第二部は「三人吉三巴白浪・大川端」と「身替座禅」。軽めの出し物が2本並ぶ。
 「三人吉三」は和尚吉三、お嬢吉三、お坊吉三という三人の盗賊の活躍と彼らを取り巻く人間の複雑な関係を描いた世話狂言。登場人物は三人吉三の他、和尚の父親で夜鷹宿の主人土左衛門伝吉、伝吉の娘で夜鷹のおとせ、おとせとは幼い頃に生き別れた双子の兄の道具屋手代十三郎など最下層の人間ばかりで、そんな彼らが百両の金と短刀「庚申丸」を巡って暗く救いの無い物語を展開する。初演は安政7年初春の江戸市村座。井伊大老の安政の大獄の真っ最中で、3月に桜田門外で井伊が水戸の攘夷派浪人に暗殺されるなど、殺伐とした時代だった。本作の暗さはそんな世情を反映しているのだろう。
 今回上演される「大川端」は三人吉三が出会って義兄弟の契りを結ぶ場面で、物語の発端に当たる。この場だけではドラマは完結しないが、お嬢吉三が謳い上げる七五調のセリフの美しさが人気を博し、戦後はこの場だけの独立上演が多い。
 これまで色々な組み合わせを見たが、今回は片岡孝太郎のお嬢吉三、中村隼人のお坊吉三、芝翫の和尚吉三。このコンビは初めて見た。
 孝太郎のお嬢吉三は、娘に化けている間が少し仰々しい。もともと「油地獄」のお吉や「引窓」のお早など世話女房が良い人だから、娘役の無心な華やぎは不足するのだ。
 お嬢吉三は女装の盗賊で本当の娘ではないが、もとは八百屋お七を得意にしていた女方役者で、娘の振りをしている間は八百屋お七のつもりと考えれば良い。
 孝太郎の娘役では「妹背山婦女庭訓」のお三輪や「神霊矢口渡」のお舟が良かったが、これらは義太夫狂言の娘役でスケールが大きく人間離れした所があって、お七の様に普通の娘とはニュアンスが違う。孝太郎は体の描線が骨太でナチュラルな女性らしさは乏しいが、そんな体だからこそお三輪やお舟の人間離れしたスケールが出たのだ。
 しかしお七は普通の町娘で、お三輪やお舟の様な人間離れした存在ではない。必要なのは自然な娘らしさである。そのお七に化けているお嬢吉三は世話物の住人であり、男なのに娘に化けて人を騙すくらいだから、お七以上にリアルでナチュラルな娘らしさが不可欠なのだ。孝太郎のお嬢が仰々しく感じたのはそれが欠けていて、お三輪やお舟では強味になった肉体の骨太さに違和感を覚えたからである。
 演技に遺漏はない。娘から男に戻っておとせから百両を奪う所は自然に切り替わり、わざとらしくないのが良い。盗賊の伝法さもセリフの言い回しで上手く表現している。眼目の名ゼリフはサラサラ言っていた。色々な考えはあるが、もう少しメリハリをつけても良かったと思う。お坊に呼び止められ、意地尽くで斬り合いになり、和尚に止められる件や、義兄弟の契りを結ぶ件は無事。
 中村隼人のお坊吉三。ニンは良い。二枚目のお坊ちゃんという設定にピッタリ。それでいて身を持ち崩した凄みも出している。
 見る前はセリフを心配したが、お嬢吉三を呼び止めて駕籠から出て、金をくれと言う件から斬り合いになるまでは、伝法さをちゃんと出していた。特に音の上げ下げが正確で、お嬢を舐めているのがよくわかる。こういう事が出来るのは若手では珍しいが、5月の団菊祭で一度演じた経験が物を言っているのだろう。
 課題は義兄弟の契りを結んだ後のセリフ廻し。普通に喋っているので単に人の良い若者になった。おそらく気を許した仲だから話し方を普通にしたのだろうが、警戒は解いても体に染み着いた悪の匂いは抜けない筈だ。長老のお坊ー例えば仁左衛門や吉右衛門や梅玉ならそこらの遺漏はないのだが、隼人にはまだ荷が重かったのか。
 しかし先輩である芝翫、孝太郎と一応対等に渡り合った点は評価したい。
