ベル

   強制的に、目出鯛にゃん! ご苦労様。

 

◆宇伎由比・うきゆひ(盃結)の古代歌謡


 歌謡であるが、「語り」で日常会話体であり、詩歌の調べはなく古代の男女間での日常会話が生々しく記録された貴重な古代日本の女性の妖艶な言葉の資料である。

 この古事記に登場する須勢理比売(すせり姫)は素戔嗚尊(すさのうのみこと)の娘であり夫は、八千矛神(=大国主)である。


妻が旅行中に、夫が高志国(コシの国・今の新潟県)の沼川姫のもとに妻問い(浮気をし)に行ったことに対し、須勢理毘売命は激しく嫉妬して詰め寄る。困り果てた大国主命は、出雲から倭(やまとのくに)へ逃げるようにして旅立つことにした。旅装束に着替えて大勢の部下を引き連れて馬に乗る準備をした夫が、妻に、あてつけに詠んだ歌。

 大国主の歌………前半省略………いとしい我が妻よ、群がり飛びたつ鳥のように、皆のものを引き連れて鳥のように私が飛んでいってしまったら、泣かないとお前は言っても、人気のない山のほとりで、ひと本のススキのように、首をうなだれて、お前はきっと泣くだろう。お前の嘆く息は、朝降る雨のようにじめじめと、それがささやかな霧となって、やがて立ち登るだろう。萌えいずる若草よりも、なよやかな我が妻よ。………

 これを聞いて慌てた妻の須勢理比売は、今旅立とうとする夫を引き止めようと、大御酒杯(おほみさかづき)を奉げつつ詠った宇伎由比(うきゆひ)の歌。この歌を神語・かむがたりと言う。(古事記歌謡5)

 八千矛.やちほこの 神の命や 我.あが大国主.おほくにぬし 汝.なこそは 男.をにいませば うちみる 島の崎々 かきみる 磯の崎落ちず 若草の 嬬.つま持たせらめ 我.あはもよ 女.めにしあれば 汝.なを除きて 男.をは無し 汝.なを除きて 夫.つまは無し 文垣.あやがきの 和.ふはやが下に 蒸被.むしぶすま 柔.にこやが下に 栲被.たくぶすま さやぐが下に 沫雪.あわゆきの 弱.わかやる胸を 栲綱.たくづのの 白き腕.ただむき 素手.そだ抱.たき 手抱.ただきまながり 真玉手.またまで 真玉手さし纏.まき 股長.ももながに 寝.いをしなせ 豊御酒.とよみき 献.たてまつらせ‥‥‥(注1、原文)
 筆者訳
『八千矛の神の尊よ 私の大国主よ あなたは男性でいらっしゃるので あなた様が船で行幸される津々浦々に(島々の岬ごとに 磯ごとに)あまねく 若ゝしい愛としの女性をお持ちになられる事でありましょう でもこの私も女でございます あなた以外に男はおりませぬ あなたの他に夫はおりませぬ 綾織(あやおり)の帷(とばり)の下で 柔らかな布団に包まれて さわさわと心地よいなか 私の淡雪のような白くて柔らかではちきれそうなこの胸を あなた様の真っ白な両腕でそっと抱きしめ 互いに激しく抱き合って そして玉のような綺麗な私の手を手枕にして 足をゆったりと伸ばして いつまでも添い寝をして抱いてください。永遠の誓いを込めたこの うきゆいの御酒(おみき)を召し上がってくださいませ』
 この歌を聞いて夫は旅をやめ、二人の絆は再び固く結びあうことが出来たという、お目出度い結末になっている。
「ウキユイ」は旧仮名は「うきゆひ」で、さかづきを取り交わして互いの誠意を結び固める誓約のことである。
「うきゆひ」=「浮き・水に漂う盃のような危うい関係」+「結ひ・ゆひ・ゆはひ。しっかり結ぶこと・縛り付けて固定すること」=脆弱な人と人との関係を、絆(きづな)でしっかりと結び合う古代の呪術的儀礼である。
「うき・浮き」=「う=∩形・屈曲した形状」+「き・浮くの連用形」。盃は水に浮くところから「うき」と呼称された。
 この時代の「うきゆひ」は、秘めた二人だけの大切な言葉で、夫婦の関係を「たまごめ(言霊の力で関係を固める」霊結ひ(たまゆひ)をする儀礼が「うきゆひ」であった。男と女の二人だけで取り交わす「ちぎり・契」=「約束の言葉」である。さかづきを取り交わして互いの誠意を「絆・きづな」と言う、消えていて目には見えない綱で結び固める力がお酒にあったのである。
 神前にお神酒(おみき)を捧げるのは、神に畏敬の念を示し、神に捧げた酒を神から賜って酌み交わして神を礼まう(ゐやまふ)誓約儀礼の酒である。今日でも行われる結婚式での、三三九度の儀礼と同じで、互いに絆で固く結び合い相手を裏切らないという神前でのウキユイの誓約である。結べない「絆・きずな」では困る。絆は「きずな」の仮名遣いは誤りで、「きづな」が正しい。「すな・砂」では結べないのだから。今の戦後改悪の現代仮名遣いは、でたらめで困ったものである。この世の中には実に様々な学問がある。そしてそれ等のいかなる学問も、最初に問われることは、その学問に値打ちがあるか否かである。 
 定義・「ねうち」=「ね=心根」+「うち・打ち」の意味構造で「心を打つこと」。すなわち「感動」のことである。人に感動を呼び起こす学問は、人々から大切にされ、社会も豊かになるであろう。学問の「必要条件」とは、そこに使われる学術用語が正しくきちんと定義されていて、混乱や矛盾が発生しないことである。特に「言語」に関わる学問は事のほか「語義に関わる問題」には厳格な定義が求められる。その言語の法則・規則の条理に対して、規範となる辞書・辞典の「単語の意味の定義」が「言い替え」ではなく、意味の成分である要素で定義が正しく行われているか否かが厳格に問われなければ、コトバの学問の成立など有り得ない。

