《孟子・万章上》には、”禹は舜の子を陽城で避ける。”とあり、《古本竹書紀年》には、”禹は陽城に住んだ。”と、《史記・夏本記》にも、”禹は舜の子商均を陽城で辞して避ける。”とあります。帝舜の在位三十三年で天子の位を正式に禹に譲りました。十七年後、舜は南巡中に逝去しました。三年の喪が明けると禹は夏の地の小さな城である陽城を避けて帝位を舜の子商均に譲りました。しかし、天下の諸侯は皆商均から離れ、禹に恭順しました。諸侯の見守る中で禹は正式に即位し、陽城を居城にして国号を夏にしました。その後丹朱を唐に、商均を虞にそれぞれ封じました。歴を夏歴に改訂し、寅の月を正月に定めました。《説苑》には、大禹に関して以下のように記述されています。”入り口の階段が三段しかないような小さな宮室で、飲食は貧しく、衣裳も粗末なものであった。”禹の在位十年で会稽に至った後に逝去しました。皇甫謐は禹の享年を百歳前後と見積もっています。禹の亡き後はその息子である啓が夏王朝の天子の位を継承しました。禹は塗山氏の女嬌と結婚してすぐに妻子と離れ治水に没頭しました。その後は家の門の前に行き、妻子の立てる声、赤ちゃんの泣き声などを聞いても治水のことが頭から離れず、そのまま家の門から立ち去り再び治水の現場に戻っていきました。これを三度繰り返したとき、母親に抱きかかえられていた子供が禹を見ると覚えたてのお父さん、という言葉を叫び手を伸ばしました。しかし、禹は妻子に向けて手を振り自分の姿を見せただけで家に中に入ることはなく、再び治水現場へと向かいました。禹の息子は啓と言い、その誕生には別の不思議な逸話もあります。それは、禹が、妻を同行して黄河の治水を行っていました。禹は、水を通そうとして、ある山を掘ろうとしましたが、その山があまりにも険しかったため、熊の姿に変わり、その鋭い爪で猛烈に土をかき分けました。その姿を偶然にも妻に見られ、妻は怯えて逃げ出しました。禹は誤解を解こうと追いかけましたが、熊の姿のままで追いかけたため、妻は止まるどころか逃げ続け、遂には嵩山に到り、そこで岩になってしまいました。それを見て禹は、岩に向かって、私の子供を返せ、と叫びました。その時妻は妊娠していたのです。すると、岩から赤ちゃんが出てきました。この赤ちゃんが啓でした。夏王朝が建国された後、大禹は陽城の東南の塗山に諸侯を招き、自分の過失について検討しました。この時の塗山の会は中国の夏王朝建国の象徴となるでき事と言われています。塗山の会の日に大禹は法服を着て手には黒い玉でできた札を持って台の上に立ち、諸侯を自分たちの国土の方角になるように二面に分けました。諸侯たちは大禹に対して頭を地まで近づけて行う稽首(けいしゅ)の礼を行い、大禹もまた台の上から稽首で返答しました。

礼を行った後、夏禹は大声でこう言いました。”私の徳は低く、皆様が服するに足りません。皆様をお呼びしてこの大会を行うことは、皆様に規律や責務など私に知ってほしいことや直して欲しいことなどをお伺いするためです。私は身を粉にして治水を行いましたがまだまだ微力であったと言わざるを得ません。常日頃より最も恐れている戒めは驕りです。先代の帝たちはよく私にこう言いました。汝が偉ぶらなければ天下に汝と争うものはなく、汝が征伐しなければ天下に汝と功を争うものはない。もし私に驕りや傲慢さ自惚れなどが有ったらどうか皆様私にお知らせください。さもなければ私に不仁を教えてください。皆様に対して私はよく耳を洗い謹んでお聞きいたします。”言い終わると諸侯たちは皆禹が天命を受けていることを理解し、大禹のこの謙虚な態度を見て重ねて敬意を払うようになり、これまで持っていた大禹への疑念が消え去りました。この出来事が史書に記載されている”禹が塗山で諸侯に会い、玉帛(ぎょくはく:贈り物などに用いた玉と絹)を執る者が万国である。”の出来事です。塗山大会の後、諸侯たちが敬意を表するために陽城に青銅を献じに来ました。その後、九州から献上される銅は年を追うごとに多くなったため、大禹は黄帝軒轅が鋳造した鼎に倣い塗山大会を記念して各諸侯が献上した青銅を使って大きな鼎を鋳造しました。鼎は九州ごとに全部で九つ完成し、それぞれ冀州鼎、兖州鼎、青州鼎、徐州鼎、揚州鼎、荊州鼎、豫州鼎、梁州鼎、雍州鼎と言い、鼎上には各州の山川名物、禽異獣が彫られていました。九鼎は九州を平定した象徴であり、その中で豫州鼎が中央の大鼎でした。九鼎は夏王朝の都である陽城に集められ、大禹が九州の主となったことを示し、これにより天下は統一されました。これ以降九鼎は代々受け継がれて王権と国家統一の象徴とされました。夏王朝が滅びた後、商の湯王により夏王室の姒姓であった貴族を杞国に封じ、禹など夏王朝の先祖を祭りました。周の武王が商を滅ぼし王となった後、禹の後裔の東楼公を杞の地に封じて祭祀を継続させました。この大禹王の祭祀は国家の祭祀となりました。紀元前210年には秦の始皇帝が会稽で禹を祀りました。西暦960年には宋の太祖が禹陵の保護を命じるとともに、正式に国家の祭典として禹を祀るようになりました。明や清の時代になっても禹は祀られ続けて、この時代には儀式と制度が最も発展しています。また、清の康熙帝と乾隆帝は、会稽があったと言われている紹興に赴いて禹を祀っています。

 

 

道教中では禹は水官大帝とされており、十月十五日の下元節に生まれたとされています。禹王碑は湖南省の長沙の岳麓山麓にあります。山間にある蒼紫色の石壁の上の蟒蛇洞南面にたたずんでおり、碑文には大禹が父親である鯀の治水を引きつぎ、”七年聞楽不聴、三過家門不入”の美談や洪水を見事に治めた治水の功績が刻まれています。