなくなる。しかしながら、言語は明らかに数学的な記号学の形式主義的な範疇では処理しきれないほどの複雑性を持っている。

 この言語の曖昧性・複雑性・多様性・飛翔性・隠喩性・比喩性を「言語記号は恣意的」で掴みどころがないと投げやりに考えたのはソシュールであった。

 同音異義語の「ハナ=花・鼻・華・端・洟」の関係式から、「ハ」と「ナ」には意味の弁別機能は存在しないと考えることに批判が出来なくなる。「同音異義語」は全く説明の付かない言語現象であり、またこの逆の「異音同義語」もまた同じ様に不可解である。

 意味を探求すること自体が無意味であると言う言語学上の観点はソシュールの言語記号の「恣意性」説が最初ではない。

 然しながら、学問は、この古めかしい思考の限界を超えなければ言語学の究極の課題である「意味の定義」が頓挫する。

「ア」と「ワ」が同じ意味で用いられている原因と理由は一体何であろうか。

 古事記の歌謡126に「あれは苦しゑ」。万葉集3747にも「わが宿の、松の葉見つつ、あれ待たむ」がある。

「あ」「われ」「あれ」は何れも自称の「ア・吾・私」を意味する。では「ワ」とは一体何か、「れ」とは何か。この問題を解明しない限り意味論は前進しない。

 人間は世界を解釈する主体『ア・吾・私』として存在する。人間が他の動物と根本的に異なるところは、身体の周辺を認知し認識することから出発し、やがて周辺の事象から敷延して天空に至る世界像を形成する為に、その身体性と人間学的認識に基づく経験の集積を特定の意味概念として記号化する。

 意味は意味付け行為によって発生する。意味は静的な事象ばかりではなく「動詞」の世界もある。

 言語の使い方をどのように観察してみたところで、「語の成立」のメカニズムは把促できない。言語使用者の使う言語は「地平」の「述語」という目に見える世界に帰属している。言語の成立、意味の成立の原理大系は「地下階層」の目には見えない「深層部」に「秘蔵」されている。

 

 空海はこれを「真言」と呼称し、「蔵密」の語で「言語の成立原理は、秘密の場所に隠されているので、それを日常の言語で説明する事は難しいと。したがって「胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅の両界曼荼羅の二つを並べて「何が現されているのか」自分の頭を働かせて「悟るべし」と「三密の身口意.シンクイの理法」を説いて「言語の成立の根拠」を自分の力で「真なる言語」を理解せよと教えている。

 これは二つの曼荼羅を観て「変換認識=転識得智.テンジキトクチ」せよと弟子たちに指導しているのである。描かれた仏像は「変換記号」でアナロゴン・身体類同代理物である。

 真言とは、隠されたた秘密の言語機能体で「真相・真理・実相・字義」の「構造体」こそが胎蔵界曼荼羅で描き出された「身体アナロゴン・身体類同代理物=実存」にほかならない。言語で現れるコスモスこそが世界で、言語で語られない限り世界は現れないのである。その言語成立の根拠たる「実存」というアナロギアエンティスの世界とは、目の前には存在しない。

 この「不在の対象」をイマジネーションとして喚起するのは「意識の志向性」である。その前提となるものは、意識の対象に対する「類比=空無化=概念化・観念化・変換記号化」の能力が必要となる。これは普通の人では行うことができない。もちろん筆者もできない。極めて高い能力者でなければ実現できない。

 

 言語の「創造」の問題はこの「類比記号の構造化能力者」の登場が必要になる。筆者は、その能力者を、一人の「グレイトな狩人」であったと断言する。この困難な作業が如何に行われているのかを探求することが、より正しい「日本語の意味論」完成への実現の道であろう。

 地下に埋没され「秘蔵」されたアナロギアという「関係の構造の一致物」を抽出しなければならない。 

 

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        「あ」を使った単語の「意味構造」を解析する。

 

                < 要 素 結 合 分 析 >

 