 

◆ 世界の「言語学界」は、「語とは何か」・「意味とは何か」の定義が出来ないまま、平然として学問の最大の課題を、見て見ぬふりをしている。つまり学問の破綻で、死に体になっている。単語の意味を要素で科学的に解析し、定義出来ないので「言い換え」の言葉を捜して、辞書や辞典で大衆をはぐらかしている。

◆つまり「ハナ=花・鼻・洟・華・端」を何故「ハナ」と言うのか、という意味の成立の問題と、同音異義語存在理由の問題に、正面から向き合うことをしないのである。


 「コトバはいかにして創られたか」の成立プロセス解明の課題を解決しなければ「語とは何か」を定義することは絶対にできない。
 「語」には意味があり、「意味を構成する意義素」という普遍的で「公理を伴う根拠」の体系の抽出が絶対条件となる。つまり意義素の体系的な「後退や循環をしない」不動のミクロ的な原理基盤の「メタ記号の素語一覧表」が必要なのである。
 そして重要なことは「メタ記号である素語」はいかにして創造されているのかを、科学的に無矛盾に論理化して、「論理的に崩れのない絶対記号」でメタレベルの一音節語であることを証明できなければならないのだ。
 これまでの言語学・日本語学は「言葉の認識の核」の所在は解明出来ないと信じ込んできた。

 生命の遺伝子の実態を明らかにした「ヒトゲノム」の解読の進化は今日も耳に新しく・科学の進歩の目覚しい発展に驚愕するばかりである。今日の言語学は、前世紀のオーストリアの言語学者ソシュールが唱えた「言語記号の音と意味との関係は恣意的である」の学説に盲従し、これに疑義をもつて反論できないまま研究活動が停止している。
 今日様々な言語学はその意味論において、対立的立場を言葉で強調・表明するものの「思弁の形式化」を試みるだけの先の見えない展開になっていて、失望を禁じえない。
 いかなる分野の学問においても「実証と論証」という科学的な検証の試練を経て組み立てられた「定義で構成された理論」が必要である。従って最初に「意味とは何か」を定義する必要がある。つまり「定義の定義」=「義とは何ぞや」に答えを出すことである。


