神道者岡本天明さんも鈍感者の私(笠井)も、大正の中期に「心の底から」神様を拝むようになったのですが、両人をして神霊の実在に目醒めさせて下さった恩人こそ、外ならぬ浅野和三郎先生でした。先生は明治七年茨城県で生まれられました。この私(笠井)よりも二十年も年上です。

明治三十三年に東京帝国大学英文科卒業後は、横須賀海軍機関学校に英語担任教授として就任されました。極めて平穏無事な、というよりもむしろ、平凡すぎる三浦半島生活をエンジョイしていた。それが大正四年の春に至って、俄然破られることになった。三男三郎(当時九歳)の病気がその動機であった。詳しい事は省略するが、要するにこの子供の微熱がどう手をつくしても治りきらないことが原因で、浅野多慶夫人は三峰山の女行者に近づいたことが、その女の驚くべき透視能力を知るきっかけとなった。浅野はこの不可思議力に、なかんづく病児三郎の熱は十一月四日から出なくなるという予言に、大変興味を覚えてたので、実地調査のため、 横須賀市内米ヶ浜祖師堂付近にあるという女行者の居宅へ行ってみる気になった。さて、いよいよ探し当てて、孝信教会という看板のかかった平屋の格子戸をあけながら、かれは恥ずかしさを感ぜざるを得なかった。高名の英文学者が、その理由はどうあれ、こんな路地裏の女行者の家を訪問するのだ。取り次ぎの女に名刺を渡しながら来意を告げるとすぐ、床の間に神棚をしつらえた広い部屋へ通された。この家の主婦、つまり三つ峰山の行者石井ふゆさんは年の頃五十前後の、切下げ髪にした、色の黒い、鼻ぺちゃの女だった。お世辞にも上品とは言われない、無学らしい彼女としばらく問答してみて、浅野はこの女に霊能があることを確かめた。さっそく透視の実験をしたいと申し込むと、「はい、お安い御用で・・・」とすなおに受諾してくれた。第一回の実験は、自分のがま口の中に幾ら金が入っているか、浅野自身も知らぬその金額を透視してもらうことだった。女行者は長い読経の後にやっと頭を上げて言った。「一円のお金が二枚と、ほかに五十銭銀貨やら白銅やらごちゃごちゃ取り混ぜて、合計3円二十五銭・・・ちょっと調べて下さい」浅野はがま口をポケットから取り出し、中味をタタミの上にあけた。女信者たちもおもしろがって拾い上げて勘定してくれたが、金額も、紙幣や種類も的中した。その後おこなわれた数々の実験模様は省略するが、全部成功した。