11月国立劇場は「一谷嫩軍記」の「御影浜浜辺」と「熊谷陣屋」のニ場を上演する。
国立劇場は通し上演を標榜しているが、長大な演目の全幕上演は不可能で、「一谷嫩軍記」はまさしくそれに当たる。僕は当劇場でこの芝居を過去3回見たが、1回は「熊谷陣屋」の単独上演、2回は「陣屋」と他の場面を併せた上演だった。後者のうち1回は「壇特山」と「陣屋」、もう1回は「堀川御所」「流しの枝」「熊谷陣屋」という場割で、通し上演とは言えないものの可能な限り物語の全貌を示し、現代人に理解できるドラマを提供したいという思いが込められていた。今回はコロナ禍の時間制限でそれより場数は減ったが、良き舞台を上演する理念は継承されている。
特に「熊谷陣屋」は通常、冒頭部をカットして上演される。僕はこれまでに「陣屋」を26回見たが、相模の二度目の出から始まる短縮版が22回で、相模の陣屋入りを見たのは4回、弥陀六詮議は1回だけである。これらの物語の冒頭部が文楽では当然上演されるのに歌舞伎でカットが常態化している理由は、歌舞伎が今日でも商業演劇であり、上演時間が制限されるためだが、だからといって不適切なカットがまかり通る理由にはならない。こんな上演方法では初心者に物語が理解出来ない事は明白で、こうした慣習が現代人から歌舞伎を敬遠させているのではないか。
今回の「陣屋」は相模の入りや弥陀六詮議を上演している。更に「御影浜浜辺」を付ける事で、藤の局と弥陀六が陣屋に登場する理由が明らかになる。つまり今回の出し方は「熊谷陣屋」が何を描こうとしているかを全て舞台上で示しているのだ。これに「壇特山」を加えれば熊谷に関するドラマはほぼ完結するので理想的な上演方法だが、昨今の状況では実現困難だろう。ならば今回のニ場は現時点で良心的な出し方だと言いたい。
今回の上演にはもう一つポイントがある。「陣屋」の熊谷が団十郎型でなく芝翫型で演じられる事である。芝翫型の熊谷は珍しい。今日の熊谷役者のほとんどは団十郎型で、芝翫型で演じるのは当代芝翫独りである。
団十郎型は七代目団十郎が発案し、明治の九代目団十郎が完成した型(演出)である。その後、初代吉右衛門が継承して内面性を深めた結果、戦後第一世代の熊谷役者は挙ってこの型で演じる様になった。更にその息子の世代ー当代白鸚や二代目吉右衛門、十二代目団十郎、当代仁左衛門、十代目三津五郎ーも団十郎型で演じている。
芝翫型は上方の三代目歌右衛門が発祥だ。上方は人形浄瑠璃の本場で、「一谷嫩軍記」も書き下ろしは人形浄瑠璃だから、三代目歌右衛門は人形浄瑠璃に忠実な演出を作り、四代目歌右衛門を通じて四代目の養子の四代目芝翫に伝わった。三代目歌右衛門は七代目団十郎より古い役者だから、それに基づいた芝翫型は団十郎型より古風と言える。
そういう事もあって明治中期には団十郎型が主流になっていった。四代目芝翫は九代目団十郎より少し年長で、当時は時代遅れの古い役者とみなされていたらしい。それでも大正時代は何人か芝翫型の熊谷役者がいたが、昭和初期には誰もいなくなった。
戦後は二代目松緑が型を憶えている老優から教わり、昭和30年代に二度演じたが、その後は団十郎型に変更した。僕が見た二代目松緑の最晩年の熊谷も団十郎型だった。
当代芝翫が芝翫型の熊谷を初演したのは平成15年、まだ橋之助時代である。二代目松緑が最後に芝翫型を演じてから46年振りに陽の目を見た事になる。
芝翫は、二代目松緑の実演を憶えている者が誰もいないので、松緑が残した資料を基にして新しく作ったという。松緑のノートには演技の手順や形、団十郎型との比較などが細かく記載されていたので、芝翫は吉右衛門に相談して具体的な演技を作り上げた。
団十郎型の熊谷は全般的に演技が内面的だ。義太夫に乗って派手に動く部分もあるが(例えば物語で平山に呼び止められる件)、総じて感情を発散させず、抑圧的な演技に終始する。これは熊谷が討ち取った敦盛は実は身替わりである事を隠しておかなければならないからである。九代目団十郎は近代的な感覚の持ち主だったので、どうしても演技が内攻的になったのだろう。
