シャンバラとは元々はヒンドゥー教の理想郷の概念で、最高神の一つであるヴィシュヌ神の10番目の化身であるカルキが治める国と されていました。カルキは「永遠の時」、「汚辱を浄化するもの」 の二つの意味があり、シャンバラはその二つを同時に体現する場所 としてイメージされていました。このヒンドゥーの概念がチベット 仏教に受け継がれ、チベットでポタラ宮の地下深くにシャンバラへの門があるといった伝説が生み出されます。

 17世紀の前半にステファノ・キャセラ、ヨハネス・カブラルとい う二人のイエズス会士がブータンからヒマラヤを越えて中国に入る ルートを探している際、シャンバラの話を耳にします。そして二人 は、目的を変更してシャンバラ探しをはじめます。どこで聞いたのか、シャンバラへと通じるソグポという場所があるという話を信じ、 チベットの奥深くに分け入りますが、彼らは結局それ以上の手がかりを得ることはできずに帰国します。彼らは教会の本部にシャンバラの情報を報告し、それが一般にも伝わって、神秘主義者を中心にシャンバラへの関心が高まっていきました。

 1920年代には、ロシアの神智学者ニコラス・レーリッヒが本格的な探検隊を組織してチベットに入ります。レーリッヒは、「シャンバラの境界を示す三つの標識のうちの一つを発見した」と報告しま すが、結局シャンバラに至ることはできずに探検隊を解散します。

 1930年代には、テオドール・イリオンというドイツの探検家がチベットに入り、3年あまりチベット各地を踏査したと自称して、その記録を"In Secret Tibet"、"Darkness Over Tibet"という二冊に著しました(この二冊を合本した『チベット永遠の書』が林陽訳で 徳間書店から出版されています)。このイリオンの著作は、神秘主義に傾倒していたヒトラーにも影響を与え、ナチスが執拗にチベッ ト探検を行うきっかけになったとも伝えられています。

 日本にも典型的なシャンバラ幻想があります。京都の鞍馬山にチベットのシャンバラと繋がる入り口があるというのです。鞍馬山全体を寺域とする鞍馬寺は日本の寺の中でも、とくにマジカルな伝承の多いところです。古くは幼い源義経がこの寺に入れられ、天狗から武術を習ったと伝えられ、奥州藤原の隠密のような存在だった金売吉次に案内されて平泉に入り、そこで成人して平家討伐の兵を挙げました。また、独自の僧兵を組織して、歴代の幕府も迂闊には手を出せない独立権を持っていました。

 本尊は500万年前に金星から地球に渡来した「サナート・クマラ」 と伝えられ、鞍馬山南腹にある本殿から山道を辿った北の山奥にこれを祀る魔王殿が置かれています。他の惑星からやってきた魔王という設定は、キリスト教世界の悪魔ルシファーを連想させます。ルシファーはラテン語で「明けの明星」の意味であり、太古の自然信仰では神として崇められていました。キリスト教では太古の自然信仰の神々を「悪魔」として貶め、その信仰の場所に教会を設置した例が多いと以前にも紹介しました。日本でも同様に、蝦夷や出雲の信仰が大和朝廷により迫害され、古い信仰の場所が大和朝廷に関連する神社に置き換えられるという例が多々あります。それを考える と、鞍馬山が明らかな太古の信仰をそのまま維持し、堂々と宣言しているのは稀有な例といえるでしょう。じつは、そのあたりは京都創建の歴史と深い関わりがあります。

 鞍馬寺では、毎年五月の満月の夜に「ウエサクサイ」という儀式が行われます。これは、鞍馬山の聖池から汲んだ水を器にいただき、 満月を写しだすその聖水をいただくことで不老長生を願うというも のです。ウエサクサイは東南アジアの仏教圏では比較的ポピュラーなものですが、鞍馬寺では、この時、同じくウエサクサイを開くチベットの山奥にある寺との間に通路が開かれ、それがシャンバラに繋がるとされています。