 奈良時代の『あ』の真仮名は「吾:我:安」と「足」が使われている。「ア・足」の使用は【あがき:足掻】の文字使用から「アシ・足」の意と解釈されてきた。その根拠は【万葉集・ 3387】安能於登世受 由可牟古馬母我 による。

「足我枳・【万葉集・ 2510】赤駒が~速けば」このアガキは「足+かき」の「足の動き」の意ばかりではなく、馬全体の躍動を表している。「あがき」は「ア・吾」+「カ・堅固・強固」+「き・連用形」で「ガ」などの濁音は清音の意に対する「雑・不完全・乱れ」の形態を表す雑表現の語である。「あがき」は「もがき」などの身体の変動的動作を表現していて「あがき」は手や足や体全体で「あがき、もがき」苦しむ形態を表す語である。現代語で「あがく」は「局面を打開しようとして無駄な努力をすること」の意に使われ、撹乱した激しい身体の動きを抽象化し概念化させている。したがって「ア」は「吾・我・己・主体」であって「ア:足」の意は「ア・吾」の最も躍動する身体のスキーマの派生概念として表出したものと考えなければならない。

 

 

               意 味 の 要 素 と 結 合

 

「アカ」=「アカ・赤」=『ア・吾』+「カ・堅固・強固」。力むと顔が赤。赤子=力を入れて泣く皮膚の色。

「アカ・垢」=「ア・吾」+「カ・堅固・強固」。皮膚に付着した汚れの堅くなったモノ。

「アキ」③「アク」④「アケ」など動詞「ア」+「カ行」の考察

【ア・吾】の口や目の概念の言語化

ケ・カ:未然形

ケ・キ:連用形

ク:終止形

身体部位の形態

開け下二)

開け・明け

名詞化【朱】【秋】

開く⇒明く

目蓋を開ける⇒光を捉える

開け:(下二)

開け・空け(乙類)

開く⇒空く

口を開ける⇒空洞

飽か:(四段)

飽き(甲類)】

飽く

欠伸のスキーマ

 

動詞の活用語尾にも意味概念が存在し、連用形の名詞化の意味文法を体系的に構築している。

「ケ」は(乙類)目に見えない」:「キ」は(甲類)「目に見えない」

「欠伸・アクビ」=「空く+ビ・口内の喉の形態」。「ビ」は、自在に曲がり動かせる部位(ゆび:くび:くちびる)」

 

素語「か・き・く・け・こ」の意味概念の体系

「ア・吾」+「素語」=名詞

『カ・筋肉を堅くする形態・堅固・強固』

「あ+か」=「ア・吾」+「カ・堅固・強固」身体の力みによる形態:赤:赤子

『キ・気の形態・眼に見えない(甲類)』

(気:着る:切る:消え)

「あ+き」秋=「ア・吾」+「キ・眼に見えない」雲の無い空=空き

『キ・木・隠す(乙類)』

該当なし

『ク・口の形態』

「あ+く」灰汁=「ア・吾」+「ク・口の形態」口に残ったモノ

『ケ・異(甲類)』

該当なし

『ケ・目に見えない・消・毛(乙類)』

「あ+け」明け⇒朱:赤(アカの転)

『コ・子・児・小・粉(甲類)』

「あ+こ」吾子

『コ・腰の形態・コ形・込める(乙類)』

該当なし

 

カる=堅固・強固+る=刈る⇒涸る⇒枯る⇒堅る⇒軽る(草を刈ると派生する形態)

キる=切る:眼に見えない形態:切・着・気・聞・

キ・木・隠す(乙類) 

クる=刳る:口の刳る形態・繰り返す動き【くるくる:くるり】

ケ・異常 (甲類)

ケる=蹴る・消る形態:目に見えない・ケ・眼に見えない・消え・毛(乙類)

コ・子・児・小・粉(甲類)

コる=凝る:腰の形態:コ形・込める・不安定(乙類)

 