これに対して芝翫型の熊谷は演技は派手で様式性が強く、見た目本位と言われる。こうした評価は明治時代の劇評に記された四代目芝翫と九代目団十郎の熊谷の比較に基づく。
両型で演技の細部に違いがあるが、最大の違いは幕切れだろう。幕切れで熊谷は出家を決意して僧侶の姿になるが、芝翫型では舞台に残って閉幕するのに対し、団十郎型では一人で花道を引っ込むのだ。
芝翫型の熊谷が舞台に居残るのは、人形浄瑠璃の幕切れで登場人物が一同居並んで閉幕するからである。これに対して九代目団十郎は幕切れで舞台に居残ると熊谷の悲しみや無常感を十分に表現出来ないと考え、一人で花道を引っ込む様に変更した。つまり芝翫型は原典に基づいた古い演出であるのに対し、団十郎型は熊谷の心情を拡大して見せる新演出なのだ。
長々と講釈めいた事を書いた。今回の感想を述べる。
「御影浜浜辺」通称「宝引」。歌舞伎では明治中期以後廃絶していたが、昭和47年に国立劇場で復活された。今回はそれ以来49年振りの上演。もちろん初めて見た。
あらすじは以下の通り。
御影浜で平家の石塔が建立される。梶原景時は平家の残党の仕業と考え、施主の探索を番場忠太に命じる。建立したのは石屋の弥陀六で、施主は見知らぬ少年。弥陀六は夜の闇に紛れて少年を石塔に案内する。
鴈治郎の弥陀六が揚幕から提灯を下げて現れ、背後の施主(つまり本物の敦盛)に言葉をかけながら花道を歩むが、弥陀六の後ろには誰もいない。本舞台に来た弥陀六が居合わせた百姓たちに少年を紹介するが、当然百姓には姿が見えない。その事を百姓が弥陀六に訴えるが、弥陀六は取り合わない。そうこうしているうち少年がいつの間にか消えるので、百姓たちは幽霊だと話し合う。ミステリアスな展開である。
ここに平経盛の室藤の局(児太郎)が現れ、息子敦盛の安否を尋ねるので、百姓たちが敦盛は須磨ノ浦で源氏の熊谷直実に討ち取られたと答える。藤の局は弥陀六が施主から預かった笛を見て、敦盛が秘蔵していた青葉の笛だと言い、敦盛はこの世になく、幽霊になったと思い至る。
番場忠太(亀鶴)がやってくるので、弥陀六は藤の局を連れて身を隠す。忠太が百姓たちに藤の局の行方を尋ねても、いい加減な返事ばかりなので刀を抜き、百姓と喧嘩になるが、ふとしたはずみで頓死。犯人を決めるために庄屋が百姓たちと宝引(くじ引き)をするが、庄屋自身が当たりを引いてしまう。
そこに戻ってきた弥陀六は藤の局を逃がした後、自分が忠太頓死の責任を取って詮議を受けると言い、捕縛されて梶原の下へ赴く。
鴈治郎の弥陀六はこの場では特に見せ場はないが、飄々としながら思慮深い老人をうまく描いている。
児太郎の藤の局は平家の貴人らしさを備えていた。
亀鶴の番場忠太。「扇屋熊谷」の姉輪平次の様な三枚目敵で、そのニュアンスをよく出している。百姓に翻弄されて頓死するところは他の狂言で見られない展開だが、亀鶴は面白く見せた。しかし、あの重い衣装で舞台を駆け回った挙句に突然動かなくなるのは体力的にきついだろう。
宝引の場面は寿治郎の庄屋や吉三郎、新蔵の百姓など達者なワキ役が揃ったので、「陣屋」の重い悲劇の前の息抜きの役割を果たしていた。文楽では宝引の滑稽が聞かせ所と聞く。おそらく番場忠太の愚鈍さや庄屋と百姓衆の滑稽な掛け合いを太夫の語りで面白可笑し聞かせるのだろう。今回はサラッと終わったが、歌舞伎はこれで良いと思う。
この場は竹本が入らないが、それで舞台が重くならずに良かった。
「熊谷陣屋」。開幕すると、下手の桜と制札の前で村人が制札に書かれたお触れについて語り合う。ここはいつもと同じ。
村人が下手に引っ込んだ後、花道から相模が登場。陣屋に入り、堤軍次が出迎える。相模は軍次に国許から戦場までやって来た訳を説明する。