 幼児の「指差し」は言語の始まり={文化の遡源}を示唆している。


 あらゆる学問は全て、「人間とは何か」という哲学的課題に帰結しているかに見える。
 猿の指差し行動は全く見られないが、人間の幼児には、指差しを自然に開始する時期が必ずやってくる。これは人間固有の特徴である。原始日本語は狩人が「指差し」で対象を特定して名称を付与した。
 「これは何か」の「ナニ」とは「何」か。これは禅問答ではない。
 幼児は、世界認識の仕方を普遍的な共通認識の手段として母親の教育用の母語である「幼児コトバ」の「おめめ・おみみ・おてて・おちち」というリズミカルで具体的な「二個で対」に存在している身体部位語から習得をはじめる。
 母親は具体的に指をさして「これはおめめ」「これおみみ」と赤子と母親に共通に存在する「普遍的なもの=類同代理物(身体アナロゴン)」に触れさせる。自分にあるものは母親や周りの家族にも同じように(類同的に)、そしてまた、よその見知らぬ人にも同じモノが(類同的に)付いていることを発見して納得する。
 これこそが「類同代理物=身体アナロゴン」の「言葉の原質的な普遍的要素=人体部位」なのである。

 

◆お釈迦様の指差し
 人間の幼児は一才半頃になると「ユビサシ」を始める。お釈迦様もその年齢になった頃「天上天下に指をさして」唯我独尊と唱えたというではないか。

 唯我独尊は大人が後から権威付けの講釈を付けたもので、指差しの本質的な行為は「意味の所在」を「これは何か」と「意味の本質」を「突き止めようとする」行為で、つまりこれこそが「最も客観的で普遍的」な「定義」行為と見ることができるのだ。これこそが意味論の「意味の検証理論の基礎となるべきものである。
 注意すべきは「意味と実在は決して一体一の単純なラベルのような関係にあるものではない」ということだ。
 幼児は時間と手間をかけながら、この大切な意味の所在・意味の派生の規則を、自分を取り巻く家庭や社会から、戸惑いつつも順次、高度なレベルの言語を学んで、やがて大人へと成長してゆくのだ。

 

◆「素語・そご」概説

 四段活用の未然形の特徴とは、「ア段」の「か・が・さ・た・は・ば・ま・ら」が活用語尾になり「ず=否定形」が必ず膠着して、モノゴトを「否定的」に現わす。
例)「飽かず」「漕がず」「消さず」「立たず」「願はず」。
「る」は六十二個の素語のうち「リ・ロ」と下記の〔甲類〕を除く全ての一音節と結合して動詞を構成する。
 このことは言語創生における「言語の実践」という言語の普及・学習というパロールとラングとの伝承を「教育」によって行う必要があったからだ。
 動詞の終止形は「現在進行形であり、人間の動作が素語という「意義素」を「直示」によって他者に理解される必要がある。
 言語創生時には言語が存在しないのだから「直示」即ち「指でさし示して意義を納得してもらう」以外の方法は存在しないからである。
「在る」「射る」「売る」「得る」「織る・オル」「折る・ル」「駆る・刈る・狩る」「切る」「来る・繰る」「蹴る」「凝る」「去る」「知る」「する」「競る・せる」「反る」………これら全ては「人間の基本動作」であり「人間存在の意味の体系」に他ならない。

 ◆ラ行の「らりるれろ」は決して「和語=外来語の入らない伝統の大和言葉の言語」の語頭には立たない。その代わり動詞の語尾で活躍をするように設計されている。
「言葉の運用」における初発の意味説明を容易にする一つの叡智が動詞の終止形「ル」である。即ち、「人間の生活行動の基本概念を体系化する意義の体系化」の「アナロゴン・類同代理物」を明示し規定する役割を果たしているのである。

 

◆この「る」は50音のほとんどの語に取り付けると動詞が出来上がる。

 

『ある・いる・うる・える・おる・かる・きる・くる・ける・こる・さる・しる・する・せる・そる・たる・ちる・つる・てる・とる・なる・にる・ぬる・ねる・のる……」日本語の主要な動詞が並ぶではないか。日本語の教師は外国の学生に対して合理的な教え方をしなければならない。これらの動詞から日本語を理解させれば成果は驚くほど高まるはずだ。日本語は世界でも有数なロジカルな言語体であるからだ。
「この素語は一対一記号」ではなく「意義素という形態のイメージを鋳型化」したもので意義の展開は「重畳的・累乗的・派生的・隠喩的・類比的」な人間学的思考」という「イメージ」を呼び起こす「意義=形態」なのである。

◆派生展開し同音異義語を作るシステム

●「カル」のイベント(意義語へ因果的に展開する=意味が類推展開)

例:草を◆「かる・刈る」 →草は水分が抜けて◆「かれ・涸れ」◆全体が垂れ下がって「枯れる」*「れ=垂れ下がった形態」 →◆草の重さをハカリにかけて「測る・はかる」と草の重さは◆「かる・軽」「かるく」なり◆「かるがる」と、持ち上げることができる。

