11代垂仁天皇(在位、前29-後70)~21代雄略天皇(在位456-479)時代まで500歳。倭姫命は、垂仁天皇の皇女なり。御母は丹波道主王の女日葉酸媛命なり。同天皇の二十五年三月、倭姫命を以て、豊耜入姫命に代りて、天照大御神を斎き奉らしめ給ふ。然れば、天照大御神の、五十鈴宮に、御鎮座在せられし崇神天皇の二十五年より、豊受大神の、山田原宮に御鎮座在せられし、雄略天皇の二十二年までは、凡そ四百八十三年なる。倭姫命は、其の間生存へて坐ましけるを、猶大御神の御杖代と成せ給ひし時を、仮りに二十歳許の御年にて在せられしとするも、五百歳を超えて御座し、且つ其の終に臨ませ給ひても尾上山の峰に登りまして、御行方なく陰れ給ふとしも伝ふるを思へば、所謂神仙の道を得て御座まして全く上昇したまえること、また何ぞ疑ひ奉らむ。

 

五十八年[辛巳]、倭弥和乃御室嶺上宮(美和之御諸宮)に遷り、二年間奉斎。この時、豊鋤入姫命は、「吾、日足りぬ」といひ、姪の倭比売命に事を預け、御杖代と定めた。これより倭姫命が、天照大神を奉戴して行幸した〔相殿神は天児屋命 太玉命。御戸開闢神は天手力男神 拷幡姫命。御門神は 豊石窓 櫛石窓命。並びに五部伴神、相副って仕へ奉る〕。
 六十年[癸未]、大和国宇多秋宮(宇太阿貴宮)に遷り、四年間奉斎。この時、倭国造は、采女 香刀比売、地口・御田を進った。大神が倭姫命の夢に現はれ「高天の原に坐して吾が見し国に、吾を坐せ奉れ」と諭し教へた。倭姫命はここより東に向って乞ひ、うけひして言ふに、「我が心ざして往く処、吉きこと有れば、未嫁夫童女に相(逢)へ」と祈祷して幸行した。
 すると佐々波多が門(菟田筏幡)に、童女が現はれ参上したので、「汝は誰そ」と問ふと、「やつかれは天見通命の孫、八佐加支刀部〔一名は伊己呂比命〕が児、宇太乃大称奈」と申上げた。
 また「御共に従ひて仕へ奉らむや」と問へば「仕へ奉らむ」と申上げた。そして御共に従って仕へ奉る童女を大物忌と定めて、天の磐戸のを領け賜はって、黒き心を無くして、丹き心を以ちて、清潔く斎慎み、左の物を右に移さず、右の物を左に移さずして、左を左とし、右を右とし、左に帰り右に廻る事も万事違ふ事なくして、太神に仕へ奉った。を元とし、本を本にする所縁である。また弟大荒命も同じく仕へ奉った。宇多秋宮より幸行して、佐々波多宮に坐した。


 六十四年[丁亥]、伊賀国隠市守宮に遷幸した。二年間奉斎〔伊賀国は、天武天皇の庚辰歳七月に伊勢国の四郡を割いて彼国を立てた〕。

 六十六年[己丑]、同国の穴穂宮に遷り、四年間奉斎。伊賀国造は、箆山葛、山戸、並びに地口・御田を進った。鮎(細鱗魚)取る淵・梁作る瀬など、朝御饌・夕御饌を供へ進った。

 

 

第十代・崇神天皇の御世を迎える。崇神天皇の六年、国内には疫病が流行り多数の民が失われる。百姓は流離(さすら)い、反逆する者も出て来て、徳政を以ってしても治め難く、神祇への請願が行なわれる。それまで、宮中には天照大神と倭大國魂神の二柱の神が祀られていたが、その神威の勢いを恐れ畏み、“共に住みたまふに安からず”と、天照大神の御霊代は皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託され、大和の笠縫邑(かさぬひのむら)で祀られることとなる。そこには堅固な石の“磯堅城神籬(しきひもろぎ)”が造られる。一方の大國魂神(おほくにたまのかみ)は、同じく皇女・渟名城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)によって祀られる。ここでそれまでの歴代天皇による同床共殿とする奉斎の形態は改められ、皇居と神居は別となり、その奉斎は未婚の皇女に託される。さらに、それまで共に祀られて来ていた天つ神の天照大神と、国つ神の大國魂神(おほくにたまのかみ)は分離される。天照大神には、さきの豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が御杖代(みつえしろ)(斎宮の通称。神に奉仕し、神の杖ともなる者の意)として仕えるが、やがて次の第十一代・垂仁天皇の二十五年、垂仁天皇の皇女・倭姫命と代られる。斎宮となった倭姫命は、御杖代として天照大神の鎮め奉る処を求め、笠縫の地より巡幸の途に着く。紀に謂う。“爰(ここ)に倭姫命、大神を鎮坐(しづめま)させむ處を求(ま)ぎて、菟田(うだ)の筱幡(さきはた)に詣(いた)る。更(また)還(かへ)りて近江國に入り、東(ひむがしのかた)美濃を廻りて伊勢國に到りたまふ。”このとき、天照大神からの誨(おし)えがあり、“この國に居(を)らむと欲(おも)ふ”との仰せられる。そして誨えのとおり祠(やしろ)を建て、五十鈴の川上に斎宮を設け磯宮(いそのみや)と名づけるが、ここは天照大神が初めて天降った処だと謂う。ここに伊勢の神宮の創建をみる。