藤の局が追手を逃れて花道に現れ、陣屋の入口で匿ってくれと声を掛ける。相模が対応し、お互いに古い顔馴染みだと気づいて中に案内する。かつて藤の局が後白河院の愛妾だった頃、相模は藤の局に仕えていたが、北面武士の佐竹次郎と不義をしたため処刑となるところ、藤の局の取り無しで罪を免れた。相模は佐竹次郎と関東へ逃れ、次郎は熊谷直実と名を改めた後、源氏の武将として頭角を現したのだった。
藤の局は相模の身の上話から熊谷直実が夫と知り、敦盛の敵として直実を討ち取る様に相模に迫る。相模が困惑していると、梶原景時の来訪の知らせがあり、二人はひとまず奥へ入る。ここまでが「相模の陣屋入り」。
梶原景時が捕縛した弥陀六を連行して来ると、軍次に石塔の詮議をすると言って奥に入る。ここが「弥陀六詮議」。
既に述べたようにこのニ場面は普段カットされる。しかし「相模の入り」では相模と熊谷の過去や藤の局との関係、更に藤の局が後白河院の寵愛を受けていた事が明らかになり、観客は物語の複雑な背景を理解できる。
この場は時々上演されるが、頻度は低い。今回の舞台を見て、やはり普段から上演するべきだと感じた。
また「弥陀六詮議」は弥陀六の連行を見せるだけなので無くても良さそうなものだが、ここが無ければ弥陀六が後半でいきなり登場するや梶原を手裏剣で射止めるので、初心者にはこの老人が何者でどこから現れたのか困惑してしまう。前回この場を見たのは平成2年12月の当劇場で、やはり今回同様に「相模の入り」から見せたが、僕はこの舞台を見て初めて弥陀六が詮議のために梶原に連行された事を知り、目から鱗が落ちる思いがした。
今回はこの場に加えて「宝引」も上演したので、弥陀六が陣屋に連行された経緯と梶原との関係の理解がより深まった。
これ以後がいつも上演される場面だが、今回は熊谷が芝翫型なので、いつもの団十郎型とは異なる点が複数ある。僕は当代芝翫の芝翫型の熊谷を過去に2回見ているので、その時の記憶と比較しながら記したい。
( この稿続く 11月24日所見 )
国立劇場は通し上演を標榜しているが、長大な演目の全幕上演は不可能で、「一谷嫩軍記」はまさしくそれに当たる。僕は当劇場でこの芝居を過去3回見たが、1回は「熊谷陣屋」の単独上演、2回は「陣屋」と他の場面を併せた上演だった。後者のうち1回は「壇特山」と「陣屋」、もう1回は「堀川御所」「流しの枝」「熊谷陣屋」という場割で、通し上演とは言えないものの可能な限り物語の全貌を示し、現代人に理解できるドラマを提供したいという思いが込められていた。今回はコロナ禍の時間制限でそれより場数は減ったが、良き舞台を上演する理念は継承されている。
特に「熊谷陣屋」は通常、冒頭部をカットして上演される。僕はこれまでに「陣屋」を26回見たが、相模の二度目の出から始まる短縮版が22回で、相模の陣屋入りを見たのは4回、弥陀六詮議は1回だけである。これらの物語の冒頭部が文楽では当然上演されるのに歌舞伎でカットが常態化している理由は、歌舞伎が今日でも商業演劇であり、上演時間が制限されるためだが、だからといって不適切なカットがまかり通る理由にはならない。こんな上演方法では初心者に物語が理解出来ない事は明白で、こうした慣習が現代人から歌舞伎を敬遠させているのではないか。
今回の「陣屋」は相模の入りや弥陀六詮議を上演している。更に「御影浜浜辺」を付ける事で、藤の局と弥陀六が陣屋に登場する理由が明らかになる。つまり今回の出し方は「熊谷陣屋」が何を描こうとしているかを全て舞台上で示しているのだ。これに「壇特山」を加えれば熊谷に関するドラマはほぼ完結するので理想的な上演方法だが、昨今の状況では実現困難だろう。ならば今回のニ場は現時点で良心的な出し方だと言いたい。
今回の上演にはもう一つポイントがある。「陣屋」の熊谷が団十郎型でなく芝翫型で演じられる事である。芝翫型の熊谷は珍しい。今日の熊谷役者のほとんどは団十郎型で、芝翫型で演じるのは当代芝翫独りである。
