私達の対話はそれでちょっと中断しましたが、しばらくして新樹の方から切り出しました。
 「実はね、お父さん」と彼は割合に快活な語調で、「僕はあの時分、あんまりくさくさしたものですから、思い切って散歩に出てみたのです。ついでにその話をしましょうか?」
 「幽界の散歩――それは面白い。話して貰おう。」

 「こちらの散歩は現世の散歩とは大分気分が違います。僕はどこというあてもなく、あちらこちら歩いてみたのですが、いや何ともいえない、のんびりとした感じでした。行ったのは公園みたいな所ですが、少しもせせこましいところがなく、見渡すかぎり広々としていて、そして一面にきれいな花が咲いている。それらの花の中には、生前ただの一度も、見たことのないようなのもありました。その色がいかにも冴えざえしていて、地上の花とはどことなく違うのです。で、幽界の花にもやはり根があるかしら・・・・・・僕はそう思ったので、一本の花を手でいじってみましたが、根はやはり張っているものらしく、なかなか抜けませんでした。」
 「面白いね、どうも………。お前はその花を摘んでみなかったのか?」
 「いや摘んでみました。そしてそれを自分の部屋に持って帰って花瓶に挿し、幽界の花がどう現世の花と違うのかを調べてみたのです。僕たちの世界には昼夜の区別がなく、従って日数を申上げるわけにはまいりませんが、花瓶の花は別に水をやらなくてもいつまでも萎れないのです。ちゃーんと立派に咲き匂っているのです。そこが地上の花とは大いに違う点ですね。どうも僕が花を忘れずにいる間は、花はいつまでも保存されていたように思いますね。そのうちに、僕はいつしか花のことを忘れてしまいました。ふと気がついて見た時には、もう花は消え失せていました。僕にはそれが不思議でなりません。あの花はいったい何所へ行ってしまったのでしょう・・・・・・。」
 「さあ私にもわからんね、幽界の花の行方は………。とにかくそいつは大変面白い研究だった。花を摘む時の具合は地上の花を摘むのと同じだったか?」
 「同じでした。茎がぽつんと切れる具合が、少しも変わりませんでした。」

 「ところで、お前が行ったその広い公園には誰も人が行っていかったか?」
 「最初は誰も見かけませんでした。僕一人で公園全体を占領したようなもので、実にのびのびした良い気持でした。第一、いくら歩いても暑くもなければ、寒くもなく、また少しも疲労を感じないのですからね。そうするうちにふと、僕の歩いている背後から二人連れの男女がやってきました。男は二十二三、女は十七八で、どちらも日本人です。僕が言葉をかけようかと思っているうちに、二人はツーツーと向こうへ行ってしまい、ろくに顔を見る暇もありませんでした。僕は何だか少しあっけなく感じたので、今度誰か来たら話しかけてみようと思いました。幸いにそこに一脚のベンチがあったので、僕はそれに腰をおろして、人の来るのを待ちました。するとしばらくして、十五六の男の子が出てきました。僕は非常にうれしかったものですから、ちょうど生前やったようにその子供に話しかけました。子供の方でも喜びましたが、しかしよほどびっくりしたものとみえ、何とも返事をしないのです。その子は可愛い洋服を着て、半ズボンを穿いていました。しばらく僕の傍に腰をかけているうちに、ようやく話しをするようになりました。いつ幽界へ来たのかと訊いたら、もう随分以前に僕は死んだのです、と言っていました。よほどの家柄の生まれらしく、なかなか品位のある子でした。僕は、ここでまた逢うからそのうちに出てきなさい、と言っておきました。さようなら、と言いも終わらぬうちにその子の姿は消えました。そんなところは非常にあっけなく、なんだかちょっと頼りないのが幽界の生活の実情です。慣れないせいかもしれませんが、僕にはまだまだ地上の生活の方がなつかしいです。現に地上の人たちは僕の一周忌を忘れもせずに、大勢集まって懇ろに追悼会などを催してくれるのですからね………。」

 新樹がまたしめりがちになりそうな様子なので、私は急いで話題を他に転じ、数分間よもやま話を交わしてその日の座を閉じたのでした。