「あれもやはり地上の人が、例の筆法で、面白く作り上げたものなのです。新婚の若い男女が、初めて同棲することになった当座は、たれしも万事をよそに、ひたすら相愛のうれしい夢に耽ります。これは肉体の悩みを知らぬ霊の世界ほど、一段とその感じが強いともいえます。が、恋愛のみが生活のすべてでないことは、こちらの世界も、人間の世界も何の相違もありませぬ。
 女性としては、もちろんいつまでもいつまでも、良人の愛にひたり切っていたいのは山々であるが、男性はそうしてのみも居られませぬ。こちらの世界の男子として何より大切なのは、外の世界の調査探究――それがつまりこちらの世界の学問であり修行であるのです。わたくしの良人も、つまりそのために、まもなく龍宮を後に、遠き修行の旅に出かけることになられました。
 もちろんそれはただ新婚の際に限ったことではありません。その後も絶えずそうした仕事を繰り返しておられます。そうした門出を送る妻の身は、いつも言い知れぬさびしい、さびしい感じに打たれ、熱い涙がとめどもなく滲みでるもので、それが女性のまことというものでしょう。私とてどんなに泣かされたか知れませぬ。
 いかに引きとめても、引きとめられぬ男の心……別れのつらさ、悲しさは、全く何物にもたとえられぬように思いますが、しかしその中に時節が来れば、良人は再び溢れる愛情を湛えて妻の懐に戻ってまいります。会っては離れ、離れてはまた会うところに、夫婦生活の面白い綾模様が織り出されるのです。
 私の良人は、もともと龍宮の世界のもので、従って他の故郷などあろう筈がありませぬ。あれはただ人間が、そういう事にして、別れる時の悲しい気分を匂わせたまでのものです。まんざら根拠のない事でもありませぬが、しかし事実とはよほど違います。一口にいうと、大へんに人間臭くなっていると申しましょうか……。」

 こんな話をされる時の乙姫様の表情は、実に活き活きとしていて、悲しい物語りをされる時には、深い愁いの雲がこもり、うれしい時には、またいかにも晴れ晴れとした面持ちになられるので、そのすぐ前で耳を傾けている二人の感動は、とても深いものがあるのでした。

 「そんなものですかなぁ」と、新樹は生前の癖で、両腕を胸に組みながら感歎の声を放ちました。
 「とにかく僕はそのお話で、ようやく幾分か疑問が解けたように思います。人間は物質世界の居住者、それが龍宮世界の居住者と同棲するという事は、どうしても道理に合いませんからね……。つまり彦火々出見命さまは、現在でも依然こちらの龍宮世界に御活動遊ばされているわけなのですな……。」
 「もちろん引き続いて、こちらで御修行をつまれたり、日本国の御守護を遊ばされたりしておられます。」
 「古事記には、豊玉姫様のお産の模様が書いてありますが、あれはどんなものですか、やはり人間の大衆文芸式の想像譚でありますか?」
 「あれだけは、不思議によく事実に合っております。身二つになるということは、こちらの世界でもやはり女性の大役、その際には、自然龍体を表わし、たったひとりで、巌窟の内部のような所で子供を生み落すのです。しかしそれが済んでしまえば、龍体は消えて、再び元の丸い球になります。」
 「赤ン坊にお乳をのませるというような事は……。」
 「そんな事は絶対にありません。生れた子供はすぐ独立して、母親や指導者の保護の下に修行をはじめるのです……。」
 「そうしますと、龍神の世界には、一家団欒の楽しみというようなものは無いのですね。」
 「無いことはないが、人間のように親子夫婦が、一つの家に同居するというような事はないのです。思えばすぐ通ずる自由な世界に、同居の必要がどこにありましょう。あなたも早くこちらの世界の生活に慣れるように努めてください。無理もないことであるが、まだどうやらあなたは、地上の生活が恋しいように見えます……。」
 「全く仰せの通りで……」と新樹はいささか沈んだ面持ちで、「僕にはまだ、こちらの世界の生活が、しっくり身につかないで仕方がないのです。今日初めて龍宮へ連れて来ていただいても、何となしに現実味にとぼしく、これが果してほんものかと思われてならないのです。立派な建築を見ても、それが何となく軽く、何となくどっしりと落ち着いた気分がしない。何やら不安、何やら物足りないように思われるのです。いつになったら、僕に真の心の落ち着きができましょうか?」
 「月日が重なるにつれ、修行が加わるにつれ、心の落ち着きは自然とできてきます」と乙姫様はやさしく新樹を労わってくださるのでした。
 「あなたが龍宮で学ぶべき事は沢山ある。気兼ねせず、いつでも尋ねて来られるがよい。決して悪いようには計らわぬほどに……。が、初めての訪問でもあるし、今日は二人ともこの辺で引取ったらよいでしょう……。」

 二人ははっとして恭しくお辞儀をしたが、再び頭を上げた時には、いつしか乙姫様の姿は室内から消えてしまっていたのでした。