川面が禊行を復興できた背景には、彼の神秘的体験があったと説明されているが、ある古書の存在から説明することもできる。平田篤胤の『玉襷』には、彼が京都で貴重な古書を発見したときのことが書かれている。篤胤が値を聞くと、五十金だという。高額だが是非とも手に入れたいと思った篤胤は、そのまま宿に帰り、懸命に金の工面をして店に引き返した。ところが、時すでに遅し。タッチの差で筑紫の人が買っていったという。この筑紫の人こそ、川面の祖父だったのである。その古書には、奈良朝以前の日本神道の秘事が書かれていたとされている。

 

川面は文久二(一八六二)年四月、大分県宇佐郡両川村小坂、宇佐神宮の近くで生まれた。父川面仁左衛門は大百姓で、造酒業、呉服業も営んでいた。母八津子は信仰篤く信義を重んじる賢婦人で「凡児」という名はこの非凡な母に対しての称とされる。

 川面は十六から十八歳にかけて、豊後の国に名高かった涵養塾で漢学を修めた。明治十二年三月に塾を辞めると、郷里の馬城山に入山し修行したという。馬城山は宇佐神宮の裏に位置し、古来宇佐神宮の本体とされてきた霊山である。この修行の際に川面は仙童から奈良朝以前の禊流の秘事を直授されたとも伝えられる。

 

豊前国(現・大分県宇佐郡両川村小坂)に、酒造業を営む家の次男として生まれる。神職をしていた父の義弟の溝口千秋に教育のため預けられる。千秋は宇佐神社に参詣する全国各地の神道家や勤王の志士と交流があり、川面はその中のひとり、豊前の儒者・恒遠翁に漢籍を学ぶ。13歳のときに近くの霊山・馬城山(まきさん)に籠り、童仙・蓮池貞澄から仙道を学ぶ。

 

九州の宇佐には、安曇氏や宗像氏などの海洋民族が集住しておりました。やがて、その辺縁部に秦氏の一族である辛嶋氏が入植し、宇佐八幡宮弥勒寺を建造しました。秦氏は中央アジア出自の渡来民で、畑作、養蚕、機織、銅の採掘、土木、鍛冶など、当時の最先端技術を大陸から日本にもたらしました。 大和朝廷は、これらの技術を持つ秦氏を、山背の地(今の京都)に招聘したのです。

 

そして、秦氏の長である秦河勝が、山背国の太秦に本拠を構え、桂川や加茂川の治水工事を行うとともに、広隆寺や伏見稲荷などの寺社を建立しています。さらに、河勝は聖徳太子に仕え、強力な支持勢力となっています。また、後に聖武天皇が東大寺の大仏を鋳造するときには、九州の香春や宇佐の秦氏が銅の供給元として大活躍しました。

 

彼は、幼少の頃から道を求める気持ちが強く、少年の頃、宇佐八幡宮弥勒寺の背後に聳える神気のこもる霊山の御許山(馬城峯)に、友達三人を誘って山中の修行に挑んだことがありました。 友達は、蛇や猪の出没する山の恐ろしさに耐え切れず、早々に退散しましたが、彼だけは一人残って21日間の行を続けました。「天の鳥船運動」と「振魂の行」を続けながら、心魂を練って行ったのです。

 

21日の行を終えて、帰ろうとしたとき、杉木立の間から白い猪にまたがった小柄な仙人がふいに顕れて、「ご苦労だったな」とねぎらってくれたそうです。名前を聞くと、仙人は、「蓮池貞澄」と名乗りました。仙名は「童仙」とのことです。童子のように血色が良く、不思議に思って年齢を尋ねると、679歳と称するのでした。

 

仙人は、ずっと肉身のまま長寿を保っているのか、それとも仙人の霊体が一時的に身体化して凡児の前に出現したのか、よくわかりませんでした。或いは、凡児の霊眼が開けて、仙人の霊体と交信したのかもしれません。深い事情はわかりませんが、この不思議な出会いから約3年の間、凡児はしばしば御許山に登っては、蓮池仙人から親しく指導を受け、禊ぎの手法を含む秘密の神伝を授けられたのでした。

 

川面は、神秘的な出会いを振り返り、世界教立教の動機をこう記しています。「家に秘伝あるとともに、また八幡大神霊顕の根本勝地たる馬城山中において、その人に会い、禊流の神伝、全く愚かなる身に伝わるの喜びあるに至る。これ、我がその愚を顧みず、猛然決起し、世界に比類なき神代思想、神代行事を鼓吹、唱道するゆえんなりとす」。

 

大正14年4月、オーストラリアの心霊治療家のフランク ハイエット氏が来日し、川面を訪問しました。凡児は、ハイエットに会うなり、前生を透視し、「貴殿は、プレアデス星団の緑の星に生まれたことがある。当時、私も一緒に住んでいた」と伝えました。これを聞いて、ハイエットは驚愕し、「実は、自分も、緑の星から下ったものであることを啓示によって知り、これこのとおり詩を書いている」と言って、持参したカバンの中から自作の詩を取り出すのでした。