僕たちは天狗さんと別れて、また登り出しました。時々現界の登山者達の方をのぞいて見ましたが、何れも気の毒なくらいくたびれて、気息をはずませていました。こちらはその点一向平気なもので、平地を歩くのとさして変わりません。
 「これではあまり楽すぎて、登山気分が出ませんね。」
 「脚につけた脚絆の手前が、恥かしいくらいのものじゃ。」
 ――僕達はそんなことを語り合いました。

 森林地帯が過ぎて、いよいよ禿山にかかろうとする所で、僕達はともかくも岩角に腰をおろして、一と息をすることにしました。
 「やれやれくたびれた。どっこいしょ……。」― 僕は冗談にそんなことを言いましたが、勿論ちっともくたびれてはいません。こんな場合、現界の人なら煙草でも吸うとか、キャラメルでもしゃぶるとかするところでしょうが、僕達にはそれもできません。あっけないことおびただしい。
 あまり手持無沙汰なので、一つ音楽でもやろうということになり、守護霊さんは腰間の愛笛を抜き取り、僕はポケットのハーモニカを取り出しました。これまで僕は何回となく、守護霊さんと合奏しておりますから、近頃はとてもよく調子が合います。できることなら、一度皆さんに聞かせてあげたいのですがね……笛とハーモニカの合奏も、なかく悪くないものです……。
 それはとにかく、僕の守護霊さんが、小手調べのために、笛を唇に当てて二声三声、ちょっと吹き鳴らした時です、思いもよらず、どこか遠い所から、りゅうりょうとした笛の音が聞えてきました。僕達はびっくりして、互に顔と顔とを見合わせました。
 「登山者の中に、誰か笛を吹くものがいるのかしら……。」
 「いや、あれは人間界の音色ではない」と守護霊さんは、じっと耳をすませながら、
 「人間界では、あんな冴えた音が出るものではない。たしか神さんの手すさびに相違ない……。」
 僕達は合奏どころでなく、しきりにあれか、これかと臆測をめぐらしましたが、とうとう守護霊さんが統一をして富士山守護の神霊に、その出所を伺うことになりました。すると直ちにむこうからお知らせがありました。
 「只今吹奏されたのは、富士神霊のお附の女神である。そなたの笛が先方に通じ、お好きの道とて、うっかり調子を合わせられたものであろう。……」
 それと知った時に、僕は有頂天になりました。―
 「やあ、こいつは面白いことになってきた。守護霊さん、一つ是非その女神さんに、こちらへお出でを願って、合奏していただきましょう。」
 「それもそうじゃ。一つあちらへ申上げてみることに致そう。遠方からの合奏では、何やら物足りない。」
 さすがに僕の守護霊さんは、音楽に生命を打ち込んでいる人だけあって、こんな場合には、少しも躊躇しません。早速その旨をあちらに申込んで快諾を得ました。

 待つ問程なく、間近かにさらさらという衣ずれの音がします。見ると一人の女神さんが立っておられました。年の頃は凡そ二十七八、頭髪はてっぺんを輪のように結んで、末端を背後に垂れ、衣裳は蝉の羽に似た薄もの、大体が弁天様に似たお姿でした。顔は丸顔、そして手に一管の横笛を携えておられましたが、それは目ざめるばかりの朱塗の笛でした。
 僕は文学者でないので、うまく表現ができませんから、一つ母の霊眼に見せておきます。後でよく訊いてみて下さい。とにかく現世では、ちょっと見られそうもない、気高い風釆の女神さんでした。
 女神さんの方では、よほどわれわれを不審がっておられるようでした。
 「先刻は大そうよい音色を耳にしましたが、あれはあなた方がおやりなされたのですか?」
 「お褒めに預かって恐縮いたします」と守護霊さんが恭しく答えました。
 「私の笛などはまだ一向未熟、とても神さまの足元にも寄りつける程ではござりませぬが、ただ日頃笛を生命としております以上、せめては一度お目にかかり、直接お教えにあずかり度く、もったいないこととは存じながら、ついあんな御無理を申上げた次第・・・・・。つきましては、甚だ厚かましうございますが、是非、何とぞ天上の秘曲の一つを、お授け下さいますように……。」
 熱誠をこめた守護霊さんの頼みには、女神さんもさすがにもだし難く思われたものとみえ、傍の岩角に軽く腰をおろして、心静かに、妙なる一曲を吹奏されました。残念ながら、最初僕には、その急所がよくわからなかったが、そこはさすが本職、僕の守護霊さんは、ただの一度で、すっかり覚え込んでしまい、女神さんが吹き終わると、今度は入れ代わって、その同じ曲を、いとも巧みに吹いてのけました。
 「あなたは、稀に見る楽才のあるお方じゃ……。」
 女神さんはそうおっしゃって、ひどく感心しておられました。
 「只今のは、あれは何と申す曲でございますか?」
 僕がそう訊ねると、女神さんはにこにこしながら答えられました。
 「これは富士神霊様が日頃お好みの曲で、「八尋の曲」と稀えられておりまする。大そういわれの深いもので・・・・・。」
 この女神さんは、至って口数の少ない方で、細かいことは何も教えてくれませんでした。それで別れ際に、こんなことを言われました。
 「あなた方も、いずれ頂上へお詣りであろうから、その際は富士神霊様にお目通りをさせて上げましょう……。」
 そう言ったかと思ったら、いつとはなしに姿がぷいと消えてしまいました。

 とにかく、この時の守護霊さんの歓びといったら大したもので、女神さんが去られた後で、何回となく「八尋の曲」の復習をやり、僕にも丁寧に教え込んでくれました。お蔭で僕にもーハーモニカで、立派に合奏ができるようになりました。