 「カ行四段・下二段」は身体の目蓋と口の身体認知による同音異義語「開く:空く:明く(下二段):飽く」の展開。人体「目」のイベントスキーマの展開は「目蓋の隙間が空く」⇒「目を開く」⇒「目に光りが明るい・明く」⇒「夜が開けて⇒曙(アケボノ)⇒で空が明け染める」⇒「アケ:朱」は「曙の色」。「アケボノ:曙」=「明け・朱+炎(ホノ)」。「ホノ」=「ホノリ=火+乗り=焚き木の燃え残りの上に乗った消えかかりの火」を「ホノ」。「ほんのり・ほのか・ほのぼの・ほのめかす・ほのめく」など、消えかかった火の形態。

「アクビ」=人体の「口」のイベントスキーマは「口を開く」⇒「口が空く」⇒口が時々開く状態は退屈で「飽く⇒アクビ(欠伸)が出る」。

「アク・開く:空く:明く:飽く」⇒連用形の名詞化「アキ・秋:空:明」

「アキ・秋」は身体部位の認知が主体者である自分の行為によって目蓋を開けることが「開き⇒空き⇒明き」と外界の光りを認識して雲のない日本晴れの明るい世界を「アキ・秋」と名詞化。ちなみに名詞化した「キ」はもはや動詞の語尾ではなく「キ・眼に見えない・気・聞・切(甲類)」の素語に変容を遂げている。

「アサ」=「アサ・浅・朝」=「ア・吾」+「サ・前方斜め下方向へ進む意」の構成である。

「浅」=「自分が立っている渚(ナギサ=ナギ+サ)は傾斜していて前方が斜め下に向かってだんだん深くなっていく形態。関連語として貝の「アサリ・浅蜊」は、人間が潮干狩りで貝を「漁る・アサル」の連用形「アサリ」が名詞化。

「アサル・漁る」=「ア・吾」+「サ・前方斜め下方向へ進む意」+「ル・四段」の構成で、手を前方やや下へ向かって砂の中に刺し込む姿勢である。

「アサ・朝」=「ア・吾」+「サ・前方斜め下方向へ進む意」の構成で「浅」と同じ。立っている自分から前方やや下方向に日がある「朝日」は日の出を自分の眼の位置から捕らえている。

「アシ:足」=他者を認識する「ア・吾」が、自分自身の肉体の部位を認識して「足:ア+シ」の概念を創造した。

 「シ」とは「下方向の概念」である。「下=シ+タ」の「タ」とは「手」である。直立した人間の手は自然に下方向に垂れ下がって、手が指し示す方向が「シ=下」であるという概念構造の構築に人体の手が関与している。

 「下」の認識は自分自身の「タ:手」の概念が先行して構造化されていなければ造語できない。したがって「手」が先に「足」が後から造語されたという経緯が示されているのだ。「シリ:尻」の「リ」は「張り出した形状・ふくらんだ塊」の概念を表し「シ・下」の概念成立経緯から「尻」と「足」そして「腰・コシ」も同時的に造語されたものと考えることができる。自分自身の身体部位を客観的に「ア」の身体部位との「概念と概念」の接合による「重畳思考過程」から意味概念が合成されて造語が成し遂げられていくのである。

 ⑦「アス」=「アス:明日」=「ア・吾」+「ス・抵抗なく水や空気が通過・巣・州・簾・素」の構成で、「主体+通過」で通過するのは夜。太陽は西(ニシ=ニ・泥+シ・下)に沈んで地底を通過。

「アセ」=「アセ:汗」=「ア・吾」+「セ・背・瀬・表面のスキーマ形態」の構成で「自分の体の表面にあるもの」と把捉。

「アソ」「アソコ」「アチラ」「アレ」「アヤツ⇒アイツ」

指示代名詞「コ・ソ・ア・ド」の「ア」の分析。

 指示代名詞に付いてはこれまで様々に論考されてきたが、主観的な思弁説明が多い。何故「コソアド」が使われており、又「これ:あれ:それ」の語には全て「れ」が使われているのか、その理由を考察した論考はこれまでになかった。

