実はワタクシ、これまでの人生

『先祖供養』というものに、殆ど絡みがありませんでした。


育った家庭というのは、

やれ『菖蒲湯』だ、やれ『七草粥』だ

等の行事?

季節や二十四節氣に因んだ何かに則するというのがない家庭でした。


お墓参りも、数えるくらいはある…という程度。

法事法要等も。

現在ワタクシは54歳です。

ティーンの若者でもありません。



先祖供養をしないでいる。

先祖もよく分からない。

宗教にも無縁。


強いものではないものの、

心の引っ掛かりでもありました。



その反面、思うこともありました。

自分の子孫に対し、儀式や習わし?それを義務かの様にやるものだと望まないし、

可愛い子達には愛情を通わせたらいいし、先祖に当たるからと『御先祖様』と崇め奉られるもの…

そうかなぁと。




何回か、先祖供養に関する動画や記事を視聴したりしていた。


とある書籍では、

『しても、しなくてもよい』

と、ありました。

なので、

してはならないわけでもないし、

しなくてはならないわけでもない。


先祖の中には、苦しみの念を強く残したまま絶命し、その想念のまま漂っている先祖があったとして、

子孫である貴方にその苦しみを頼りに絡んで来て、エネルギーを同調させてしまう災い…

を起こすこともあるのだと。


だからこその供養…ということも一定数あるのかとは思いますが、正直、

ハイ供養しました!チャンチャン!

と、単純な感じがしないのは、ワタクシだけではないと思います。




今思うことは、

やはり、型に嵌められた様式に則って『先祖供養』をするものだという結論はなく、

そして、現在のワタクシとしては、常に見守って愛で包んでくれている『霊的存在』があって、

常にその存在と内側の『自分』とで『愛と感謝を通わせている』。

それが先祖に当たる存在も含まれているのかも知れないという含みの意識もあります。

それと毎日ご配信されている、『アメノミナカヌシ様、お助け下さいましてありがとうございます』という動画をその日その日の視聴を毎日、手を合わせながら心を送っており、イイネや時にはコメントしております。


大天使ミカエル様であったり、産土神様であったり、地域の氏神様であったり、何処に焦点を当てていいのやら、でも、焦点なんて要らなくて、ぼんやりした枠で、対象としているし、言い換えれば、

『あらゆる全てが対象』なのです。

そしてその『あらゆる全て』とは、個々の個別の…

ではなく、大枠での一つでもあり、境目のない共通し合う繋がりを持った…




経済的に苦しい思いをして、やれ法事を出すとか、ごとうば?拝み代?お車代?黒い服をコートまで揃えなくちゃとか、殆ど、そういうことには関わりを持たずに来ています。



そういうことの全てが否定されるものでもないと思っております。

ただ、心を誤魔化して、本来の自分を圧迫するということには、やはり、否定の必要はあるのかと思います。




強迫観念により、『先祖供養』をするものではない。

愛に基づいて、そういうコンスタントな機会を持つことは、とても有意義で素晴らしいことだとは、思います。



心で思っていればそれでいいんだというのはありますが、

何のメリハリもない日常生活の中で、そういう機会を持つこともなく過ぎ、そんな日が積もり重なって行くというのも、そんなに有意義なこととは言えません。



ワタクシの場合は、一般的なそういう機会は皆無に近いのですが、見えない霊的存在との愛の交流を、

自分の中では日々の日常の中に在り、それでいいと思っております。

ただ独立してそれぞれ生計を立てている、

ワタクシの二人の子供達に、やはりワタクシと同様、一般的なそういう機会もなく、家に仏壇があったりもなく、、

その子供達に機会を見て…恐らく遺言の機会になると思いますが、見えない霊的存在との愛の交流のことを大切に伝えたいと思っております。

『ワタシは霊的存在になります。

ワタシはあなた達を愛していました。

とても力不足でした。ごめんなさい。

これからも愛しています。

もしあなた達にワタシへの愛があるのだとしたら、ワタシに愛を送って下さい。

位牌や戒名等、何も要りません。

ただ、ワタシの誕生日にだけ、コンスタントな機会として、愛を送って下さい。

愛する○○と○○へ♡』

こんな感じで(*’ー’)。



長くなりましたが、

ワタクシの、ハダカの思いです。


『先祖供養』。

何となく、センシティブ❓なワード。



真心と愛

交流。




お読み下さり、

ありがとうございましたラブラブピンク薔薇赤薔薇ハート音譜





ささ照れラブラブ







ハートラブラブ