 

●「はな・花・鼻」

「ハナ・鼻・花(同音異義語)」=「ハ・歯・端・刃・葉・羽(歯の先端機能と形態の派生)」+「ナ・軟弱・なだらか・なよやか」=「ハナ・(顔面や小枝の茎の)端に存在する、軟弱なモノ」。


 この「アナロゴン・類同代理物」の説明形式は意義素の定義と言う説明式を必要とする。
「あ=吾・主体」「い=射る形態・尖りの形態」「う=屈曲した形態」「え=選ぶ形態」「お=押す形態・圧迫する形態」。
「か=硬くなる形態・堅固な形態」「き=消える形態・目に見えない形態〔甲類〕」「く=動作を実行する形態・口の形態が原義」「け=穢の形態・汚らわしい形態〔甲類〕」「こ=子の形態・小さなものの形態〔甲類〕」。
 但し「ル」と結合して動詞を作らない語がある、それは〔甲類〕の「オ段コソトノモヨ」である。
「こ=子の形態・小さなものの形態〔甲類〕」〔クスフ〕とは結合する。
「そ=空の形態・上限の形態〔甲類〕」   〔ナシ〕
「と=線引きの形態・研ぐ形態〔甲類〕」  〔グム〕とは結合する。
「の=野の形態・緩やかに下る形態〔甲類〕」〔ナシ〕
「も=根元の形態〔甲類〕」        〔ナシ〕
「よ=弱る形態・夜〔甲類〕」  
 注)「夜・よる」は「弱わる」の「わ」が脱落したもの。
「ツ=液体の形態・tsu・液体系〔Ⅱ類〕」(ツの二類は筆者の仮説である)。
 注)「つらつら・つるつる〔Ⅱ類〕」。

 ◆「あ」とは何か

 「私・自分自身」を古代は「あ・a=吾(主体)」と言った。

 私「あ=吾・主体」が、対象の存在認識を行うとき、その対象は、それを見る私と、つながりを持つ限りにおいてのみ「対象が存在」するのである。そしてこの「つながり」とは生きると言う生の必要性原理との繋がりのことである。死せる人にとっての世界は「無」でしかない。
 モノやモノゴトは、その「もの」が対象化される場合においてのみ「意味付け」されて「コトバ・名称」が与えられる。
 対象の存在する「形態」を「ものごと」として把捉する主体認識が即ち「観念」である。
 自我はモノの有様を、構造的あるいはさまざまに記述的に見て取るにせよ、自分の見る観方でしか「モノ・ゴト=形態」は見られないし、見えないものの存在を確定したり保証することなど出来ない。
 自分が見たものを他者に如何なる方法を用いてその「心象」を伝えるのか。「モノ」を「モノゴト」という「コト・事・言」に「ココロ」が思考して「言語の創生」を実施しない限り、相手に伝わる自己の観念は表出できない。ここで問題となるのは「モノゴト」に対する「観点」の特定化の問題である。この特定が「普遍的」に他者に、直ちに誤まりなく通じて「納得」されなければ「言語」は成立しない。

