インドシナ半島では、14世紀後半メナム川下流にタイ人のアユタヤ朝(1351〜1767)が建国された。ミャンマーでは最初の統一王朝であるパガン朝が1287年に元朝の侵入をうけて滅亡したあと、しばらく分裂状態が続いた。しだいにミャンマー人の勢力が強大となり、16世紀にミャンマー人がトゥングー朝(タウングー王朝 1531〜1752)をたてた。

 

 

アユタヤ朝とトゥングー朝はともに仏教国として栄えるとともに、港市国家として発展してきたアユタヤ朝は16世紀末には南シナ海とベンガル湾との通商ルートの結節点に位置する地の利を生かした国際的な中継港として知られるようになり、またトゥングー朝も農業と海上貿易によって繁栄した。四川・雲南地方にいたタイ人は、8世紀ころからしだいにインドシナ半島へ南下し、クメール人のカンボジア(真臘)に従属していたが、13世紀のモンゴル人による雲南地方への侵入でタイ人の南下がさらに活発となり、カンボジアが衰えるとこれを破って自立し、スコータイ朝(1257頃〜1438頃)をたてた。

 

 

第3代国王ラームカムヘーン(ラーマカムヘン 位1275〜1317)の時が全盛期で、王はタイ文字を制定し、上座部仏教をとりいれ、その勢力はマレー半島までおよんだ。しかし王の死後は急速に衰え、メナム川下流にタイ人のアユタヤ朝(1351〜1767)が建国されると、しだいに勢力を奪われた。アユタヤ朝は上座部仏教国として栄え、日本人の山田長政が活躍したことで知られるが、18世紀になるとミャンマーのコンバウン朝の侵入をうけて滅んだ。

コンバウン朝が清と争っている間に、アユタヤ朝滅亡後の混乱を収拾したチャオプラヤー・チャクリ(ラーマ1世 位1782〜1809)は、1782年バンコクを首都としたラタナコーシン朝(チャクリー朝)を建国した。その後19世紀半ば以降、イギリスやフランスの圧迫をうけつつも独立を保ち、1932年に立憲王国となって現在にいたっている。