饒速日命は、天忍穗耳尊の皇子なり。御母は、高皇産靈尊の御女・栲幡千々姫命にして、皇孫・瓊々杵尊、同母の御兄に坐します。皇孫・瓊々杵尊、天上(あまつくに)に於て、天位に即かせ給ひ、日向國なる襲の高千穗峯に天降り、天下に君臨し給ひし後[多く『紀』・『記』二典に採る]、饒速日命も、また皇祖天神の敕命に依り、天磐船に乘りて、河内國なる河上の哮峯に天降り、又た大倭國なる鳥見の白山に遷り住み給ふ。此の時、饒速日命、天磐船に乘りて、大虚空を翔行りつゝ、此の郷(くに)を巡り睨(み)て、天降り坐しゝに依りて、「虚空見つ日本國」と云へる國名は起りしとかや。

 斯くて其の天降り給ふ始め、皇祖天神より、饒速日命に、天つ璽(しるし)十種の瑞寶を授け、鎭魂の法を傳へ給ふ。其の十種の瑞寶は、即ち瀛都鏡・邊都鏡・八握劔・生玉・死反玉・足玉・道反玉・蛇比禮・蜂比禮・品物比禮の十種なり。また此の十種の瑞寶を用ひて、鎭魂を行はむ法は、苦しみ痛む處あらば、此の十種の瑞寶を合はせて、

ひとふたみよ いつむよなゝや こゝのたり    ふるべ ゆらゝゝと ふるべ
「一・二・三・四・五・六・七・八・九・十と謂ひて、布瑠部、由良由良止、布瑠部」此くなさば、死れる人も、返りて生きなむものぞ」と、教へ給ひけるとぞ。此れ鎭魂の法なり。

 是に於て饒速日命、此の國に降り給ひし後、常に此の法を修め[專ら『舊事本紀』の天孫本紀と天神本紀とを參考して、之を載す]、即ち離遊の運魂を招きて、身體の中府に鎭め、謂ゆる長生久視の道を得て、永く此の世に留まり給ひ[全く『令』の職員令の義解に採る]、長髓彦等を服從はしめて、大倭國を治め、遂に長髓彦が妹・三(御)炊屋媛を娶りて、可美眞手命を生ましめ給ふ[『舊事本紀』をも參考して記す]。然るに日向國に天降らせ給へる、皇孫・瓊々杵尊は、其の皇子・火々出見尊、其の皇子・鸕草葺不合尊、其の皇子・神日本磐余彦尊、即ち神武天皇まで、凡そ御四代を歴(へ)させ給ひ、帝都を日向國に定めて、天下を統御し給ひしが、神武天皇の御代に至りて、中洲(なかつくに)を平定し給ひ、大いに皇謨を擴充し給ふ[『紀』・『記』二典に依りて書く]。

 爰に神武天皇、御東征の皇軍、大倭國に逼りし時、長髓彦、人を遣はして、天皇に申し奉らしめけるは、「天神の御子(饒速日命)、天磐船に乘りて天降り給ひ、吾が方に留まり御座しまします。御號を櫛玉饒速日命と曰す。此の命、吾が妹・御炊屋媛を娶りて、兒息(みこ)・可美眞手命あり。吾は、此の饒速日命を君とし事へ奉る。思ふに、天神の御子、兩種(ふたはしら)在るべき謂れ無し。奈何にぞ、更に天神の御子と稱(なの)り來りて、吾が國を奪はむとはし給へるぞ」と申さしめければ、天皇、之に答へて、「天神の御子、亦た多くあり。汝が君とする所、實に天神の御子ならむには、必ず表(しるし)物あるべし。若しあらば、其れを示(み)せよ」と云はしめ給ふ。長髓彦、直ちに饒速日命の、天羽羽矢一隻と歩靱(かちゆぎ)とを取りて、天皇に示せ奉る。天皇、之を御覽はして、「此は、眞の物なり」と宣はせ給ひ、天皇も、また御親ら佩かせ給へる、天羽羽矢一隻と歩靱とを出して、長髓彦に示せ給ひしに、長髓彦、其の天つ表の物を見奉りて、益々踧踖(おぢかしこ)まりしかど、勢ひ今更に止まることを得ずて、猶ほ心を改めざりけり。然れども饒速日命は、天下は、本より皇祖天神の皇孫尊に與へ給ひし所なるを、能く知り給へるのみならず、長髓彦の稟性(うまれつき)、大義を説き名分を諭すも、其の效無きを認め、畢ひに長髓彦を誅戮し、其の兵、衆を帥ゐて、皈順し奉られぬ。天皇は、固より饒速日命は、天より降れる神なることを知し食し給ひしに、果して忠效を立てられしかば、則ち褒めて寵(いつく)しみ給ひしとぞ[專ら『神武天皇紀』に因りて記す]。