1.「コレ」=「コ・(乙類)・両手を前に差し出した範囲【 凵 】の内側の領域・込められた領域」+「レ」はエリアではなく、人差し指のやや曲がった形態で、指の指し示す概念」の構成である。人が両手を前に差し出した「コ形=凵」のエリアを「レ」で限定して示す形態。

 「レ=垂れ下がる形態」(用語例)「枯れ=固く、垂れ下がった形態」「はぎれ・布の端にハサミを入れると垂れる」「日暮れ=太陽の沈む形態」「垂れ=手が垂れる」「濡れ=雨に濡れると木の葉が垂れる」「ひれ=薄い布」「漏れ=水が漏れる形態」「よだれ」「流れ」「雨垂れ」

2.「ソレ」=「ソ・(乙類)・僅かに動く形態」+「レ・人差し指がやや曲がった」の構成である。

3.「アレ」=「ア・吾」+「レ」の構成。

 指で指し示した一方向に存在する一点を指示する語。「ア・自分」が凝視する、はっきりした対象を指で示す、主体の認知点。具体的な事象を指し示す。

4.「ドレ」=「ド・(乙類)・雑に留める」+「レ」の構成。濁音は清音の意味が雑でぶれた状態であることを表すので、「指差す動きが、ぶれた動きになってはっきり定まらない形態・確定する範囲が定まらない」指の動きが意味概念を表す。

5、「アソコ」=「ア・吾」+「ソ・僅かに動く形態(乙類)」+「コ・コ形・込める(乙類)」=「自分+僅かに動く+コ形状の範囲」=「自分の位置から少し動いたところに在る、コ形状の囲み(カコミ)の中の位置」と捉えたもの。

「アタ」=「ア・吾」+「タ・手」の関係認識から意味概念が人間学的に展開されている。人が自我「ア」を認識し、自分の手との関係によって発生する現象を次の様に概念化。

「アタ:尺」=「ア・吾」+「タ・手」の構造。上代の尺度の単位で親指と中指とを広げて、両先端をむすぶ長さ。「アタヒ:価」の語にも展開。

「アタカ・(副詞)あたかも」=「ア・吾」+「タ・手」+「カ・堅固・強固・確り」。対象物に手を確り当ててキチンと確認した結果を表徴する状況説明の語で「手を当て確認したモノのごとく」の意味で「まさしく・まるで・ちょうど」の意。

「アタタメル:温める」「アタタカ:温か」=「ア・吾」+「タ・手」+「タ・手」+「カ・堅固・強固」の構成で「ア・吾」+「タタ・両手を立てた形態・盾(タタ」+「カ・堅固・強固」=「自分の両手を前に立てて動かない様に確り構えた形態」。焚き木や炭火に両手をかざす人間の仕草を表す。

「アタフ:与ふ」=「ア・吾」+「タ・手」+「ふ」=「自分が手を差し出して何かをする行動」。

 「フ」は何かをする行動の事象説明で、現在進行中の状況を説明する語、持続する行動とテンスを表す(四段活用」。

「アタラシ:惜し・新し(形・シク」=「ア・吾」+「タ・手」+「ラ・同じものの集合体でまとまりのある形状を表す」=主体が手を幾度も集中的に繰り返し動かしいるが完成途上にある手の動きの形態」を表す語で「シク」は「まるで対象の状況が――の様だと」説明する形態。「人の手が一つの対象に向かって幾度も手ばかり動かす物作りの様相を表す。「ラ・未然形」は未だ完成には至らない中途の状況を示す語である。したがって「アタラ」は、未完成の状況を惜しむ気持ちを込めた語である。

