自分に自分の年齢を問いかけてみよう。

昔、自分が幼なかったころ、30歳の人。といえばそれはそれはとてもいい大人だった。とんでもないおじさん、おばさんにも思えた時期があった。
最近は見た目も若々しく、年齢不詳のような風体が多いけれども、そのせいなんだろうか?自覚のない大人が多い気がする。
まだまだ精神的には新入社員。もしくは入社したての若造。いや、大学生なのかもしれない。

それはそれでいい。でも、ふと振り返って欲しい。
後ろには、沢山の後輩たちが連なっている。
後輩なんて言い方はもうできない。
部下がぶら下がっていたりする。
自分は、そう思いたくない。なんていうかもしれない。
でも、自分以外の人は、自分のことを目上の人だ。と思ってみつめられていることを気がつかない。

自分は意識していないかもしれないが、意外と世の中は順をおって昇格させるものだ。
気がついてみると、マネジメントクラスになっていたりする。
とんでもなくいい大人になっている。

今沢山の犯罪や事件がおきているけれども、大人であるはずの人が、実は精神的にはまったくそれを意識していない。ということが一番の原因なのではないか?と思う。

大人になればなるほど責任の範囲も広がる。その広さも感じない。実感がないようだ。気持ち的にはまだまだ当時の自分のまま。

何が起きてもおかしくない現代だなぁ。と改めて思う。

子供時代の自分のまま、自分の得意分野だけをうろうろする。自分の守れる範囲だけで守られている当時のぬるい環境。そのある一定の環境の中を行き来しているから、突如壁にぶつかり、現実とその日常との差異に驚き、ある日突然突拍子もない行動を起こすことになるんだろうな。と思う。


とある人は私に電話でこういった。

「お前なんて死んじまえ」

とてもとても信頼している友だった。もちろん、それは私が悪いことをしてしまったことが原因ではあるけれども、その件については、申し訳けなかったと謝りもした。何度も何度も謝った。いいよ。と許されるものでもないか。とも思いながらも遠く離れていることもあり、常に相手を思いやる気持ちがあるとも勝手に思っていたのが思い違いだった。どんなにか頭にきたのだろう。でも、私として感じたのは、どんなに憎かろうがどんなに悔しかろうが、口にしてはならない一言があると思う。


これは一例。

30年も人間やっているわけであり、人間としてはかなり歴史をつんでいる。
いろんなシュミレーションもできるはず。
気持ちよく生活をするに必要なものはなんなのか?
人は一人だけで生きているわけでもなく、少なからずも人にかかわりあいながら生きているのが大前提。でも、それに気がつかない。
それでも異様に偏った行動を突発的に起こす、そんな数多くの大人たちからも異様な犯罪が起きる理由がわからなくもない。


大人になりきれない大人たち。

今ものすごく沢山いる。

今日、私は改めておかしな大人の事象を再確認した。
まがった大人になってしまった。
それをいかにして矯正するか。
それにどれだけ私が労力を使うべきか。
しかもそれは、私が労力を使うべきものか。
でも目の前にしたその大人は、まぎれもなく私の近いところにいる存在。
私としてはそれに気がついて欲しいと思う。間違っていることを間違っているんだよ。と伝えたいと思う。でも本人といくら話しをしても、「自分は間違っていない」としか答えは返ってこない。

そして、傾向としては、必ず「何か」のせいにする。
理由は沢山用意してあって、自分がだしている結論や行動を裏づけようとする理由(私からしたらいいわけ)を用意している。

いいわけに守られなくてもいい言動、行動。
それができれば、大人らしい大人になると思う。
人はとてつもなく弱いもの。
いいわけが整っていれば、それはそれで自分的には楽だ。

大人になりきれない大人。
それは言い訳けばかりに周りを固めた歳だけを経た子供だ。