「無門関」を読む19
十八、洞山の三斤
洞山和尚はある時一人の僧からこう訊かれた、
「仏とは一体如何なるものですか」
洞山和尚はこう答えたという、
「そうさな、仏があるから私はこうして僧侶となり、この袈裟を着ていられるわけだから、してみると仏とは袈裟一着分の麻三斤というところだろうて」
無門に曰く、
「洞山和尚は小さなハマグリのような禅を会得したとでも言わんばかりに貝の殻を開いてハラワタまで見せるかのごとくである。
まるでそんなわけだが、さて、ここで考えてみてくれ、洞山のこの言い分は一体どういう意味なのか?」
謳おう、
麻三斤と放つ言葉はたやすくてその意味すらもまたやすし
これに善悪評するは仏に白黒つけるもの
「無門関」を読む18
十七、国師三たび家来を呼ぶ
ある国師が家来を呼びつけてもう3度目に なった時こう言った、
「私の言い方が悪くてお前を3度も呼びつけることになってしまったのかと思っていたが、よくよく考えてみれば、元はと言えば、お前が私の言いつけの期待に外れているから、こうしてまた呼びつけることになったんだよな」
無門に曰く、
「国師は家来に三回も用事を言いつけて言い疲れてしまったし、家来は言われるがままに自分なりに出来ることは全部やってしまった。年老いた国師にしてみれば孤独で寂しかったので、牛の頭を撫でで草をはませてやったようなわけだが、家来の方はどうもピンと来ない。ご馳走もお腹いっぱいの人にとっては残飯にもならないようだ。
さて、ここで考えてみてくれ、家来の一体何処が期待外れだったのか?
国が平和だと女官まで貴族気取りになり、家が豊かだとその家の子供は生意気になると言う。」
謳おう、
仏の鉄枷に穴はなし人が背負わにゃならぬもの
子孫の代まで業止まぬ
門と家とを守るなら裸足で自ら針山登れ
「無門関を読む」17
十六、鐘声七条
雲門はこう言っている、
「世界はこんなにも広々と果てしなく広がっている。それなのに、お前たちときたら、鐘が鳴ると袈裟を着て此処に集まってくる。」
無門に曰く、
「禅の道を学ぼうとするものは、凡そ声に聞き惚れ、色に眼を奪われることを忌み嫌う。
例えば、誰かの言う言葉で悟りを開いたり、何かを観て心を明らかにすることはあるだろうが、それはよくあることだ。
どうも禅者というやつは、声を聞けばそれに乗り、形あるものはそれを抱きしめ、それぞれを頭ではっきり受け止め、それぞれと妙なる関係を持つということをまるで知らない。
そんなところだろうが、しかし、ここで考えてみてほしい。
声の方が耳の端までやってくるのか?あるいは、耳の方が声を聞き分けようとするのか?
響きと静寂を超えた境地にあるなどとほざいても、ここのところをどう説明するかであろう。
耳で聴いていては悟ることは難しい。
眼で声を聴き、耳で景色を観て、初めて悟りの端緒につけるというものだろう。
謳おう、
千差万別と識るものも真に出会えば全ては一つ
会わねども実は一つゆえ会えばなおさらそれぞれ輝く