団十郎型は七代目団十郎が発案し、明治の九代目団十郎が完成した型(演出)である。その後、初代吉右衛門が継承して内面性を深めた結果、戦後第一世代の熊谷役者は挙ってこの型で演じる様になった。更にその息子の世代ー当代白鸚や二代目吉右衛門、十二代目団十郎、当代仁左衛門、十代目三津五郎ーも団十郎型で演じている。
芝翫型は上方の三代目歌右衛門が発祥だ。上方は人形浄瑠璃の本場で、「一谷嫩軍記」も書き下ろしは人形浄瑠璃だから、三代目歌右衛門は人形浄瑠璃に忠実な演出を作り、四代目歌右衛門を通じて四代目の養子の四代目芝翫に伝わった。三代目歌右衛門は七代目団十郎より古い役者だから、それに基づいた芝翫型は団十郎型より古風と言える。
そういう事もあって明治中期には団十郎型が主流になっていった。四代目芝翫は九代目団十郎より少し年長で、当時は時代遅れの古い役者とみなされていたらしい。それでも大正時代は何人か芝翫型の熊谷役者がいたが、昭和初期には誰もいなくなった。
戦後は二代目松緑が型を憶えている老優から教わり、昭和30年代に二度演じたが、その後は団十郎型に変更した。僕が見た二代目松緑の最晩年の熊谷も団十郎型だった。
当代芝翫が芝翫型の熊谷を初演したのは平成15年、まだ橋之助時代である。二代目松緑が最後に芝翫型を演じてから46年振りに陽の目を見た事になる。
芝翫は、二代目松緑の実演を憶えている者が誰もいないので、松緑が残した資料を基にして新しく作ったという。松緑のノートには演技の手順や形、団十郎型との比較などが細かく記載されていたので、芝翫は吉右衛門に相談して具体的な演技を作り上げた。
団十郎型の熊谷は全般的に演技が内面的だ。義太夫に乗って派手に動く部分もあるが(例えば物語で平山に呼び止められる件)、総じて感情を発散させず、抑圧的な演技に終始する。これは熊谷が討ち取った敦盛は実は身替わりである事を隠しておかなければならないからである。九代目団十郎は近代的な感覚の持ち主だったので、どうしても演技が内攻的になったのだろう。
これに対して芝翫型の熊谷は演技は派手で様式性が強く、見た目本位と言われる。こうした評価は明治時代の劇評に記された四代目芝翫と九代目団十郎の熊谷の比較に基づく。
両型で演技の細部に違いがあるが、最大の違いは幕切れだろう。幕切れで熊谷は出家を決意して僧侶の姿になるが、芝翫型では舞台に残って閉幕するのに対し、団十郎型では一人で花道を引っ込むのだ。
芝翫型の熊谷が舞台に居残るのは、人形浄瑠璃の幕切れで登場人物が一同居並んで閉幕するからである。これに対して九代目団十郎は幕切れで舞台に居残ると熊谷の悲しみや無常感を十分に表現出来ないと考え、一人で花道を引っ込む様に変更した。つまり芝翫型は原典に基づいた古い演出であるのに対し、団十郎型は熊谷の心情を拡大して見せる新演出なのだ。
長々と講釈めいた事を書いた。今回の感想を述べる。
「御影浜浜辺」通称「宝引」。歌舞伎では明治中期以後廃絶していたが、昭和47年に国立劇場で復活された。今回はそれ以来49年振りの上演。もちろん初めて見た。
あらすじは以下の通り。
御影浜で平家の石塔が建立される。梶原景時は平家の残党の仕業と考え、施主の探索を番場忠太に命じる。建立したのは石屋の弥陀六で、施主は見知らぬ少年。弥陀六は夜の闇に紛れて少年を石塔に案内する。
鴈治郎の弥陀六が揚幕から提灯を下げて現れ、背後の施主(つまり本物の敦盛)に言葉をかけながら花道を歩むが、弥陀六の後ろには誰もいない。本舞台に来た弥陀六が居合わせた百姓たちに少年を紹介するが、当然百姓には姿が見えない。その事を百姓が弥陀六に訴えるが、弥陀六は取り合わない。そうこうしているうち少年がいつの間にか消えるので、百姓たちは幽霊だと話し合う。ミステリアスな展開である。
