熊谷が敦盛の首桶を抱えて現れる。ここで熊谷は衣装を変えているが、それも団十郎型と芝翫型で異なる。団十郎型では松葉色無地の長裃に同色の着付で、向かい鳩の家紋以外に柄はない。一方、今回の芝翫は茶色地織物の長裃に薄いクリーム地の織物の着付。団十郎型がシックでシンプルなのに対し、今回の芝翫の衣装は時代物らしいデコラティブな印象だ。ただし、橋之助時代に演じた時は首実検でも前半と同じ黒天鵞絨の着付に赤地錦の裃姿で、長袴だった。昭和30年代の二代目松緑の写真を見ると首実検の衣装は今回と似ている。当代芝翫は二代目松緑の演出を基礎に置いているのだろう。現行の芝翫型は当代芝翫が復活して17年しか経っていないから、細部は未完成で色々と試行錯誤しているのだろう。
 熊谷は義経の許に赴こうとするが、義経が陣屋を訪れ、首実検になる。熊谷が首桶を開けると、そこには敦盛ならぬ小次郎(熊谷と相模の間の子)の首が入っている。熊谷は驚き騒ぐ相模と藤の局を階下に下ろし、静かにする様に叱りつける。ここで熊谷は制札を持って見得をするのだが、その前に制札について述べなければならない。
 制札は陣屋の傍の桜の樹に添えて立てられ「この花 江南の所無なり 一枝折盗(いっしせっとう)の輩においては 天永紅葉(てんえいこうよう)の例にならい 一枝を伐らば 一指を切るべし」と記されている。昔、中国の江南(揚子江の南 )では梅が滅多に咲かず、稀に咲くと時の皇帝が「一枝を折った者は指一本折る」とのお触れを出したという。また、我が国では天永年間に紅葉の枝を折ると同様の罰を受けたという。これらの故事に倣い、桜を愛でる義経が弁慶にこの制札を書かせた。しかも義経は須磨ノ浦の合戦の前に熊谷を呼び出してこの制札を与え、「桜を守れ」と命じていた。
 熊谷は、義経が制札に込めた謎を以下の様に読み解く。江南の花とは南面の桜、すなわち皇統を意味する。敦盛は平経盛と藤の局の間に生まれた子という事になっているが、実は藤の局は経盛に嫁ぐ以前は後白川院の愛妾で、お腹に院の胤を宿して経盛に嫁いだ。つまり敦盛は後白川院の落胤であった。義経は皇統である敦盛を桜に喩え、戦場で命を落とさないように守れと熊谷に謎を掛けたのだ。
 しかし現在、敦盛が後白川院の落胤である事はごく一部の者しか知らず、ほとんどは平家の公達だと思っている。戦場で敦盛と遭遇した源氏の侍はためらわず殺すだろう。それが功績であり身分の昇進と収入の増加につながるからだ。そんな者どもに敦盛が皇統と教えても混乱を生み、士気を下げるだけだ。
 だから義経は敦盛の身柄確保を熊谷に託した。それは熊谷夫婦が藤の局と顔馴染みであり、敦盛の出生の秘密を知っているからである。一方で義経が熊谷を信頼している事もあっただろう。当時の武士が自己保身のために現在の主人を裏切る事は当たり前だったが、熊谷は誠実な人柄で義経を裏切る気配が微塵も無かったのだろう。
 熊谷は考える。敦盛の命を救う事は源氏への裏切りを意味するから仲間にも絶対知られてはならない。だから敦盛は戦場の衆人環視の下で死ななければならないが、それには身替わりが必要だ。義経のミッションにはそれも含まれている。そしてその身替わりには熊谷の息子小次郎を立てよと謎を掛けた。それが制札の「一枝を伐らば一指を切るべし」という件なのだ。
