古峰ヶ原は勝道上人という方の修行の場となったようです。勝道上人は地元栃木の出身で、782年47歳の時に日光山登頂に成功し日光を拓いたと言われるお坊さんです。天台宗や華厳宗の流れを汲んだ修行を重ねられていたと伝わります。この方が日光開山まえの3年の修行を古峰ヶ原で行いました。その後これに倣った僧や修験者の日光入山宿坊となり「天狗の社」古峰神社(奥院)としての名を広めたということです。
江戸時代には天狗使いの前鬼石原隼人、後鬼石原水主(分家)として名を馳せ古峰ヶ原隼人坊とか日光隼人坊として、関東東北の大天狗として鞍馬山・愛宕山・秋葉山などと同様に著名であったとされます。
江戸時代、日光に東照宮を建設する際、日光山にいる数万ともいわれる天狗たちが騒がない様、一時退去させるということがあったと言います。その際に幕府側書面に連名したのが古峰ヶ原隼人だったということです。数万の日光天狗を相手に納得させるほどの大きなチカラを持っていたことは想像に難くありませんね。日光一帯の世界遺産の中核となった東照宮の建設はこのようなことがあって実現したのですね。
日光には日光山東光坊(ニッコウザントウコウボウ 栃木県日光山)や後に妙義山に移った妙義山日光坊(ミョウギザンニッコウボウ 群馬県妙義山)などの大天狗が名を連ねますが、古峰ヶ原の大天狗は独別な位置にあったと言えそうです。