仕度もすっかり整いましたので、いよいよ出発といっても、そこは現世のような、面倒臭い出発ではありません。ただ心で何所と目標さえつければ、すぐそこへ行っているのだから、世話はありません。僕達の選んだのは、例の吉田口で、ちょっと現界の方をのぞいてみると、北口とか、何とか刻みつけた石標があったようでした。その辺には、人間の登山者も沢山おり、中には洋服姿の人も見受けました。僕は守護霊さんに、それを指摘しながら、
 「御覧なさい、近頃の登山者はこんな恰好なのです。僕ばかりが仲間外れになってはいません……。」
 「なるほどな」と守護霊さんも非常に感心して、
 「近頃洋服が流行ると承っていたが、斯くまでとは思わなかった。これも時勢で致し方があるまい……。」
 どうせ人間の方から、僕達の姿は見えはしないのだから、どこを通っても差し支えはない筈ですが、しかし人間と一緒では、何やら具合がわるいので、僕達は普通の登山路とは少しかけ離れた、道なき道をぐんぐん登って行きました。そこは随分ひどい所で、肉体があっては、とても登れはしませんが、僕達はいわば顕幽の境を縫って行くのですから、何やら地面を踏んでいるようでもあり、また空を歩いているようでもあり、格別骨も折れないのです。その感じは一種特別で、こればかりは、ちょっと形容ができません。まあ夢の中の感じ――ざっとそう思っていただけばよろしいでしょう。なに金剛杖ですか、……矢張り突きましたよ。突く必要はないかも知れないが、しかし突いた方が、矢張り具合がよいように思われるのです……。
 しばらく登ると、そこに一つのお宮がありました。勿論それは幽界のお宮で、つまり現界のお宮の、一つの奥の院と思えばよいわけです。そこには男の龍神さんが鎮まっておられましたので、僕達は型の如く拍手を打って、祝詞を上げ、「無事頂上まで参拝させて戴きます・・・・・」とお祈りしました。万事現世で行なうのと何の相違もありません。
 それから先はひどい深山で、大木が森々と茂っており、いろいろの鳥がさえずっていました。なに、それは現界の鳥かとおっしゃるのですか。そうではありません。すべてが皆幽界のものです。僕達には現界の方は、たまにちらりと見えるだけで、普通はこちらの世界しか見えません。ですから鳥の鳴き声だって、現界では聞いたことのないのが混っています。顕と幽とは、いわば、つかず離れず、類似の点があるかと思えば、また大へん相達している個所もあり、僕達にも、その相互関係がよくわかりません。うっかりしたことを言うと、とんだ間違をしますから、僕はただ実地に見聞したことだけを申上げます。理屈の方は、どうぞ学問のある方々が、よくお考えください・・・・・・。
 やがてある地点に達しますと、そこには、ごく粗末な宮らしいものが建っていました。それがどうやら、山の天狗さんの住居らしいので、守護霊さんと相談の上で、一つ訪問する事にしました。僕はお宮の前に立って拍手を打って、「こちらは富士の御山に棲われる、天狗さんのお住居ではありませんか?」と訊いてみたのです。が内部はひっそり閑として、何の音沙汰もない。
 「はて、これは違ったかしら……。」僕達が小声でそんなことを言っていると、俄かにむこうの方でとてつもない大きな音がする。何かと思って、びっくりして顔を見合わせている間に、何時何所をどう入ったものか、お宮の内部には、何やらがさこそと人の気配がします。
 「矢張り天狗さんが戻って来たのだな。今の大きな物音も、たしかにこの天狗さんが立てたに相違ない……。」

 僕はそんなことを思いながら、そっと内部をのぞいて見ると、果して一人の白髯を生やした、立派な天狗さんが、堂々と坐り込んでいました。その服装ですか……衣服は赤煉瓦色で、それに紫の紐がついており、下には袴のようなものを穿いていました。いうまでもなく、手には羽団扇を持っていました。