 熊谷は制札の謎を読み解き、出陣前に小次郎に身替わりとなるように言い聞かせ、小次郎も納得する。そして戦場の混乱に乗じて敦盛と小次郎の鎧兜を替え、敦盛になりすました小次郎を須磨ノ浦で熊谷が討ち取ったのだった。
 しかし熊谷はこの身替わりが正解なのか否か分からない。答は首実検での義経の反応で確かめるしかない。そこで熊谷は首実検の前に制札を抜き、首桶に添えて義経に問う。これで良かったのかと。
 ところが首桶を開けた途端、事情を知らない相模と藤の局が騒ぎ出す。それを奥にいる梶原に聞かれると、全てが水泡に帰す。敦盛救出ミッションは義経と熊谷だけしか知らない極秘事項なのだ。だから熊谷は二人の女を階下に下ろし、黙れと叱りつけたのである。
 ここで熊谷は制札を抱えて見得をする。これが団十郎型と芝翫型で大きく違う。団十郎型では制札を下向きに付く。これは制札のボード部分で小次郎の首を隠すためである。一方、芝翫型では制札を上向きに付く。僕はこれまでその理由が分からなかった。しかし今回、事前にパンフレットを読んでいて、上村以和於氏が「芝翫型で制札を上向きに付くのはお触れを二人の女に見せるため」と記した解説に行き当たり、思わず唸った。考えてみれば全くその通りで、必要だから制札を上向きにするのだ。芝翫型の熊谷は二人の女に(特に相模に)制札を見せる事で小次郎を殺さねばならない理由を示しているのである。
 それが分かって舞台を見ると、芝翫の熊谷が制札の見得で口をカッと開ける理由も、平山見得と同じだと分かった。つまり制札の見得は平山見得と同様に熊谷が極限状況に置かれた事を表現しているのだ。今回の舞台はその様に芝翫型の意味や表現内容を深く理解できたのである。
 首実検になり、熊谷が義経に首を差し出す。義経は敦盛の首に相違ないと宣言し、「由縁の人もあるべし。見せて名残を惜しませよ」と言って首を熊谷に返す。熊谷は相模に「藤の方にお見せせよ」と言って首を渡す。
 この場面も芝翫型と団十郎型で違う。団十郎型の熊谷は二重の上から敦盛(の身替わりになった小次郎)の首を首桶に乗せたままで相模の前に押し出す。これは首はあくまでも敦盛だという建前を通しているからである。一方、芝翫型の熊谷は首を抱えて自らの手で相模に直接渡す。これは実検が済めば首は我が子という本音を現している。だから抱えて妻に直接手渡すのである。
 僕はこの場面は芝翫型の方が好きだ。やはり熊谷と相模に夫婦の情が通うからである。団十郎型は理屈としては分かるのだが、人情として同意し難い。
 もっともこの場が芝翫型が優れていると実感したのは当代仁左衛門の熊谷である。仁左衛門の熊谷は全体的には団十郎型だが、部分的に芝翫型を取り入れており、首を相模に渡す場面が芝翫型だったのだ。たしか平成20年7月松竹座で、仁左衛門の熊谷のこの場面は非常に哀切だった。それまでにも橋之助時代の芝翫で見ている筈だが、それほど可哀想だと思わなかったのは、その当時の橋之助は若過ぎて型に内容が伴わなかったのだろう。
 今回の芝翫は違った。非常に哀切だった。相模に首を三段を昇って受け取る。この時、芝翫の熊谷は首を受け取った妻を抱き締めた。これは仁左衛門もやらなかった演技で、賛否はあるだろうが、僕は当代芝翫らしいと感じた。
 首を受け取った相模のクドキ。我が子を失った母の嘆きを吐露する見せ場である。これを受ける熊谷の芝居は芝翫型、団十郎型ともに違いはない。
