長南年惠女は明治時代の日本が生んだ稀代の大霊媒であり、同時に又珍無類の人間の標本でもありました。彼女は文字どおり絶食絶飲の状態を十四ヶ年間もつづけました。彼女には大小便などの生理作用は全くなく、又その生涯にただ一度の月経もありませんでした彼女が数分間神に祈願すると何十本もの壜の中に一時に霊水が充満するのでした。彼女は五十歳で死にましたが、その時尚二十歳位の若々しい容貌の所有者でした。彼女は何の教養もないのに、一たん入神状態に入ると書に画に非凡の手腕を発揮しました。

 

 彼女は詐術の嫌疑で何度か投獄されましたが、奇蹟的現象は監獄の内部でも依然として続出しました。又裁判官の眼前で壜の中に霊薬を引き寄せたこともありました。

 

 彼女の半生に起った主なる事件のみを掻いつまんで見ると大体右のような事になりますが、普通の常識で考えたら、到底そんな莫迦ばか莫迦ばかしい事実がありそうには思われません。『冗談仰っしゃつてはこまります。御維新後の日本にそんなバケモノが居いてたまりますか!』多くの人はそう言われるでしょう。所が、一々証拠物件によりて精査して行くと其所そこに一点の法螺も掛値もない正真正銘の事実なのだから驚嘆されるのであります。

 

 私は不幸にして彼女の生時において直接相見るの機会を有しませんでした。彼女の能力が最高潮に達したのはけだし明治三十二三年から同四十年頃のようですが、当時の私にはまだ少しも心霊問題に触れるべき機縁が熟せず、涼しい顔をして英文学などをひねくっていました。今日からかえりみると残念至極に堪たえない次第であります。明治時代に現われた霊能力者は他にもいろいろありますが、私が今日特に相見ることの機会がなかったのを遺憾に感ずるのは実に長南年惠その人であります。

 が、幸にして私は彼女の実弟長南雄吉氏に面会して、その人の口から詳しい話をきき、又その人の秘蔵してあった参考資料や証拠物件を閲覧するの機会を獲ました。比較的纒ったこの記事が作製されたのは実にその賜であります。

 

忘れもせぬ私達の会合したのは実に大正十二年六月二十二日午前の事でした。当時氏は大阪市天王寺茶臼町三七〇番地に閑居して居おられましたが、病臥中にもかかわらず歓んで私を迎え、初対面の挨拶もそこそこに、直ちに問題の中心――同氏の姉年惠女の事蹟――に突入しました。外にはしばしの小止みもなくしとどに降りしきる雨の音、内には病後の衰弱をも打忘れ、精神をこめて亡姉半生の奇蹟を物語る老紳士、いつしかあたりには俗悪なる現代とかけ離れた神秘的気分が豊かに漲みなぎりました。当時の光景は今も尚ありありと私の眼前に浮び出でます。が、惜しいことにこの長南雄吉氏も最早もはや現世の人ではなくなりました。今日氏の談話を整理発表するにつけて殊ことに感慨が深いものがあります。(昭和五年七月十日しるす)

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