寅吉(天狗小僧、仙童)の仙境往還の話は、文政3年(1830)に江戸で大変評判になりました。はじめ山崎美成(よししげ)が寅吉との問答を『平児代答』として著し、その後、篤胤が大部の『仙境異聞』にまとめています。表紙の絵は、もともと山崎の著書にあったものを篤胤が『仙境異聞』に引用したものです。
寅吉と篤胤らの問答は、仙境の様子だけではなく、地震の原因や、宇宙のことなど多岐にわたっています。当時の知識人が知りたかった様々な疑問を次々に寅吉に尋ねていたのでした。これらに即答する寅吉が機知に富んだ少年であったことは確かなことでしょう。
篤胤は天保14年(1843)に秋田で死去しますが、その後の寅吉はどうなったでしょうか。例えば、篤胤没後の津軽門人鶴屋有節(ありよ)が寅吉のことを塾側に問い合わせています。それに対して、安政6年(1859)10月21日付の書簡で2代目の平田銕胤が、「寡欲にして酒を好ミ、人愛を失はさる所、凡人ニハ無之候」と回答しています。
さらに、信濃国の平田門人北原稲雄の質問に対して、万延元年(1860)8月3日付書簡で、銕胤は次のように返答しています。高山嘉津間(寅吉)は今も存生で下総国香取郡笹川の辺りに住んで医者をしているが、「大抵普通之俗」に近くなっているとのことです。このように、寅吉は篤胤没後の門人たちにとって、すでに「伝説の人」であったようです。
平成13年1月、笠間市(旧・西茨城郡岩間町)の愛宕山山頂にある愛宕神社への石段の登り口に、地元の有志によって「篤胤歌碑」が建立されました。歌は、文政3年10月篤胤から山に帰る寅吉に贈られたもので、次の通りです。
「寅吉が山にし入らば幽世(かくりよ)の、知らえぬ道を誰にか問はむ。」
「いく度も千里の山よありかよひ、言(こと)をしへてよ寅吉の子や。」
「神習ふわが万齢(よろずよ)を祈りたべと、山人たちに言伝(ことづて)をせよ。」
「万齢を祈り給はむ礼代(いやしろ)は、我が身のほどに月ごとにせむ。」
「神の道に惜しくこそあれ然(さ)もなくば、さしも命のをしけくもなし。」