 意味の構造説明          
 身体部位語を形成した『吾』
 ①「アシ・足」=『ア・吾・自分自身・主体』+「シ・下・下方向」=「自分の下に位置するもの」。
 関連語
「シリ・尻」=「シ・下・下方向」+「リ・張り出した形状・ふくらんだ塊」。
「コシ・腰」=「コ・コ形・込める・不安定・コ形状(乙類)」+「シ・下・下方向」=「性的な形態や機能」を概念化し構造化したもの。
 注目に値する語は「足・アシ」である。人体部位の重要なものは一音節で「素語」として言語基盤を構築している。「足・アシ」は創世記においても結合語の二音節語であったと考えられる理由は「シタ・下」の語があるからだ。
「シタ」=「シ・下」+「タ・手」の構成で、人間が直立したときの両手の自然な形態は、下方向に垂れ下がっている。手が自然に指し示す方向が「シ・下方向」である。
「シ」が語尾になっている語は「石」=「イ・尖りの形状」+「シ・下」の構成で「尖っていて、下にあるもの」。
「カシ・牁(船を繋ぎとめる杭・もやい杭)」=「カ・堅固・強固」+「シ・下」の構成である。「岸」「串・櫛」「腰」「鹿・シシ」「年」「西」「主」「端・橋・箸」「星」「虫」。
 ②「アナ・穴」=『ア・吾・自分自身・主体』+「ナ・軟弱・なだらか・なよやか」=「人体の軟弱なな部位・鼻の穴・耳の穴・尻など」。「ナ」は物性を表わす形態素「穴」の初発の基底的な構成概念はあくまでも身体に関わっている事が判る。
 関連語 「ハナ・鼻・花(同音異義語)」=「ハ・歯・端・刃・葉・羽(歯の先端機能と形態の派生)」+「ナ・軟弱・なだらか・なよやか」=「ハナ・(顔面や小枝の茎の)端に存在する、軟弱なモノ」。
 ③「アタマ・頭」=『ア・吾・自分自身・主体』+「タ・手」+「マ・目・円形・球形・間・真」=「自分の玉」と粗野な把捉。「タマ・玉・球」=「手で丸くしたもの」。
関連語「メダマ・目玉」。
 ④「アゴ・顎」=『ア・吾・自分自身・主体』+「コ・コ形・込める・不安定(乙類)」。
 ⑤「アワ・泡」=『ア・吾・自分自身・主体』+「ワ・輪」=「唾液のアワ」。
 <身体周辺>
 ①「アセ・汗」=『ア・吾・自分自身・主体』+「セ・背・瀬・狭い場所」。
 ②「アカ・垢・赤」=『ア・吾・自分自身・主体』+「カ・堅固・強固」。
 ③「アクビ・欠伸」=『ア・吾・自分自身・主体』+「ク・口・穴の入り口・くわえる形態」+「ビ・自在に曲がり動かせる細長い形状」。
 <身体行動>
 ①「アセル・焦る」=『ア・吾・自分自身・主体』+「セ・背・瀬・狭い場所」+「る」。
 ②「アレル・荒れる」=『ア・吾・自分自身・主体』+「れる」。「レ」は活用語尾であるが連用形は名詞化するという特性から「レ」に意味概念が構造化されていると言う和語独自の特性の理解が必要である。辞には意味は存在しないとするこれまでの認識は変更しなければならないので在る。「垂れ(名詞)」で手が下方向へ垂れ下がっている形態を「レ」が表わしている。
 用例「こぬれ=このうれ=木のウレ」。「ウ・∩形・屈曲した形状」である。キレ・ヒレ・モレ」の「レ」は垂れ下がった形態を表示する。
 指示代名詞の「アレ・コレ・ソレ」の「レ」は、指で指し示す指の形態を表示している。
 ③「アキレル・呆れる」=『ア・吾・自分自身・主体』+「キ・眼に見えない・気・聞・切(甲類)+れ=切れ」+「る」で自分の緊張が切れた状態になることを示している。
 ④「アケル・開ける」=『ア・吾・自分自身・主体』+「ケ・目に見えない・消え(乙類)」+「る」。
 開けは自分の目蓋や口を開けた状態を示す。「ケル=蹴る」「ケ=消え(乙類)」。
 ⑤「アサル・漁る」=『ア・吾・自分自身・主体』+「サ・前方斜め下方向へ進む意・笹の葉形状」+「る」。
 自分手で前方斜め下へ「浅蜊」などを「漁る」形態を示す。
「朝」は自分の立っている目から見て太陽が斜め下方向に存在する情況を示す。
 ⑦「アタル・当たる」=『ア・吾・自分自身・主体』+「タ・手」+「る」。
 ⑧「アタタマル・温まる」=『ア・吾・自分自身・主体』+「タタ・二本の手」+「まる」。焚き火などに両手をかざす形態を示す。
 ⑨「アフ・会ふ」=『ア・吾・自分自身・主体』+「ふ」。自分が出歩かなければ「逢えない」のである。
 ⑩「アム・編む」=『ア・吾・自分自身・主体』+「む」。「ム」は活用語尾であるが「ム・躍動」の意味が存在する。
 用例「生む=∩形+躍動」「笑む」「噛む」「混む」「摘む・積む」「食む」「踏む」「揉む」。
 ⑪「アヤマル・誤る・謝る」=ア・吾・我・己+「ヤ・矢・∧形状・円錐形」+「まる」
 「誤る」=「自分で自分に矢を向ける形態」。「マル=丸くなる概念」。
 <家族>
 ①「アニ・兄」=『ア・吾・自分自身・主体』+「ニ・粘土・粘り気のある・可塑性から縄文の印象が〔似〕の概念をスキーマ化・丹・煮」=自分に似ている人。
 ②「アネ・姉」=『ア・吾・自分自身・主体』+「ネ・見えない所で働きをするもの・根・音」=自分と根で繋がりを持つ人。
 <感覚>
 ①「アツ・熱」=『ア・吾・自分自身・主体』+「ツ・液体の総称・水・体液・水域・潮」。
 ②「アヤシイ・怪しい」=『ア・吾・自分自身・主体』+「ヤ・矢・∧形状・円錐形」+「し」=自分で自分の方向に矢を向けるなどという、あり得ない事象や、自分の方へ他人が矢を向けた事象を、形容詞化した造語である。人間と矢との関わりが極めて古い時代から存在していたことを証明する語である。
 例「あやかし・あやかり・あやふし・あやぶみ・あやまち・あやまり・あやめる」。
 <抽象化(名前では無い)>
 ①「アシタ・アス・明日・朝」=『ア・吾・自分自身・主体』+「シ・下・棒状」+「タ・手」。
 ②「アマ・天・海人」=『ア・吾・自分自身・主体』+「マ・目・円形・球形・間・真」。
 ③「アメ・雨」=『ア・吾・自分自身・主体』+「メ・芽・眼・目」。
 ④「アヤ・綾」=『ア・吾・自分自身・主体』+「ヤ・矢・∧形状・円錐形」。
 ⑤「アユ・鮎」=『ア・吾・自分自身・主体』+「ユ・揺れの形態」。
 ⑥「アヲ・青」=『ア・吾・自分自身・主体』+「ヲ・男性自身の形態・ちょっとした大きさ・男」。