 法螺貝を吹く音が響き、戦が始まった事が知らされ、熊谷は出陣を準備するため奥へ入る。入れ違いに舞台上手から梶原景時が現れ、「義経と熊谷が結託して敦盛の命を助けた事を奥で聞いた。これは頼朝への裏切りだ。鎌倉に報告するぞ」と義経に向かって言うと、陣屋から走り去ろうとする。が、石鑿が飛んできて梶原の首に刺さり、梶原は絶命する。
 舞台上手から弥陀六が現れ、「お前方の邪魔になる石木端を取り除いてあげました。私はこれでお暇いたします」と言って立ち去ろうとする。義経は弥陀六を呼び止め、実は平家の武将弥平兵衛宗清と見破る。弥陀六は宗清の本性を明かすと、早世した清盛の嫡男で聡明な重盛からいずれ平家は没落すると予言を受け、重盛の娘の姫君を預かって民間人として生きる道を選んだと語る。更に彼は平治の乱で義朝の死後、逃亡した常盤御前と幼少時の義経を木幡の関所で命を助けたが、そうしなかったら平家が源氏に滅ぼされる今日の惨状は訪れなかったと後悔を口にして嘆き悲しむ。
 すると義経は宗清を弥陀六と呼び、鎧櫃を渡して娘の土産にしろと言う。宗清が鎧櫃の中を改めようとして蓋を開けると、そこには敦盛が入っていた。それを見た藤の局が思わず駆け寄るが、宗清は中には何にも入っていないと言って藤の局を制止すると、敦盛の命を助けた熊谷に礼を言う。
 以上の宗清の件は芝翫型でも団十郎型でも同じ。
 一方、熊谷は鎧兜姿となって現れ、義経に暇乞いを願い出る。鎧兜を脱ぐと、頭は髻を切っており、衣装も僧衣を着している。熊谷は小次郎の菩提を弔うために武士を捨て、名も蓮生(れんしょう)と改め、出家するつもりだった。
 この箇所も団十郎型と芝翫型で多少違う。団十郎型では先に鎧を脱ぎ、後で兜を脱ぐ。僧侶姿は、頭は丸坊主で衣装も鼠色の着付に墨染の衣という旅の雲水みたいな感じである。
 一方、芝翫型は先に兜を脱いで頭を見せるが、坊主頭でなく髻を切ったザンバラ頭で、後で鎧を脱ぐ。古い記録を読むと芝翫型の僧衣は白無垢の着付に袈裟を掛けた姿だが、今回の芝翫は鼠色の着付に墨染の衣。これは復活初演時からそうだった。ちなみに頭はザンバラである。
 浄瑠璃の文言に熊谷の僧衣は白無垢に袈裟衣とあるので、芝翫型の古い演出は原文に忠実なのだ。団十郎型の旅の雲水みたいな格好は原典を無視しているが、最後に一人で花道を引っ込む時の寂寥感には合っている。芝翫が復活初演時から僧衣を団十郎型にしたのは、おそらく歴代の熊谷役者が勤めた舞台が目に残っており、彼らに対する敬意からだろう。
 話を舞台に戻す。義経は熊谷の姿を見て胸中を察し、暇乞いを許す。原典では相模も髷を切り、尼となって夫と共に小次郎を弔うことを決意するが、現行演出ではカットが通例。今回もカットされていた。
 弥陀六は鎧櫃を背負い、藤の局を連れて立ち去ろうとするが、去り際に敦盛が蘇って平家の残党を集め、源氏に弓引くことになったらどうすると義経に問いかけると、義経はその時は正々堂々と戦うと答える。熊谷は法然上人を師と頼み、京の黒谷へ向おうとする。義経は小次郎の首を敦盛として須磨寺に納めて供養すると熊谷夫婦に約束する。こうして熊谷の陣屋に集った人々はそれぞれの行く道に別れていくところで閉幕する。
 幕切れが芝翫型と団十郎型の最大の違いである事は最初にも触れた。芝翫型は登場人物一同が舞台に並んで閉幕する。それは原典の浄瑠璃の文句にそう書いてあるからで、もちろん文楽の幕切れも芝翫型と同じである。
