サラリーマンと聞いて、賢明なる読者諸氏はどういう印象をお持ちになるだろうか。

 

恐らく現代におけるサラリーマン像と言えば、哀愁を漂わせるネクタイに背広姿の中年男性が、早朝から満員電車に揺られて出勤をし、昼時には昼休みという時間制限の中で足早に昼食を摂り、夜は飲み屋街の居酒屋で同僚たちと共に酒を酌み交わしてその日一日の憂さを晴らして夜行電車に乗って帰宅する。

 

はたまた半沢直樹のような熱い想いを胸に秘めて日夜働くやり手管理職の颯爽とした姿だろうか。

 

少なくとも現代においては、サラリーマンという職種に良い印象を持つ人は少ないだろう。

 

少し前まで「社畜」「組織の部品の一つ」などと揶揄され、中年期に入る頃には無情にもリストラの対象と、社内では後ろ指を指される事も多かった現代のサラリーマンたち。

 

しかしながら、戦前期までの彼らは別の顔を持つ精鋭たちであった事を御存知だろうか。

 

今回は、戦前に活躍した企業戦士「サラリーマン」について少々語って行きたいと思う。

 

賢明なる読者諸氏におかれては、長らく更新がご無沙汰になってしまった事をこの場を借りて重ねてお詫び申し上げたいと思う。

 

では、早速始めて参ろう。

 

 

戦後高度成長期、そして平成バブル時代にかけてサラリーマンは世間から「モーレツ社員」「企業戦士」と呼ばれていた。

 

彼らの地道な活躍なくして戦後の奇跡ともいえる大成長時代と世界第二位の経済大国の地位は無かったと言っても過言ではないだろう。

 

現代におけるサラリーマンたちへの印象については先に述べたが、では戦前期、すなわち大正時代から昭和初期にかけての彼らへの世間からの印象は果たしてどんなものであったのだろうか。

 

サラリーマンという言葉が生まれたのは、一説には大正中期から後期と言われている。

 

サラリー(給金)をもらう人(マン)でサラリーマンとする日本発祥の造語が世間で頻りに言われるようになった。

 

彼らは世間では現代風に言えば「エリート」に属する人々とされており、ネクタイを締めて背広を着て出社をする彼らは世間の羨望の的であった。

 

(昭和初期の頃のサラリーマン。彼らは高学歴のエリートたちだった。)

 

 

大正中期のサラリーマンを主役にした有名な小説に谷崎潤一郎の「痴人の愛」がある。そこには、主人公にして語り手となる「河合譲治」という男が登場する。

 

譲治は自らの自己紹介を冒頭で行うのだが、その一文を少し抜粋する。

 

「私は当時月給150円を貰っている、或る電気会社の技師でした。(中略)そして日曜を除く外は毎日芝口の下宿屋から大井町の会社へと通っていました」

 

譲治の月給は150円で、ここに賞与(ボーナス)や手当なども加算される事から、恐らくは概算で年収1700円くらいとなるだろうか。

 

作中では譲治が役職名で呼ばれていない事から、彼は平社員だと推定される。

 

1700円を現代の価値に換算すると、インフレ率などもあるので近似値として考察すると、1円が現代換算で約5000円から6000円程度と考えられるので、5000円×1700円で850万円相当。多く見積もって約1000万円相当となる。

 

ちなみに、当時の公務員の初任給が約70円と考えると、民間企業のサラリーマンがいかに高給取りであるかがお分かり頂けるかと思う。

 

 

少し時代が下り、昭和初期の頃に太宰治の代表作「人間失格」が世に出されるが、その作中にもサラリーマンに関する事柄を示す一文が書かれている。

 

主人公の大庭葉蔵が父の知り合いであるヒラメの家に厄介になっているシーンでヒラメが葉蔵にこう発言するシーンがある。

 

「本気で、そんな事を言っているのですか?いまのこの世の中に、たとい帝国大学を出たって・・・」

 

葉蔵はこれに対して「いいえ、サラリイマンになるんでは無いんです」と返している。

 

この会話からも分かるように、当時サラリーマンになるには帝大卒くらいの学歴が無くては大企業への就職も難しいという事が察せられる。

 

 

世間ではエリート階級の象徴ともされたサラリーマンたち。

 

彼らの活躍に関する記事は次回に回すとして、ここでは彼らの日常について語って参ろう。

 

 

当時のサラリーマンたちも、現代人と同じく猛烈な働きを会社より期待された。

 

高給取りである以上、その期待度は随分と高かったとは思うが、彼らも人間であるからして、仕事をする上でも楽しみを見つける事には長けていた。

 

その一つが昼のランチタイムである。

 

今と変わらずサラリーマンの昼時、すなわち「サラメシ」は彼らの重大関心事の一つだったのである。

 

やれ、どこの食事が美味いとか安いとか、混んでいるか空いているか、サービスや店員の愛想はどうかまでを厳しく査定する。

 

その内に会社の付近にある穴場食堂を見つける事を日々の楽しみにする強者まで現れた。

 

その一例として、現代でいう食べログのような都心で働くエリートサラリーマン向けの昼のグルメ雑誌まで刊行された。

 

その名も「大東京うまいものたべある記」である。

 

これには、当時の銀座、日本橋などのオフィス街に数多くひしめき合う食堂、レストランを筆者が食べ歩き、その食後評が事細かに掲載されており、世の働く男たちのランチ時のバイブルとなっていた。

 

この雑誌に掲載された店舗で出されていた定食などの価格に平均値を割り出すと、サラリーマンが昼時に支払っていたランチ予算はざっと現代価格で1000円から2万円くらいと見積れる。

 

むろん、自身の役職により予算は上下するので、あくまでも平均値であるが、財閥系企業の課長ともなると、年収ベースで現在価格だと数千万円貰っていたとも言われるので、そのような立場にもなると、1万円コースのランチは普通なのかも知れない。

 

余談になるが、銀座「竹葉」の鰻重は、昼のランチだと並で1円50銭、上うな重だと2円だったそうだが、大人気メニューであったという。

 

これが一般サラリーマンのランチ時ならば、重役クラスはどんな物を食べていたのだろうか。

 

史料によると、銀座精養軒(現代では上野精養軒)が財閥オーナーたちや重役たちの人気ランチレストランだったそうだ。

 

昼のランチだと1円40銭。現代価格で約数千円程度。意外な事に部下たちと同じような予算で食事をしていたようだ。

 

ランチの献立は、その日はシャケのムニエルだったり、ビフテキだったり、マカロニグラタンなど。それにサラダがついて食後にコーヒーとアイスがついてくる。

 

(築地精養軒。東京に本社を持つ財閥企業の重役たちの行きつけの洋食屋だった)

 

値段は別にして、金持ちの食事にしては現代人と余り変わらない感じもするが、それは現代が食生活において裕福になっているからであり、当時の食文化を考えると随分と高級路線である。

 

中には質素な食事を好む重役やオーナー諸氏も多かったようで、給料前で財布が寂しいから、近所のそば屋で同僚と一緒にざるそばを食べていたら、隣の席に座った老年の紳士は自分の会社の常務だったという食事も喉を通らなくなりそうな笑い話もある。

 

 

さて、次回は彼らサラリーマンの成り立ちと働きぶりを語るとして、今日はこの辺で筆を置きたいと思う。