ヴィシュヴァカルマンは、インド神話においてあらゆるものを設計したといわれる神。その意味はサンスクリット語で「全てをなすもの」「全知であるもの」である。仏典では毘首羯摩天・自在天王・工巧天・巧妙天などと漢訳されている。ヴィシュヴァカルマとも呼ばれる。 彼の娘サンジュニャーは太陽神スーリャ(あるいはヴィヴァスヴァット)の妻。 『リグ・ヴェーダ』では、あらゆる方角に眼、顔、手、足を持ち、天地を創造した唯一にして万能の神と述べられているが、後の文献ではもっぱら工匠神として活躍する。彼は太陽神スーリャ(ヴィヴァスヴァットとも)の光を削り取って神々の武器を作り出したとされる。また『ラーマーヤナ』では羅刹族の居城であるランカー島の都市の建設はヴィシュヴァカルマンの仕事であり、その壮麗さが繰り返し述べられ、クベーラ神に与えられ、後に羅刹王ラーヴァナの手に落ちた天を翔る戦車プシュパカ・ラタや、聖仙アガステャから英雄ラーマに授けられた黄金弓ブラフマダッタもヴィシュヴァカルマンの作とされる。またティローッタマーはヴィシュヴァカルマンが創造した特別な天女という。 しばしば同様の性格を持つトヴァシュトリ神と混同される場合がある。 現在でも物造りや技術、機械の神様として、インドの各工場で祀られている。.

 

 

清凉寺は「源氏物語」の光源氏が造営した「嵯峨の御堂」に目される寺院です。それは清凉寺の本尊釈迦如来像が古来より多くの人々に信仰を集めてきたことに由来しています。

そのことはまた、「如来二伝のおんかたみのむつまじさに、嵯峨の清凉寺にもうでて……」の序文に始まる増鏡や、宝物集・謡曲百万にかたられていることからもうかがえます。本尊釈迦如来は、古来釈尊37歳の生身のお姿を伝えた霊像として厚く信仰をあつめています。この尊像を北宋より請来した(約千年前)開祖東大寺の奝然法橋が、尊像内に謹封した五臓六腑・願文・経巻等々(すべて国宝)の発見により、まさに生身仏であることが実証されました。おん丈は等身大の檀像で顔貌・衣文の様式等、マツラ式に似たインド古式の様相を伝えています。この尊像の成立・中国への伝来・中国での尊崇については、奝然に随侍して入宋した盛算が開封で写した開宝寺永安院本の「優塡王所造栴檀釈迦瑞像歴記」(仏教全書遊方伝所収)に詳しく記されていますが、いまこの絵巻物には、更に尊像の日本請来・清凉寺建立・信仰と霊験の数々を加えて詳細に画き出しています。いま大要を述べますと、仏が忉利天宮へ母なる摩耶夫人のために法をときにのぼられたとき、仏によって大きな自覚をあたえられ、ともに生かされていた人々がよりどころを失い、なかでも優塡王や信者たちは、慈母に離れた子供のように寂しさにたえかねたので、王は名工毘首羯摩天に嘱して、栴檀の香木で仏の尊容を模したてまつらしめた。仏がお帰りになって自分と寸分ちがわぬ尊像を御覧になってよろこばれ、われ亡きのちは自分にかわって人々を済度すべきであると、みずから御開眼になったと伝えらています。のちに鳩摩羅琰三蔵がこの像を奉じてヒマラヤの嶮をこえて亀茲国に至り、次いで鳩摩羅什によって長安に伝えられ、更に南朝から隋唐をつうじて、楊州開元寺に奉安せられたが、唐が滅んでから一時南京にあり、北宋の統一になって都の開封にうつされ、奝然入宋のときは、帝室の廟寺である啓聖禅院に安置されていました。この歴記の内容につけ加えて、奝然は仏の真容を是非日本に伝えたいことを太宗にお願いし、香木を求め生身の釈迦の信仰から、五臓六腑等をも胎内に封じた模像を完成しました。ときに奝然の霊夢に仏がわれをともなって日本に渡れとの言葉とともに真仏と模像とが台座をかわられたといいます。かくて奝然は釈尊が親しく「摩頂開眼」せられた尊像を日本にお迎えすることが出来たのです。