カラス天狗が鼻の高い天狗になったのは室町時代。足利何代目かの将軍の夢枕に、牛若丸に兵法を教えた天狗・鞍馬山魔王大僧正坊があらわれ、「自分の姿を日本画の狩野派2代目・元信に描かせて、鞍馬寺に安置するように」とのご神託がありました。将軍が元信に命じると、元信も同じ夢を見たという。元信は早速制作に取りかかりましたがいかんせん手本がありません。筆を待ったまま困りに困っていますと、天上からクモが2匹ツーッと降りてきました。そして糸を吐きながら画紙の上をはい回ります。元信がその糸を筆でなぞってみると、頭の中で思っていたとおりの山伏姿の鼻の高い立派な天狗の絵が描けたというのです。

ただ、もちろんこの説を否定する本も多く、元信に依頼した人は別人だとするものや、天狗像を創り出したのは京大工の祖父だなどとする本などもあります。また仏教のカルラ王の姿や面相もよく似ており、その他、雅楽の「湖徳面」もそっくりなことから、大天狗のモデル説はかなり異説がありますが。こうしてできあがった像は、いままでの馬糞トビ姿の醜いカラス天狗とは比べものにならない大天狗像。当然世間の人気者になります。いまでは天狗といえば山伏姿の鼻高天狗をいうようになっています。

 

それに対して狩野元信の山伏姿の鼻高大天狗に乗り換えず、もとのカラス天狗のままで押し通ししているのが長野県の飯縄山系の天狗たちです。長野県飯縄山の天狗・飯網三郎(いづなのさぶろう)は、伊都奈三郎とも書き、飯縄系の天狗の総元締め。この系列の天狗の姿はほかの天狗と異なり、荼吉尼天(だきにてん)の姿をしています。飯網三郎の前身は、泰澄の弟子でいつも寝そべっていたその名も臥行者(ふしぎょうじゃ)か、またはその系統の行者だろうといわれています。飯縄山に登って鳥居をくぐると山頂で、その直下にある祠の中には2匹のキツネに乗った荼吉尼天の石像があります。これがまさに飯網三郎天狗像です。

 

高雄山の歴史は、山頂の直下にある真言宗智山派別格本山薬王院有喜寺(たかおさんやくおういんゆうきじ)の寺伝の縁起文によれば、「聖武天皇の天平16年(744・奈良時代)行基菩薩勅命を奉じて開山せり」とあり、奈良時代、聖武天皇の勅願により行基菩薩がみずから薬師如来を刻み、諸人救済のため、高尾山の山上に仏像を安置、本尊にして開山したとされています。その後600年たった、永和年間(1375~79・南北朝時代)京都醍醐寺の僧・俊源大徳(沙門俊源大徳・さもんしゅんげんたいとく)がこの山にきて中興開山、「醍醐山内無量寿院松橋」の法を伝えたといいます。社伝では「勇猛精進の師」などと呼ばれ、山中の琵琶滝、蛇滝で修行、炊ぎ谷(かしぎ谷)で不動明王を勧請、10万枚の護摩を修し、疲れ果てて仮眠の際、夢で飯縄権現を感得し、その像を権現堂にまつって本尊とし、修験道の道場としたのだそうです。

 

俊源の夢にあらわれた飯縄権現の姿は、顔は人でトビのようにくちばしをとがらし、頭に蒼いヘビをのせ、法衣を着て背中に火炎が燃えており、両わきから翼を広げ、右手に宝剣、左手に索縄を持った、白狐にまたがった荼吉尼天の姿。俊源に向かい、余はアバラ(不動)明王である。

長い間世の中が多難で、諸々の魔怪が横行して世を騒がすので、雷を落として降伏させるために奇瑞をあらわした。これを飯縄の神女という。山に祭るがよろしいとのおつげがあった。