テツガクの小部屋171~ヴィトゲンシュタイン④ | 破滅の美学〜絶望と希望の狭間で〜

破滅の美学〜絶望と希望の狭間で〜

過去に書いた詩や英語の詩やエッセイもどき、哲学のコト、X JAPANのコト、芸術のコト、などなど。時に過激で人畜有害かも?

・言語ゲーム(前半)

後期のヴィトゲンシュタインは、しかし、前期の自らの哲学を根本的に批判し、言語現象を理解するための全く新しい視点を導入した。前期ヴィトゲンシュタインに限らず、フレーゲもラッセルも、言語へのアプローチにおいては、命題(平叙文)を分析の中心に置き、それの有意味性の一般的条件を探るという仕方で探求が進められてきた。しかし、われわれの言語活動には平叙文以外にも疑問文や命令文などさまざまな表現があらわれるばかりでなく、同じ平叙文が用いられても異なった文脈では全く異なった意味が表されうるのである。したがって、言語現象を理解し、言語表現の意味とはなにかという問題を考えようとする際に、すべての言語表現に適用可能な一般的分析法などは存在しない。たとえば、命題の一般形式を求めるというような前期にとられたアプローチは根本的な誤りを含むのである。むしろ、言語表現の意味は、個々の文脈においてそれがいかに使用されているか、という点から探求されなければならない。「言語表現の意味とはその使用である」というこのテーゼが正しいとすれば、意味をある原則にしたがって体系的に説明していこうというフレーゲ以来の体系的意味論の企てに変わって、同一の、あるいは、類似した表現の意味の微妙な違いを、その使用の文脈を注意深く点検記述していくことによって明らかにする、という分析方法が取られなければならない。そうすることによってのみ、ある言語表現の表面上の類似性から生ずるさまざまの概念的混乱(言語のもつれ)をほどくことができるのである。

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有名な割に、よく勉強していないとあまり理解できない「言語ゲーム」の登場。

これはいわゆる「ゲーム」ではなく、あくまで哲学的な「方法論的な概念」である。

 

ところで、いま一つピンとこなくても、全く構わない(もしこのブログを何らかの目的のために用いているヒトがいて、ピンとこなくてはマズイ、というのであれば別であるが)。というのは、これまで色々な哲学者をみてきたが、相性の合う合わないがあるからである。相性が合わない哲学者を無理やり理解しようという努力は全く不要である(あくまでも黒田某の考え)。哲学を学ぶことと相性については、この「小部屋」シリーズが終わってからでもまた改めて、ということで。

 

引用文献『西洋哲学史―理性の運命と可能性―』