 一方、団十郎型では熊谷以外の人物は舞台に残り、熊谷一人が花道の引っ込みを見せる。幕切れで小次郎の首を見た熊谷が「今ははや何思う事無かりけり 弥陀の御国へ行く身なりせば。十六年は一昔。夢だ夢だぁぁ」と嘆いて涙をこぼす。そして悲しみに耐えきれず笠で頭を覆って座り込み、幕が閉じる。立ち上がった熊谷が悄然として歩み出そうとすると、遠くで陣太鼓の音が聞こえ、思わず身構えるが、出家した自分には関係ないと思い直して再び足を出す。しかし戦の音は止まず、熊谷は耐えきれずに再び笠を被って花道を走り去る。
 芝翫型の熊谷が「今ははや何思う事無かりけり 弥陀の御国へ行く身なりせば」と言うのは、本舞台で鎧兜を脱ぎ出家の意志を表明する時である。更に「十六年は一昔」の後は「夢であったなぁぁ」と言う。
 団十郎型の「夢だ夢だぁぁ」は小次郎を育んだ16年という歳月は彼の死によって夢まぼろしと化してしまったと自分に言い聞かせるが、どうしても納得出来ない苦悩が込められている。これに対して芝翫型の「夢であったなぁ」は小次郎の死を受け止めて詠嘆している。
 団十郎型の幕切れは九代目団十郎が創出した。すでに述べた様に、九代目は登場人物が舞台に居並んで閉幕する従来演出(芝翫型)では、熊谷の悲しみや無常感を充分に表現できないと考え、幕切れで一人で花道を引っ込む様に改めたのだ。舞台が閉幕した後、熊谷が花道で見せる芝居は上で詳述した通り、揺れ動く内面を繊細に表現している。それはもはや熊谷の心境劇と言っても良く、他の芝居で見られる花道の引っ込みとは一線を画す。
 ただ、団十郎型の引っ込みには根本的な欠陥がある。原典の浄瑠璃では相模も出家して夫とともに小次郎を弔うと表明しているのに、団十郎型ではその件をカットして、熊谷は一人で出家して旅立つ様にした点である。それは九代目が熊谷の心境を拡大して見せようとしたからであるが、その代償として相模はまるで夫に捨てられた様な扱いになった。これはあまりにも情が無いと言えないだろうか。
 この問題を解消しようとした演出がある。一つは当代右団次が右近時代に演じた熊谷。大筋は団十郎型で、幕切れも坊主頭に墨染の衣と鼠色着付で幕外引っ込みを見せたが、一人ではなく、相模と夫婦で引っ込んだ。しかも相模は浄瑠璃の文言通り髷を切っていた。この演出は右団次の師匠三代目猿之助が考案した。右近の熊谷は義太夫の音遣いが不十分であまり出来は良くなかったが、幕切れだけは夫婦の情がよく出ていて感心した。
 もう一つは四代目坂田藤十郎の熊谷。海老蔵の襲名披露の名古屋公演で十二代目団十郎が病で休演し、藤十郎が代わりに演じたのだが、やはり大筋では団十郎型に拠りながら細部で原典を採用した独自の演出だった。この熊谷も幕切れで相模と夫婦二人で花道に出るが、閉幕した後で相模を先に行かせ、一人の引っ込みを見せるという変化球的な演出だった。
 この2例を除いた残り全ては団十郎型のオーソドックスな演出で、熊谷は一人で引っ込んだ。それぞれに素晴らしい舞台だったが、とりわけ十七代目勘三郎と二代目松緑、二代目吉右衛門と当代仁左衛門の熊谷の引っ込みは素晴らしく、相模を置いてきぼりにしたなどという不満を忘れさせてくれた。が、僕はやはり団十郎型の幕外引っ込みは基本的に賛成できない。
