小説家佐藤愛子さんの『私の遺言』(新潮45に連載後、二〇〇二年一〇月、新潮社刊)に相曽誠治氏が紹介されている。

 

1910年、静岡県の富士山麓に生まれた相曽は、幼少のころから大山積神の寵愛を受けた。戦前の無神論的な皇国史観に疑問を感じた著者は、独りで神道霊学や言霊学、ユダヤ問題などの研究に没頭する。以降、鎮魂、サニワなども修め、大本教などの新興宗教の霊的背景に舌鋒鋭く切り込む。が、当時は同調する人は少なく、まさにいばらの道だった。
 昭和天皇の崩御(ほうぎょ)のあたりから世間の風向きが変わり、相曽の神道学説は脚光を浴びるようになる。相曽が力説したのは太陽信仰(正確には日神崇拝=にっしんすうはい)と天孫降臨だった。日拝鎮魂法と言霊学の深さも他の神道家の追随を許さない。更にはフトマニの図説も圧巻である。

 

『私の遺言』より

相曽氏の語り口は常に慎ましく謙虚ながら、確信に満ちていることがよく分かる。その訳がある所でさりげなく語られている。土佐の神人宮地水位(一八五二~一九〇四)など霊格の高い神人や神の直接の教えを受けていると言うのである。相曽誠治氏とはいったいどういう人物なのだろう? 私は考え込まずにはいられなかった。鶴田医師に問うと、「私は今まであんなに無私の、清らかな魂を持った人に会ったことがありません。どんな人に対しても、どんな時でも同じ表情、変らない態度。あれは自然体というのでしょうか。しかしその自然体は我々俗人の自然体とは次元が違うように思われますねえ」という。その観察に私も全く同感である。氏の前に出ると、自分にはなかった「つつしみ深さ」が出て来て、何を訓戒されたわけでもないのに反省や悔悟が生まれてくることは確かだ。

 そこで、佐藤愛子さんは相曽氏に直接聞いてみた。「失礼ですが、先生は、神界からおいでになった方ではございませんか」
 すると、相曽氏は「驚きも笑いもせず、極めて冷静に頷いて」こう答えたのだった。「私はことむけのみことと申します」 やっぱり……と心に頷いていた。「ことむけのみこと」とは多分「言向命」と書くのであろう。即ち力で従わせるのではなく、言葉をもって導くという意味であろう。なるほど相曽誠治氏自身がある使命をもって神界から人間界に降って生まれた神ないしは神人だったのである。その相曽氏が確信に満ちて語る眼目が「大嘗祭(おほにあへまつり)」の意義についてである。この祭儀は「践祚大嘗祭」ともいうように、天皇陛下の御即位式には違いないが、その本質は天地・地球・天体の運行の恙なきを祈ることにあると相曽氏は説く。「おほに」とは偉大なる土つまり大地・地球・天体であり、それを「あへる」とは、それら天体の運行の「和順」なることを祈るという意味なのである。天皇陛下は皇祖皇宗の神々の指導の下でかかる神業を行なって我々を守って下さっているのだ。代々次々の陛下の真のご公務とはこの神業にあり、このような天皇陛下を戴く日本は、まさに神国と言うほかない。われわれ日本人は、紛れもなく神の子なのであり、神の子の使命がある。