 芝翫の和尚吉三はまず登場した時に恰幅が良く押し出しが立派な所が目に付く。本舞台に来て二人の喧嘩を止める件でいかにも兄貴分に見えるのも良い。
 この人はセリフで長くのばす音にウネウネと抑揚をつける癖がある。時代物では気にならないが、世話物では気になる時がある。今回はあまり気にならなかった。
 良かったのは、花道七三でお嬢とお坊の喧嘩に気付いて、両手を後ろに回して決まる所。錦絵に描かれた四世小団次の形と一緒である。誰の和尚も同じ形をするが、イキが抜けていたりサラッと流れたりする事が多いなか、芝翫は形をきちっと決めていて気持ち良かった。
 冒頭、庚申堂の前で研師与九兵衛と金貸太郎右衛門がすれ違い、与九兵衛が持っている刀に関する話をする。一見世間話だが、その中にはこの物語の複雑な人間関係と庚申丸と代金の百両を巡る経緯が織り込まれている。
 通しで見ると、複雑に絡んだ因果の糸が物語の進行につれて解けてゆく様を目の当たりにする事になるが、その巧妙さに唖然とする人も少なくないと思う。一度関西で通し上演を見たいものだ。

 第二「身替座禅」。狂言の「花子」を題材にして明治末期に初演された松羽目舞踊で音羽屋の家の芸。今回は仁左衛門が主役の山蔭右京を演じる。
 洛北に住まう大名山蔭右京は、東国に下った際に美濃国・野上の宿で花子という遊女の馴染みとなった。上京してきた花子から会いたいという手紙を受け取った右京は花子の許に行きたいが、奥方玉の井の嫉妬が怖い。そこで一計を案じ、座禅と称して屋敷の一室に閉じこもり、家来の太郎冠者に衾を被せて身替りにすると、花子の宿へ出かける。奥方は夫の様子を見に来て、あまりに窮屈そうなので茶や酒を用意するが飲もうとしない。せめて顔を見たいと衾を剥ぎ取ると、夫ではなく太郎冠者。彼から事情を聞いた玉の井は激怒して、太郎冠者の代りに衾をかぶって夫の帰りを待つ。右京はほろ酔い機嫌で帰り、衾を被ったままの奥方を太郎冠者と思い込んで花子ののろけ話をするが、衾を取ったら奥方なのでビックリ。散々に打ち据えられながら逃げまとうという話。
 男の浮気心と奥方の嫉妬を描いた喜劇で、大変分かりやすく普遍性のあるストーリーなので初心者や外国人にも人気のある演目である。
 僕はこれまで右京を仁左衛門を含めて6人の役者で見ているが、同じ内容、同じ振付でも、それぞれで印象が異なるのは演者の人間性が出るからだろう。特に初めて見た十七代目勘三郎の右京が強烈に印象に残っている。
 十七代目の右京を見たのは昭和61年。当時十七代目は最晩年で体調が良くない事もあって照り曇りが激しく、気分の赴くままに自由気儘に演じて、ある意味で放縦とも言える舞台だったが、ある瞬間ピタリと役に嵌まると得も言われぬ妙味を発揮した。特に客席に向かってニタァと笑いかけて愛嬌をふりまいたり、花子ののろけ話をする際に照れて衾を被った奥方の頭を扇で叩いたりするなどコメディの味付けが濃厚で、そこがこの人ならではの味であったが、松羽目物のあり方からはいささか逸脱気味で、品に欠ける所があった。しかし昭和40年代以後、十七代目の右京は時代を代表する名物芸となり、後輩にとってお手本となった。だから後の世代の右京はほとんどが十七代目流のコメディ路線を継承している。もっともそれぞれが松羽目物の品を回復しようと軌道修正を試みていたが、結局十七代目のエピゴーネンになっているのがほとんどだった。それだけ十七代目の個性が強烈で、下手に真似をすると呪縛から逃れられなくなるのだろう。