 ◆「行」の特性


「各行」にはそれぞれ取り決められた「一つの傾向」を体系化したイメージが下記のごとく構造化されている。


「カ行」強く手足を使う、強い動的な形態イメージ。

(刈る・切る・繰る・蹴る・凝る))


「サ行」の弓矢の飛ぶ形態・方向などの狩猟のイメージ。

(去る・知る・擦る・競る・反る)


「タ行」の手足に関わる形態イメージ。

(垂る・散る・釣る・てこずる・取る)


「ナ行」の身体・肉体から派生した柔軟・なよやかなソフトなイメージ。

(鳴る・煮る・塗る・練る・乗る)


「ハ行」人体の歯や口から派生する語彙の多様なイメージ。

(腫る・簸る・振る・減る・頬る)


「マ行」目に関わる形態イメージ。

(丸・見る・剥く・目・盛り)


「ヤ行」弓矢。母音調和された意味を構造化した一音節。

(矢・射・弓・枝・攀)


「ラ行」モノの存在形式・テンスと局面を表出する抽象的な認識。動詞活用語尾の中核的存在。機能的動的な意味構造化の中心素材。

「ら=同じものが集合した形態」「り=張り出した形態」「る=現在進行中の形態」

「れ=垂れ下がった形態」「ろ=取り囲まれた形態(甲類)」


「ワ行」ヤ行と同じく、母音調和した語彙群。語用は限定され数は極めて少ない。

(輪・居・頷・餌・雄)

 ●形態
「わ=ウ+ア=ua=wa・(母音調和)・屈曲した主体・人が両手を前で結んだ形態・我の存在を示す形態」。
「ゐ=ウ+イ=ui=wi(母音調和)・猪の形態・連続する形態」。
「ゑ=ウ+エ=ue=we(母音調和)・屈曲して突き出す形態・吐く形態・崩れた形態」。
「を=ウ+オ=uo=wo(母音調和)・雄・男の性的な形態・男根の形態」。
〔乙類〕の上代「を段・コソトノモヨロ」は男性の「性的な形態=男系」
「キヒミケヘメ」の〔乙類〕は個別説明を参照されたし。
 
 ◆言葉の意味の本源とは

 