「アタラ・新しい」は「手で盛んにモノを作る、作りたての様相」が「新しいものの出現」を表している。人が手を動かしてモノやコトに「アタル:当る」現象認識が意味化されている。用法的には古い語の「アラタシ:新た・し」の語の意味が混入して古い語の「アラタ・新た」に「アタラシ・惜し」が誤用された。

「アタリ:当り」の連用形が名詞化した語が「アタリ・辺り・当たり」=「ア・吾」+「タ・手」+「リ・張り出した形状・ふくらんだ塊」の構成で「自分の手でモノに触れて凸凹や形状が確認できる状況」を示し「辺り」の認識が手で触れて身近に確認ができる「身辺」であることを示している。

「アタリマヘ:当たり前」は「アタリ・身辺・当たり」+「前=目+辺」の構造で手で触れて確実に認知できる目の前の変化や、動いたりしない、眼前の手で確認できる事象。

「アタマ・頭」=「ア・吾+タマ・玉」即物的で粗野な印象を受ける語。

「タマ・玉」=「タ・手」+「マ・目=円形・球形・間・真」で「マ」は目の形態を表徴している。手で丸めたものが玉。

「アチ」=「アチ・アチラ」=「ア・吾」+「チ・微細・小さな形態」+「ラ・同じものの集合体でまとまりのある形状を表す」は自分から見て対称物が細かく見える位置にあるエリアを表している。

「アツ」=「アツ:熱い・暑い・厚い」=「ア・吾」+「ツ・液体の総称・水・体液・水域・潮(Ⅰ類のtsu)」=「吾の体液」で暑い時に汗が出る現象をスキーマ化した語。

「厚い=暑い」夏は分厚い着物を着ると暑い。

「アヅマ:東(ツ・マⅡ類・手先・指先・つまさき)」=「ア・吾」+「ツマ・爪=つま先:爪弾く」「ヅマ=動きのある・障りのある爪」=「主体が触りのある爪をしている=主体が爪を持つ攻撃的な人の居る恐ろしい国・地方」「イナヅマ・稲妻」の「イ」は、尖りの形状・射である。

「アテ:当て」=「ア・吾」+「テ:手」で、自分の手の機能動作を形態化。

「アト:後:跡:迹」の「ト」は甲乙の混同があるが、何れの用語も概念に妥当性が存在し意味的な矛盾はあまり感じられない。

 しかし乙類の「コソトノモヨロ」系は「ア」との接続は全て忌避されている。この理由は半母音の「kwo:swo」などの接続に「a」が反発する何らかの理由が存在したものと思われる。この傾向から「アト」の「ト」は甲類の「ト・線引き」が本来の姿であった可能性が高い。

 甲類=「アト・後・跡」=「ア・吾・我・己」+「ト・線引き」 

 乙類=「アト・後・跡」=「ア・吾・我・己」+「ト・留める・止める・留保」

「アナ:穴」=「ア・吾」+「ナ・軟弱」の構成で、人体語の「鼻:耳:尻」の穴。

 『ナ:na』

【万葉仮名】「那:奈:難:南:男:儺:乃:娜:」〔七:名:菜:魚:嘗〕

「ナ」= ①軟弱な物性を表わす。②なめらか・なよやか・なだらか等の語頭に立ち、角張ったところの無い形状を表す。

「アニ」=「アニ・兄」=「ア・吾」+「ニ・粘土・粘り気のある土・丹・煮・似る」=「自分と似ている人」。「ニ・粘土」のスキーマ形態から派生して「似る」は粘土に型を押し当てると同じ形が生まれる可塑性を把捉した語。