 此の饒速日命は、則ち物部氏の祖神なり。中洲、平ぐの後、其の子・可美眞手命に、皇祖天神より授かり給ひし、天璽の十種の瑞寶を授け、鎭魂の法をも傳へて、永く天皇に事へ奉らしめ、自らは此の世を去りて、遂に其の終る所を知らずなりしとかや。

 

斯くて饒速日命を以て、此の『(本朝)神仙記傳』の卷首に擧げたるは、本傳に載せたる如く、此の命は、皇孫・瓊々杵尊の御兄に坐(おは)しまして、皇孫尊の、天下に君臨し給ひし後、更に天降り給ひしかど、彼の皇祖天神より授かり給へる鎭魂の法を修めて、長生し給ひ、皇孫尊の御皇統は、御四代を歴させられて、神武天皇の御世に至らせ給ふまでも生き存(ながら)へて御はし座しゝは、謂ゆる神仙に非ずして、何ぞ。且つ其の終る所の詳かならざるも、亦た神仙たるを證するに足るべし。然るに『天孫本紀』に、「饒速日命、既に神捐去(かみさ)り坐して、天に復り上らざる時、高皇産靈尊、哀しみ泣き給ひて、即ち速飄命に命(おほ)せて、其の屍體を天上に上さむとして、七日七夜の間、遊樂(あそ)び哀しみ泣きて、天上に斂め竟へぬ」と云へること見えたれど、此は、『神代卷』に載せられたる、天稚彦が死したる時、其の父及び妻子等が、天より降り來りて、其の柩を持つて、天上に上り去りたる事蹟を混ひ記したること、疑ひ無ければ、此れを採らず。また同書には、饒速日命は、神武天皇御東征の前に、世を去り給ひて、當昔(そのかみ)は、既に可美眞手命の代と成り居りしものゝ如く記して、長髓彦を誅して歸順ありし事蹟も、皆な可美眞手命のせられし事の如く記したれど、此は、『日本書紀』・『古事記』・『古語拾遺』を始め、其の他、正しき書には、孰れも饒速日命の成し給ひし事蹟に擧げざるは無くして、此れに合はざれば、此れ亦た採らず。思ふに、饒速日命は、神武天皇、中洲を御平定の後、猶ほ暫く顯世に留まり給ひて、可美眞手命に、十種の瑞寶、及び此の十種の瑞寶を用ひて、鎭魂を行ふ法をも授け給ひ、其れより徐々に去り給へるものなるべし。

 因みに云ふ、皇孫尊の降臨の時、天位の天璽として、皇祖天神の授け給ひしは、神鏡・神劔・神璽の三種にして、此の三種の器に含め給へる意味の深長なることは、今更に云ふを待たざる所なるが、饒速日命に授け給ひしは、十種なれども、要するに前の三種を細かに別けて授け給ひしに外ならず。其は先づ瀛都鏡・邊都鏡は、二種ともに鏡に外ならず、又た生玉・死反玉・足玉・道反玉の四種は、皆な玉に歸すべきものなり。八握劔・蛇比禮・蜂比禮・品物比禮の四種も、亦た劔の一種に歸す。然れば鏡を二種に別かち、玉と劔とは、各々四種に別かちて、十種とは爲し給ひしものなり。而して此の三種と十種とは、即ち鎭魂の祕旨を含め給へるものなり。長生の道を修むるの要妙たるものなり。道家の修眞祕訣と、相一致するものなり。然れども其の説長ければ、爰に盡し難し。其は、猶ほ次々の因みある所に述ぶべし。