道慈(?~七四四)は奈良時代を代表する学問僧。粟田真人(あわたのまひと)を大使とする第八次遣唐使の一員として大宝二年(七〇二)に入唐を果たし、長安の西明寺に止住して広く経典を学んで、特に三論宗の精通したという。養老二年(七一八)の帰朝に際しては、漢訳されて間もない『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』を請来しており、同経典は天平十三年(七四一)の勅によって諸国に設置された国分寺の思想的裏付けともなった。さらに大安寺の平城京への移建、護国の法会として重視された大般若会(だいはんにゃえ)の勅会化、後の菩提僊那(ぼだいせんな)や鑑真(がんじん)の来朝につながる戒師招請計画を推進するなど、奈良時代の国家仏教建設に多大な役割を果たし、天平元年(七二九)には律師に任じられている。本品は、道慈の出身氏族である額田氏(ぬかたし)の氏寺・額安寺(がくあんじ)に、聖徳太子摂政像と対幅の形で伝来した。当時の供養願文に依れば、道慈は虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)を本尊とし、寺号を額田寺から額安寺に改めた人物とされている。

 

善議は、729-812 奈良-平安時代前期の僧。天平(てんぴょう)元年生まれ。大安寺の道慈に三論をまなび,唐(とう)(中国)にわたる。帰国後は大安寺の僧として三論宗をひろめ,法将とよばれた。弘仁(こうにん)3年8月23日死去。84歳。河内(かわち)(大阪府)出身。俗姓は慧(恵)賀。

 

 

勤操僧都は三論宗の高僧にして、弘法大師の師として知らる。俗姓は秦氏、大和の人、大安寺の信礼に教を受け、東大寺の善議に三論を学ぶ。弘仁元年大極殿の最勝会に座主となり僧都に任ぜらる。淳和天皇の時、西寺を掌る。天長三年大僧都に進む、翌年五月七日、西寺の北院に寂す、歳七十なり

 

勤操(ごんそう・ごんぞう、天平勝宝6年(754年) - 天長4年5月8日(827年6月25日))は、奈良時代後期から平安時代前期にかけての三論宗の僧。俗姓は秦氏。大和国高市郡の出身。石淵上人・石淵僧正とも称される。

大安寺で信霊・善議に三論教学を学び、千僧度者に選ばれた。比叡山根本中堂の落慶供養の際には堂達をつとめ、796年(延暦15年)同門であった栄好の追善のために高円山(たかまどやま)の麓の石淵寺で法華八講を創始した。813年(弘仁4年)大極殿最勝講で法相宗義を論破し律師に任じられた。弘福寺(川原寺)別当や当時造営中であった西寺の別当を歴任して826年(天長3年)大僧都に至った。当時の日本では新しい宗義であった最澄の天台宗・空海の真言宗とも交流を持ち、最澄・空海から灌頂をうけたほか、没後作成された勤操御影に空海が賛を入れたとも伝えられている。没後には僧正位が追贈された。