「アネ」=「アネ・姉」=「ア・吾」+「ネ・見えない所で働きをするもの・根・音・寝」=「自分と根が繋がっている人」

「アヒ・アフ・アヘ」(ハ行四段)「合ひ・会ひ・開き・明き・空き・在り・有り・編み」これらの語は、自分自身の回りに発生した事象や抽象概念。

「合フ・会フ・逢フ・遭フ」=「ア・吾」+「ハ行四段・同じ行為を連続的にする・継続的に動く」の構成で、人や物に出会う為には自分の方から行動をし続ける意を持った語。

 ⑲「アホ・阿呆」=「ア・吾」+「ホ・膨らんで大きくなるもので人体の頬・空洞(甲類)頬・穂・帆・掘・火」。主体の頭は空洞(からっぽ)の意。

 ⑳「アマ・天・海女」=「ア・吾」+「マ・目・円形・球形・半球体・間・真」=「自分がくるりと回って目で眺めた世界」つまり地平の上を覆うように存在する半球体の天空世界は自分の目でしか確認できない。太陽の軌跡を観察すると東の地平線から頭を出し正午には一番高く午後からは弧を描くように西に傾き地下に沈み込む。人の眼球も側面から観ると透明感を持った半球体であり世界像の認識を自分自身の目で表徴化した語。

「アマ・海女:海人」は生活する場所にある屋根が「天・アマ」の意。

21)「アム・編む」=「ア・吾」+「ム・四段」

 「アミ・網」=「ア・吾・我・己」+「ミ・四段連用形の名詞化」

22)「アメ・雨」=「ア・吾」+「メ・芽・眼・目(乙類)」はそれ自体が「芽」と水滴の形状を表現した語。

23)「アヤ:綾・文」=「ア・吾」+「ヤ・矢・∧形状」は「線状模様」で矢のような線がはっきり出た文様や形状。矢そのものの形態語。

 「アヤシ・怪し」=「ア・吾」+「ヤ・矢・∧形状・円錐形」+「シ・しく活用」で、自分自身に矢を向ける形態語。

24)「アユ:鮎」=「ア・吾」+「ユ・揺れの形態」。鮎の生態を把捉した語で鮎は岩に付いて場所をあまり移動させない生態から命名された語。つまり「それ自体が揺れているもの」の意である。「あゆ・ぐ=揺れる様に動く」「あゆ・がす=揺るがす」などの語のとおり、水の流れの中で、移動することなく同じ位置で身体を揺らす様に泳ぐ姿で自分の餌場を護る姿。

25)「青」の旧仮名は「アヲ」で「ヲ」は「雄・牡・男性自身・ちょっとした大きさ・小さい・尾」などの意味を持つ基底語である。「アヲ・青」=「ア・吾」+「ヲ・牡・雄」=「主体+雄の性」の構成で男の性そのもの、の色が「白っぽい青色」を表す。

26)「アラ・アリ・アル」

 ラ変=連用形の名詞化「アリ:蟻」=「ア・吾」+「張り出す」の構成で「主体の存在が張り出した形状」。 

「アラス:粗す・荒す」=「ア・吾」+「ラ・同じものの集合体でまとまりのある形状を表す」+「ス・四段」=「アラ・主体の集合体:人間集団の形態=荒々し」規制のない人々の集団行動は「荒れる」という認識を形態化。

「アラ:洗ひ・濯ひ」=「ア・吾」+「ラ・同じものの集合体でまとまりのある形状を表す」+「フ・四段」=「荒ら+ふ=洗ふ」は衣類などを「荒々しく」揉み濯う形態。

「アラタ:新た」=「ア・吾」+「ラ・同じものの集合体でまとまりのある形状を表す」+「タ・手」=「アラ:荒らい+タ・手」=「アラタ:アラテ・荒手=新手=荒々しい手=未だ戦わず、疲れていない軍勢」

「アラ:人間集団」⇒「荒々しい」⇒「荒らす⇒アラシ嵐(名詞化)」⇒「荒ら⇒洗ふ・濯ふ」⇒「あらた=荒手⇒洗手⇒新た」⇒「アラタマ:粗玉:荒玉:新玉:璞=掘り出したばかりの未だ磨かれていないごつごつした玉=出現したばかりの新しい玉」

