さて、これから新樹の通信を発表することになりますが、この仕事についてすべての責任がある私としては、通信者が果して本人に相違ないかどうかをまず最初に読者にお伝えするのが順序であると考えます。この点に関して充分の考慮が払われていなければ、結局は新樹の通信といってもそれは名ばかりのもので、心霊事実としては、まったくとるに足らないものになってしまいます。非才とはいえ私も心霊研究者の末席に連なる者として、この点については常に、できる限りの注意を払っているのであります。
 すでに述べたとおり、真っ先に新樹の霊を呼び出したのは彼の叔父で、そしてこの目的に使われたのは中西霊媒でした。私は多大の興味を以て、この実験に対する常事者の感想を聞いてみました。するとその答えはこうでした。――

 「あれなら先ず申し分がないと思う。本人のことば、態度、気分等の約六割ぐらいは彷彿として現われていた。自分は前後ただ二回しか呼び出していないが、もしも今後、五度、十度と回数を重ねていったら、きっと本人の個性がもっとはっきり現われてくるに違いないと思う・・・・・・。」

 比較的公平な立場にある、そして霊媒現象に対して相当な懐疑的態度をもっている人物のことばとして、これはある程度、敬意を払うべき価値はあると思われます。
 私自身が審判者となって、中西女史を通じて初めて新樹を呼び出したのは、それから約一か月経った4月の9日でした。その時は幽明を隔てて最初の挨拶を交わしただけで、特にお伝えできるような内容はありませんでしたが、ただ全体からみて、なるほど生前の新樹そっくりだという感じを私に与えたのは事実でした。
 しかし、研究者の立場からみれば、それは確証的なものではありませんでした。私は焦りました。「なんとかして確実な証拠を早くみつけたいものだ。それにはただ一人の霊媒にかけるだけではいけない。少なくとも二、三人の霊媒にかけて対照的に真偽を確かめるよりほかに道はない・・・・・・。」
 そうするうちに新樹は一度粕川女史にかかり、続いて7月の中旬から彼の母にかかって、間断なく通信を送ってくるようになりました。「これで道具立てはようやく揃いはじめた。そのうち何とかなるだろう・・・・・」――そう考えて私はしきりに機会を待ちました。
 月が8月に入って、ようやくその狙っていた機会がやってきました。同月10日午前のことですが、新樹は母の体にかかり、約一時間にわたって、死後の体験談を伝えてきました。それが終わりに近づいた時、私はふと思いついて、彼に向かって一つの宿題を出したのです。――

 「幽界にも伊勢神宮は必ず存在するはずだ。次回にはひとつ伊勢神宮を参拝してその感想を報告してもらいたいのだが………。」
 「承知しました、できたらやってみましょう・・・・・・。」

 するとその翌日、中西女史が上京してきました。私はこの絶好の機会を捉え、すぐに新樹の霊魂を同女史の体に呼んで、前日に彼の母を通じて出しておいた宿題の回答を求めました。「昨日鶴見で一つ宿題を出しておいたはずだが………。」
 そう言うと新樹はすぐに中西霊媒の口を使って答えました。――

 「ああ、あの伊勢神宮参拝ですか………。僕は早速参拝してきましたよ。僕は生前に一度も伊勢神宮参拝をしたことがありませんでしたから、地上の伊勢神宮と幽界の伊勢神宮とを比較してお話しすることはできませんが、どうもこちらの様子は大分勝手が違うように思いますね。絵で見ると地上の伊勢神宮にはいろいろな建物があるようですが、こちらの伊勢神宮は、森々とした大木の茂みのなかに、ごく質素な白木のお宮がただ一つ建っているだけでした………。」

 彼はこれに附け加えてその際の詳しい話をしてくれました。こまかい話は他の機会に紹介することにしますが、ここで見過ごしてならないのは、彼の母を通じて出された宿題に対して、彼がその翌日中西霊媒を通じて解答を示したことでした。
 「先ずこれで一つの有力な手懸りが掴めた」と私は喜びました。「思想伝達説を持ち出して強いて難癖をつければつけられないこともないが、それは死後個性の存続説を否定しようとつとめる学者たちの頭脳からひねり出された一つの仮定説にすぎない。私は難癖をつけるための難癖屋にはならないようにしよう。多くの識者の中には、おそらく私の態度に賛同される方もおられるであろう………。」
 翌日12日の午前、私は鶴見の自宅で、今度は妻を通じて新樹を呼び出しました。

 「昨日中西さんに懸ってきたのはお前に間違いないか?」
 「僕です……。あの人は大変かかり易い霊媒ですね、こちらの考えが非常に速く通じますね。」
 「もう一度お前のお母さんの体を使って、伊勢神宮参拝の話をしてくれないか、少しは模様が違うかもしれない。」
 「それは少しは違いますよ。こうした仕事には霊媒の個性の匂いといったようなものが多少は付け加えられ、そのために自然に自分の考えとぴったり合わないようなところも出てきます。お母さんの体はまだあまり使い易くはありませんが、やはりこの方が僕の考えとしっくり合っているようです。もっとも、僕の考えていることで細かいところは、途中でよく立ち消えになりますがね……。」

 こんなことを言いながら彼は伊勢神宮参拝の話を繰り返したのですが、彼の母を通じての参拝の話と中西霊媒と通じての参拝の話との間には、長さや細かさの差があるだけで、その内容はまったく同じでした。
 彼が一度粕川女史に懸ろうとしたことも事実のようでした。8月4日午前、彼は母の体を通じて、問わず語りにつぎのようなことを話しました。――

 「僕は一度あのご婦人……粕川さんという方に懸ろうとしました。折角お父さんがそう言われるものですから……。けれどもあの方の守護霊が体を貸すことを嫌がっているので、僕は使いにくくて仕方がなかった………。僕、たった一度しかあの人にはかかりませんでした………。」

 新樹と交信を始めた当初は、手懸りになったのは先ずこんな程度のものでしたが、幸いにもその後、東茂世女史の霊媒能力が次第に発達するにつれて、確実な証拠や材料がつぎつぎに積み重ねられていきましたので、現在においては、果して本人に相違ないかどうかといったような疑念を挟む余地はもはや全くなくなりました。
 東女史の愛児・相凞さんと新樹は、近頃あちらで大変親しく交遊しており、一方に通じたことはすぐに他方にも通じます。そして幽界での二人の生活状態は双方の母たちの霊眼に映り、また双方の母たちの口を通じてくわしく伝えられます。ですから、たとえ地上の人間の存在が疑われるようなことがあっても、幽界の子供たちの存在は到底疑うことができないのであります。
 こうした次第で、私も妻もこれを新樹からの通信として発表することには少しの疑問も感じませんが、ただその通信内容の価値については、これをあまりに過大評価されないことをくれぐれも切望してやみません。発信者は幽界のほんの新参者ですし、受信者は心霊通信のほんの未熟者で、到底満足な大通信ができるはずはありません。せいぜいあの世とこの世との通信のひとつの見本とみなしていただければ結構で、真の新樹の通信は、これを今後五年十年の後に期待していただきたいのであります。