魂と時間129
プラトン曰く、
「時間は永遠を写す数に従って動く一つの模造である。」
アリストテレス曰く、
「時間は以前と以降とに関する運動の数である。」
このふたつの定義は哲学的というよりも、むしろ通俗的な時間定義の二つの側面をよく象徴しているとハイデカーは指摘する。
プラトンの言う「永遠の模造」とは「時間は数によって平準化された絶え間ない今の連続である」ということだ。そうした通俗的概念は実存的な時間構造が持つ日時特定の可能性を忘却させているのである。
またアリストテレスの言う「時間は運動の数である」という概念も、「今」の前後という意味合い、すなわち前後契機でしか時間を捉えないものであり、これは実存的な時間構造の有意性を忘却させている。
魂と時間128
現存在は被投的な存在として頽落しながら実存しているからこそ、公共的な時間が与えられている。
そして、時間性は現存在の実存構造から生じているのであり、時間的に在ることこそ実存なのである。
従って現存在が時間的特定、解釈をするには世界内の出来事や身近なもの、手元のものも「在る」と把握して表現する必要がある。
時間内部の計算に入れるには世界内のものは時間内部のものである必要がある。
このようにして、現存在の実存構造から、世界内の他のものも「在る」と解釈される。
魂と時間127
さて、このように開示された自己解釈に基づいて事象を認識するものにとっては、如何なる瞬間も実存構造の中の「あの時」と「その時」の間として伸び広がっているのであって、これは自己の時間性から生じた「今」である。従って機械仕掛けの装置に頼るまでもなく、時間は自己の時間性にによって特定されている。毎日の日常的な出来事が次々に世界内の時間で押し寄せて来ても、彼の実存的時間というものがなくなることはない。
これと対照的に、日常的に人は「時間がない」と言うが、これは実存構造の時間性を忘却しているからであるとハイデカーは言うのだ。
そうした忘却状態においては、人は日常的な忙しさに追われて「我を忘れ」時間の費やし方自体に没頭して「生活に明け暮れる」。
そういう場合には、実存構造において予期し、保持して現じさせる働きがなく、優柔不断に翻弄される。
果断に決断した実存は本来的に歴史的な自己の一貫した自立性という意味で伸び広がっている運命的な全体として時熟する。
果断に決断したものにとっては実存構造に関係ない状況は時熟にとっては無駄である。従って現存在はそうした無為な状況を「時間が取られた」、「時間を逸した」と感じる。
ところが、情報の共有度が増し、世界内の出来事が共有されるようになればなるほど、実存的時間性が公共的な時間に覆い隠されてしまうのである。