「アラハレ・表れ・現れ・顕れ」=「アラ・荒ら」+「ハ・歯・端」+「レ・下二段・連用形の名詞化」=「アラ:荒ら=主体の顕在化・自分の存在が顕著になる動き」+「ハレ・晴れ・張れ・腫れ=端から端まで膨れ上がった形状」で「母体から子供が生まれ出る姿」或いは「殻を剥くと中から栗などの実が現れる姿」などのように、隠れていた存在が姿を顕在化して外に張り出す。

「ある・有る・在る」=「ア・吾」+「ル・ラ変・完了・存続の意」の構成で、「己+存続」。

 

 

                「 ア 」の 階 層 図

 

 

 〔ア〕との関係・ネットワーク

 結合に依って構築された概念「語」。

名詞は接続助詞「の」が省略されている

「ア:吾」+「素語」=「身体部位語」

「ア・自分」「の」「○○」

「吾の下」=「アシ・足」

「吾のタ+マ(玉)」=「アタマ・頭」

「吾の込(め)」=「アゴ・顎」

「吾のなよやか・軟弱」­=「アナ・穴」

「ア:吾」+「動詞活用語尾」

 

「吾+キ(連用)=「開き:空き:飽き:明き:秋(名詞化)」

「吾+ヒ(連用)」=「合ひ:会ひ」

「吾+ミ(連用)」=「編み:網(名詞化)

「吾+リ(連用)」+「在り:有り」

「ア:吾」+「指示代名詞となるもの」

「吾+レ」=「あれ」

「吾+ソ+コ」=「あそこ」

「吾+チ+ラ」=「あちら」

「ア:吾」+「対人関係」

「吾+ナ+タ」=「あなた」「あんた」

「ア:吾」+「四段・ラ行・未然形」

初動的な未達成・未完の形態を表す。

「吾+ラ」=「荒:新:非:粗:洗」

「ア:吾」+「素語」

家族関係

「吾+ニ」=「兄」

「吾+ネ」+「姉」

「ア:吾」+「手(タ)」火に両手をかざす形態。手を差し伸べる形態

「吾+タ・タ」=「暖か」「あたる」「与える」

「ア:吾」+「濁音」動作語

主体の行動が雑で荒々しい形態を表す。

濁音と清音との関連が観察できる。

「吾+濁音」=「あがく:あぐむ:あげる:あざる:あづむ:あばれる:あびる:あぶる」

「ア:吾」+「素語」

身体性色彩で、スペクトル認識は存在しない

「吾+カ・強固」=「赤」

「吾+ヲ・男性自身」=「青」

 

 

 「ア」は存在する自分自身の総体を「ア:a・吾」の母音音節で表徴したものである。そして二音節結合が基本形になっている和語独自の名詞と動詞構造は、音節結合によって、意味概念が生成されている。この意味構築の法則は、父と母の結びから子供が誕生するという、人の生命体増殖原理からの学習で、その成果として獲得された結合のシステムの認識であったと考える。

 まさしく「ア」の発明は、動物的な原始生活からの離脱を始めた初発の「モノゴコロ」によって生み出された「コト=言葉」の誕生で、認識の初発の「核」的な存在であった。人間そのものの存在を「アル:在る=吾+存在」と認識し表徴化したことによって、人間を取巻く宇宙世界を身体言語で理解してきたのである。

 

 

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 ◆ 次回は日本語の「ヤ行とワ行」と「古語13音の、甲乙2種類の謎」を取り上げます。なぜそのように定義ができるのかを、克明に説明をいたします。

 

 

◆◆単語の意味の定義ができない「チャットGPT」には、信頼性はありません! 

 

この、素語理論を人工知能が学習しない限り、我が国の現行の日本語主体の人工知能は、その曖昧性から永久に脱却することは困難と考えます!

 

◆「語彙の意味の定義の定義」ができなければ、言葉で問いかける、「チャットの完全性の向上」は保証困難と思いますが、如何。

 

◆述語での「言い換え説明」では「定義」にはなりえないのです。

 

 

 

                それではまた!