 そんな中で仁左衛門の右京は一線を画してい太郎。まず十七代目流の味付けを極力排している。と言って十七代目を尊敬していないのではなく、十七代目の解釈には全面的に賛同している。浮気男を魅力的に見せるには愛嬌が不可欠という解釈。だからと言って十七代目の演技をそのまま踏襲しない。自分の体や個性に合った愛嬌の表現を模索している。その結果、十七代目流の濃厚なコメディ色を排し、原典(狂言)の品のある可笑しみを目指した。
 仁左衛門の右京を見るのは二度目か三度目で、初めて見たのは10年くらい前だったが、その頃は薄味で物足りなく感じた。それは当時の僕に十七代目流のコメディ色濃厚な右京が最上という思い込みがあったからだが、仁左衛門の右京自体もまだ芸が完全に熟しておらず、淡白でサラサラしてい太郎。
 ところが今回は違う。昔と演じ方は変わっていないのに印象が全く違うのだ。まず登場した時から味が濃い。仁左衛門の持ち味、仁左衛門の個性が体から漂って、それが右京という役と重なり、輪郭が非常にハッキリしたものになっている。まさしく仁左衛門の右京である。
 この右京は調子に乗って羽目を外さない。もちろん奥方に隠れて浮気をするのだから羽目は外しているのだが、悪乗りせず自ずと節度を保っている。だから浮気に行くのに品がある。これは全く矛盾した表現だが、そうとしか言い様が無い。それが仁左衛門の愛嬌の特徴である。全く不思議な人だと思う。
 特に品が感じられたのは、前半の「のぅのぅ嬉しや、花子の許へ参ろう」と言って花道を駆け入る所。他の人なら浮かれてニタニタ笑いながら引っ込んだりするので品が崩れるが、仁左衛門は笑みを含みながら全く崩れない。帰ってきた時の夢見心地でフラフラと歩む所も同様。これらを見ていて、何かとてつもなく美しい骨董品を見ている様な気がした。それそのものに品が備わっていれば、どんな状況になっても失われないのだ。
 花子との楽しかった一時を仕方噺で衾を被った太郎冠者(実は奥方)に語り聞かせる所も、品を保ちなから面白く立体的に見せているが、それも美しい恋愛映画を見ている様に瀟酒で、生々しさが皆無。奥方をコケ下ろす件も過度にならず、微笑ましく感じる程度にとどめている。
 衾を取って仁王立ちになった奥方と顔を合わせて恐れる件が何とも可笑しく愛らしい。逃げまとう箇所も同様。
 ここでは花子に貰った小袖の片袖に左腕を通していて、奥方を恐れて這って逃げる。そして奥方が上からのしかかる様に睨むのを、右京が四つ這いのまま裏向きで(背中を客席にむけて)左腕を出して奥方を制止する
のだが、その形が実に美しい。
 美しいのは、身替わりを拒否した太郎冠者に刀を抜こうと身構えた姿の美しい事!こういう芝居のこうい役では不必要だが、そんな理屈はどうでも良くなる美しさで、ただただ酔わされた。
 芝翫の奥方玉ノ井は6月に続いて二度目。あまりコミカルさを強調していないのは仁左衛門に合わせているからだろう。それでも立役が扮する女方の厳つさが自然な可笑しさを醸し出していたし、夫が花子の許へ行ったと知った時の怒りで線の太い猛々しさを出しながら振り切らずに程良い程度に止めていたのも良かった。
 太郎冠者は隼人。この所、仁左衛門に可愛がられていて、よく共演しているが、太郎冠者は大抜擢。期待に応えてよく演じている。右京の良き片腕らしい雰囲気を出していたのはお手柄。奥方を怖がる件では1mくらい跳び上がって後退するなど、若さが出て良い。松羽目物は捻った所が無いので若手でも演じやすいのだろう。
 千枝は千之助、左枝は莟玉。綺麗で初々しいのが良い。
 長唄。常磐津は。
 14時30分開演、16時20分終演。2本で1時間50分とは少々短いが、上質の和三盆の干菓子をいただいた様な至福の一時を堪能した。
( 12月19日 所見 )