大石凝真素美という名の由来について「伝」は触れていない。他の資料によると、自分は稗田阿礼(古事記編纂者の一人)の生まれ変わりであり、霊統としては、山本秀道は玉祖命、自分は石凝姥神(どちらも天の岩戸開きで活躍した神)の系統であることを覚ったのだという。真素美は「真素美の鏡」に由来する。
天保3年(1832年)11月、伊賀国上野に生まれる。幼名は望月春雄。父は望月登で医業。母は川村文。祖父の幸智は中村孝道に仕えて言霊学を究めた。(「大講」では、若い頃の名は「平岩大助」)
遠祖は日臣斎主命。大伴氏の後裔。世々天朝に仕えて来たが、大友皇子の乱(壬申の乱)に殉じ、以来隠者となり、望月を姓として伊賀・近江等に転住して来たという。
望月春雄は元服して、大輔広矛と改名する。父や伯父、叔父に医を学ぶ。しかし医で生涯を終えるつもりはなかった。足代弘訓(あじろ ひろのり)の門に入り国学を学ぶ。
嘉永6年(1853年)(22歳)黒船が浦賀に来航すると、望月は幕府の無能を歎き、神風を起こす大神人を探し求め、妻子を連れて旅に出る。美濃国不破郡宮代村に住む山伏の山本秀道が大神人との噂を聞く。大和国を巡遊する。
文久3年12月(1864年)(32歳)学習院で皇学の蘊蓄を披露する。
天誅組で皇国の道を説く。
慶応末年(1867~8年?)(36歳)山本秀道の家に身を寄せて師事し、神道の蘊奥を学ぶ。
明治3年(1870年)(39歳)山本門下生の木村一助と共に、濃尾国各部郡の神官たちに、有名無実の神道を廃して真神道を吹聴せよと説き、騒ぎとなる。警察は治安を害するとして二人を捕まえ投獄する。
疑いが解けて出獄した後、明治6年(1873年)9月、太祖の姓に復り、大石凝真素美と改名する。再び山本家に寄寓して神道の闡明に尽くす。木村一助は太玉太観(ふとだまふとみ)と改名する。
明治8年(1875年)秋(44歳)太玉太観と東上し、山岡鉄太郎を訪ねる。9年4月21日、誓火(うけひ)の霊験を実験するが太玉太観は失敗し、片手が焦げて失ってしまう。大石凝は帰途に就き、近江国甲賀郡毛牧村にて謹慎する。
再び大和国を巡遊する(大和三山に関する話は「古事記神秘之正説」に詳しい)。吉野山で金鉱を探す。
大和からの帰路、近江国野州の親戚を訪れる。海路から蒲生郡八幡に行こうとして、沖の島の南面を過ぎる時、水面に大きな波紋を見る(水茎文字。八幡に上陸後、陸路を沖の島の方面へ向かうと、小さな丘があった(水茎の岡)。その丘に登って琵琶湖を見渡すと、大波紋を一望できた。それは大石凝が修養した言霊学の音韻文字であった。→詳細は「水茎文字」
その後、五男神誕生の地である阿賀山と吾勝山を参拝する。
明治11~2年(1878~9年)、再び山本秀道宅に寄寓し、天津金木と日本言霊を研鑽する。「日本言霊は先生独特の大研鑽にして、其の基く所の原本等は多少これありしなるべけれど、七十五声の排列、其の神機の妙用等は慥に先人未発の大発見にして(略)古今独歩の感あり」「天津金木は(略)開闢以来嘗て未だ世に知られざるの極法なり」。
明治23年(1890年)7月(59歳)「弥勒出現成就経」を著す。
明治23年(1890年)伊勢神宮で種々の改革が行われ、「お見比べ」の秘事(二十年毎の式年遷宮の際、旧殿と新殿の宝物を見比べて相違ないことを確認する儀式)が廃されて、新殿建築と同時に旧殿が壊されることになった。大石凝はそのことを驚き、神威を冒涜する罪は必ず至るとして、「神宮の正殿は炎上せむ」と予言する。(大石凝はこの時、伊勢国鈴鹿郡神辺村字木下に住んでいた)
明治31年(1898年)実際に伊勢神宮が炎上する。それ以前にも他の予言が成就したことがあり、世人を驚かすと同時に、大石凝が火をつけたのではないかと疑われた。
明治31年(1898年)7月18日(67歳)、近江の吾勝山に詣でた時、警察が逮捕しに現れる。容疑は詐偽。大石凝は同行を拒否し、山上の家に禁足し、8月10日まで24日間、留まった。その間、宮代村の山本秀道の令息・一治が警察に弁明したため、事件は解決した。山上で禁足中に書いた著述を後に大成したものが「天地茁廴貫きの極典」である。
明治40年(1907年)秋(76歳)「真仮名附法華経序書」を携えて、名古屋市七曲町の唯一仏教団・清水梁山を訪ねる。
明治41年(1908年)6月初旬、唯一仏教団に寄寓していた水谷清は、夢のお告げにより神辺村木下を訪れて大石凝に面会し、天津金木の運用を授けられて、数日滞在の後帰国する。
同年10月、大石凝は唯一仏教団を再訪する。その後、名古屋の水野満年の宅に寄寓し、古典の研鑽や著述に従事する。
明治44年(1911年)末(80歳)より体調がすぐれず。
明治45年(1912年)2月26日、郷里に帰る。
大正2年(1913年)4月11日、帰幽。82歳。
墓は伊勢国鈴鹿郡神辺村木下にある。