 言葉のなかった原始の世界の「人間以前の思考」の基本原理について考えてみよう。
 日本列島では土器が出現する約1万2千年以前の時代を「旧石器時代」と呼んでいる。旧石器時代の日本列島は氷河期と言われるほど寒冷な気候であったため、現在より海水面が140mも低下していたと考えられている。旧石器時代の人々は、日本列島と大陸が陸地でつながっていたので、大陸からナウマン像やオオツノシカなどの獲物を追いかけて日本列島に渡ってきたと考えられており、新潟県内に残る旧石器時代人の足跡の化石は今のところ約3万年前にさかのぼると推定されている。
 考古学は土の中から発見した石のヤジリを手にした時から始まったといわれている。
「槍や矢」の存在は人類にとって非常に大きな問題で、この石器の研究が考古学の基礎研究として今も重要項目になっている。
 現在では日本列島に人類が生息していた時期は地質学的に見て、およそ4~5万年前の中期の旧石器文化に遡るとされている。こんな古い時代の人間のことや、言葉の実態について何一つ手掛かりとなる資料は存在しない。言葉がいつ何処で誰が作り上げたのかという問題は謎に包まれている。しかしながら、少なくとも縄文時代の遺跡や住居跡から想定される日本人の先祖達の生活ぶりから判断して、現代の和語とはそれほど大きな隔たりはないものと考える。何故ならば言語の変化の歴史を観察すると音韻の変化はかなりの速さで変化するものの、古相の単語の変化はそれほど変化していないからだ。
 例えば、人体部位の名称の「目:口:歯:頰::頭:鼻:耳:手:足:腰:腹」などの語は万葉集や古事記や、平安時代の源氏物語に現れる語と全く同じで、今日まで変化していないし、異相の方言も存在していない。
 狩猟生活をする一人の天才的男性の叡智によって発明されていったものと考えられる。その証拠は「や行」と「さ行」の観察で明瞭に前述のように判断できる。


 言語を生み出したものは、自己の総体である身体と精神(アニマ)を持つ「自分と言う主体」に対する、自我の覚醒であり、他者との人間関係の規範を認識可能とする卓越した智慧に他ならない。 


 言葉を使わなければ何もこの世には現れない。

 良い言葉を発すれば良いことが必ず起きると古代人は考えた。「寿ぎ・コトホギ」「寿詞・ヨゴト」は「清らなコトバ」を用いて「対象を褒め称える」ことである。「まがつことば」とは「曲がった言葉」でこれを発するとやがて、これが自分に跳ね返ってくる。因果応報という結果で、痛い目にあうのは自分である。この原始時代の考え方は、応報律と言う因果律の規範的な関係から生まれたものである。
 原始社会の規範的な原則は、危害を加えた者には復讐を、恩義があれば返礼を、功に対しては賞を、罪には罰を。この ”An ill life an ill end.” 悪い生き方をすれば悪い死に方をする」の因果応報は、未開人共通のアニマ(魂)で、西欧の神話のみならず、古事記や日本書紀にも克明に綴られている。その世界は、人間ばかりではなく、太陽・月・山・鳥・蛇・うさぎ・猿に至るまで人格を認め、この応報律に従って動かされている。
 古代は、津波・台風・洪水・地震・伝染病などは、罪に対する罰であると考えた。それ故に人間にとって贖罪(しょくざい)の儀式が必要となるのである。家を建築するときに地鎮祭を行うのは大地を支配する土地神の許可をもらうために、礼を尽くしてお神酒(おみき)や収穫物を捧げ、神の怒りが鎮まるようにと祈るのである。


 古代人の世界観であるこの応報律は、先天的な人間の「悟る能力」から出たものである。

 世界の物理現象の生起連鎖の原則と言う「因果律⇒応報律」の思考形式は、人間能力の必然として、先天的な分析力と判断力から生まれたものである。そしてこれに加わるものが後天的形式の「経験的知識」である。然し乍らこの知識は「蓋然」の域を超えることはないので信頼性が薄い。
 この応報律の思考形式は「認識論」の範疇に入る。認識の発生・成立には経験は不可欠であるが、知識の確実性と普遍性は主観の直観で構成されるものである。この直感は「悟ること」を意味し、指を指し示しただけで「判る」という反応を、当然であるかの如く相手に要求し、それが確実に結果をもたらすことを自信を持って知っているのである。


 この悟りの経験は日常茶飯事として当たり前のように行われていて、その判断の正確さと速さに、誰も不思議を感じることはないのである。そのひとつの証拠となるものは算数・数学で、出題を解く力は「悟り」であって、これ以外の方法と手段は存在しないのだ。言語は先天的能力によって生み出されていて、後天的な 経験的知識の寄せ集めで言語が成立しているのではない。

              それではまた!