 その意味で原典に忠実な芝翫型は、団十郎型の様な齟齬が少ない。少なくとも幕切れは相模と共に舞台上で小次郎の死を悼んでいるし、そこには平家の宗清と藤の局、そして源氏の義経など様々な人物が居合わせるが、みんな小次郎の死に何らかの関わりを持っていて、立場は異なるものの全員が小次郎の死を悼んでいる。しかし源氏と平家は明日には再び敵味方となって刃を交わし、熊谷夫婦は戦場を離れて仏門に入る。この様に芝翫型の幕切れは様々な人間の生き様を描いた群像劇なのだ。今回の舞台を見ているとその事がよく分かる。団十郎型の幕外引っ込みが恋しくならず、時代物の風格を感じさせたのは出演者の手柄である。

 役者の一言評。
 芝翫の熊谷はやはりガラが立派なのが第一。型が身に馴染んで内容を充分に表現していた事が第二。物語の勇壮豪快さ、首実検前後の一所懸命さ、我が子の首を相模に渡す時の情などが、すでに記したが、印象に残った。演じ重ねて洗い上げれば次代の熊谷役者の第一人者となるだろう。ただ、この型は体力を要すので、あまり歳を取ると妙味が出なくなる可能性がある。
 孝太郎の相模。もともと時代物の女房役はニンに合っているが、これまではなかなか役に恵まれず、「陣屋」なら専ら藤の局を演じてきた。しかし今回の相模は輪郭が大きく、演技も安定している。これは昨年から立て続けに演じたお陰で型が手に入ったのだろう。総じて遺漏は無いが、課題はクドキでたっぷりとした哀れさを感じさせる事。それにはやはり演じ重ねる事しかないだろう。
 児太郎の藤の局は、冒頭で相模の身の上話をイキを詰めて聞いているのに感心した。こういうリアリズム指向はお父さん譲りかもしれない。ただ、身を乗り出して聞く姿勢が悪く、上﨟の品格を損なうのは要注意。しかし、芝居に熱心なところは評価したい。
 若くて綺麗なので後白川院の愛人という設定に説得力があるが、常に我が子を思う行動がやや騒々しい点や、母性が薄く感じる点は若いからだろう。
 鴈治郎の弥陀六。化粧が普通の世話の老人で、この場の単独上演なら物足りなく感じただろう。過去に見て印象に残った弥陀六はいずれも石屋を名乗っていながら得体の知れなさを感じさせ、それが弥平兵衛宗清という老武将の素性を暗示していたが、それに比べると今回の鴈治郎の弥陀六は尋常で分かりやすい。しかし「御影浜」から演じるならこれで良いのかもしれない。素性を現した後の物語では、過去に幼少時の義経の命を救った事の後悔が鮮明に表現された。それがあるから、幕切れで義経に平家再起を宣言する件も強く印象に残った。
 錦之助の義経は切って嵌めた様な適役。まず風姿が良く、役柄としてニンに適っている。セリフも穏当で、熊谷や弥陀六に情を示す件も文句なし。歌舞伎の花も実もある御大将としては理想的で現行演出の義経としては高位にランクする。欲を言えば情深い花の武将だけでなく、どこか冷徹さが欲しい。例えば七世梅幸や七世芝翫が演じた義経はひたすら優美柔和であったが、彼らは純女方だったからそれでも許されたのであって、立役の義経には凛々しさや知略も求めたい。文楽の義経は知略策謀の人たる強かさが感じられる。そういう義経を今の錦之助に求めても、無理な注文ではないだろう。
 松江の梶原が意外に立派。この人もようやく居どころが定まった様だ。
 橋之助の軍次は真面目に演じているのが気持ち良い。いずれは芝翫型の熊谷を継承する日が来るだろう。
 竹本は「相模の入り」「弥陀六詮議」は素で運び、「熊谷桜」から入る(ただし「熊谷桜」は御簾内で司太夫と公彦の三味線)。「物語」が愛太夫と燕太郎の三味線、「首実検」が東太夫と長一郎の三味線。
( 11月24日所見 )