ここに平経盛の室藤の局(児太郎)が現れ、息子敦盛の安否を尋ねるので、百姓たちが敦盛は須磨ノ浦で源氏の熊谷直実に討ち取られたと答える。藤の局は弥陀六が施主から預かった笛を見て、敦盛が秘蔵していた青葉の笛だと言い、敦盛はこの世になく、幽霊になったと思い至る。
番場忠太(亀鶴)がやってくるので、弥陀六は藤の局を連れて身を隠す。忠太が百姓たちに藤の局の行方を尋ねても、いい加減な返事ばかりなので刀を抜き、百姓と喧嘩になるが、ふとしたはずみで頓死。犯人を決めるために庄屋が百姓たちと宝引(くじ引き)をするが、庄屋自身が当たりを引いてしまう。
そこに戻ってきた弥陀六は藤の局を逃がした後、自分が忠太頓死の責任を取って詮議を受けると言い、捕縛されて梶原の下へ赴く。
鴈治郎の弥陀六はこの場では特に見せ場はないが、飄々としながら思慮深い老人をうまく描いている。
児太郎の藤の局は平家の貴人らしさを備えていた。
亀鶴の番場忠太。「扇屋熊谷」の姉輪平次の様な三枚目敵で、そのニュアンスをよく出している。百姓に翻弄されて頓死するところは他の狂言で見られない展開だが、亀鶴は面白く見せた。しかし、あの重い衣装で舞台を駆け回った挙句に突然動かなくなるのは体力的にきついだろう。
宝引の場面は寿治郎の庄屋や吉三郎、新蔵の百姓など達者なワキ役が揃ったので、「陣屋」の重い悲劇の前の息抜きの役割を果たしていた。文楽では宝引の滑稽が聞かせ所と聞く。おそらく番場忠太の愚鈍さや庄屋と百姓衆の滑稽な掛け合いを太夫の語りで面白可笑し聞かせるのだろう。今回はサラッと終わったが、歌舞伎はこれで良いと思う。
この場は竹本が入らないが、それで舞台が重くならずに良かった。
「熊谷陣屋」。開幕すると、下手の桜と制札の前で村人が制札に書かれたお触れについて語り合う。ここはいつもと同じ。
村人が下手に引っ込んだ後、花道から相模が登場。陣屋に入り、堤軍次が出迎える。相模は軍次に国許から戦場までやって来た訳を説明する。
藤の局が追手を逃れて花道に現れ、陣屋の入口で匿ってくれと声を掛ける。相模が対応し、お互いに古い顔馴染みだと気づいて中に案内する。かつて藤の局が後白河院の愛妾だった頃、相模は藤の局に仕えていたが、北面武士の佐竹次郎と不義をしたため処刑となるところ、藤の局の取り無しで罪を免れた。相模は佐竹次郎と関東へ逃れ、次郎は熊谷直実と名を改めた後、源氏の武将として頭角を現したのだった。
藤の局は相模の身の上話から熊谷直実が夫と知り、敦盛の敵として直実を討ち取る様に相模に迫る。相模が困惑していると、梶原景時の来訪の知らせがあり、二人はひとまず奥へ入る。ここまでが「相模の陣屋入り」。
梶原景時が捕縛した弥陀六を連行して来ると、軍次に石塔の詮議をすると言って奥に入る。ここが「弥陀六詮議」。
既に述べたようにこのニ場面は普段カットされる。しかし「相模の入り」では相模と熊谷の過去や藤の局との関係、更に藤の局が後白河院の寵愛を受けていた事が明らかになり、観客は物語の複雑な背景を理解できる。
この場は時々上演されるが、頻度は低い。今回の舞台を見て、やはり普段から上演するべきだと感じた。
また「弥陀六詮議」は弥陀六の連行を見せるだけなので無くても良さそうなものだが、ここが無ければ弥陀六が後半でいきなり登場するや梶原を手裏剣で射止めるので、初心者にはこの老人が何者でどこから現れたのか困惑してしまう。前回この場を見たのは平成2年12月の当劇場で、やはり今回同様に「相模の入り」から見せたが、僕はこの舞台を見て初めて弥陀六が詮議のために梶原に連行された事を知り、目から鱗が落ちる思いがした。
今回はこの場に加えて「宝引」も上演したので、弥陀六が陣屋に連行された経緯と梶原との関係の理解がより深まった。
これ以後がいつも上演される場面だが、今回は熊谷が芝翫型なので、いつもの団十郎型とは異なる点が複数ある。僕は当代芝翫の芝翫型の熊谷を過去に2回見ているので、その時の記憶と比較しながら記したい。
( この稿続く 11月24日所見 )