精神統一・・・・・・・これは現世生活において何より大切な修行で、その人の真価はだいたいこれで決められるようであります。五感の刺激のまにまに、気分の向かうまにまに、あちらの花にあこがれ、こちらの蝶に戯れ、少しもしんみりとして落ちついたところがなかった日には、五十年や七十年の短かい一生は、ただ一場の夢と消え失せてしまいます。人間界の気のきいた仕事で、何か精神統一の結果でないものがあるでしょうか。
 しかし、物質的現世では統一に一心不乱にならなくとも、なんとかその日その日を暮らせます。ところが、一たん肉体を棄てて幽界の住民になりますと、すべての基礎を精神統一の上におかなければ到底収まりがつかぬようです。
 新たに幽界へ来たものが、通例何よりも苦しめられるのは、現世への執着であり、煩悩であり、それが心の闇となって一寸先も判らないようであります。地上の闇ならば、これを照らすべき電燈も、瓦斯燈もありますが、幽界へ来たものの心の闇を照らすべき灯火は一つもありません。心それ自身が明るくなるより外に、幽界生活を楽しく明るくすべき何物もないのであります。
 そこで精神統一の修行が何よも大切になるのであります。一切の雑念や妄想を払いのけ、じっと内面の世界に入り込み、表面にこびりついた汚れと垢とから離脱すべく一心不乱に努力する。それを繰り返し繰り返しやっている中に、だんだんまわりが明るくなり、だんだん幽界生活がしのぎ易いものになる。これよりほかに絶対に幽界で生きる途はないようです。
 昭和5年2月の16日、新樹はそれについて次のように述べています。――

 「僕が最初にこちらで自覚した時に、指導役のお爺さんから真っ先に教えられたのは、精神統一の必要なことでした。それをしなければ、いつまで経っても決して上へは進めないぞ!――そう言われましたので、僕は引き続いてそれに力をつくしています。
 その気持ですか……僕、生きている時には全く精神統一の稽古などをしなかったので、詳しい比較を申し上げることはできませんが、一口にいうと、何も思わない状態です。いくらか眠っているのと似ていますが、ずっと奥の奥の方で自覚しているようなのが少し睡眠とは違いますね。僕なんかは現在、こちらでそうしている時の方がはるかに多いです。
 最初はそうしている際にお父さんから呼ばれると、ちょうど寝ぼけている時に呼ばれたように、びっくりしたものですが、近頃ではもうそんなことはありません。お父さんが僕のことを想ってくだされば、それはすぐこちらに感じます。それだけ幾らか進歩したのでしょうかしら………。
 この間お母さんの守護霊さんに逢った時、あなたもやはり最初は現世のことが思い切れないでお困りでしたか、と訊いてみました。すると守護霊さんもやはりそうだったそうで、そんな場合には、これはいけないと自分で自分を叱りつけ、精神を統一して神さまにお願いするのだと教えてくれました。
 守護霊さんは閑静な山で精神統一の修行を積まれたそうですが、僕はやはり自分の部屋が一番いいです。だんだん稽古したおかげで、近頃僕は執着を払いのけることが少しは上手になりました。若しひょっと雑念が出てくれば、その瞬間一生懸命になって先ず神さんにお願いします。すると忽ち、ぱらっとした良い気分になります。
 またこちらでは精神統一を、ただ執着や煩悩を払うことにのみ使うのではありません。僕たち常に統一の状態で仕事にかかるのです。通信、調査、読書、訪問・・・・・・・なに一つとして統一の産物でないものはありません。統一がよくできるかできないで、僕たちの幽界における相場がきまります………。」 

 以上はやっとの思いで幽界生活に慣れかけた一青年の告白として、幼稚な点が多いのは仕方がありませんが、少しは参考になるような箇所がないでもないように感じられます。