この事件を読み込むには、当時の日本の社会情勢から把握しておく必要がある。平将門の生地は現在の群馬県利根川付近だが、当時この一帯、坂東平野というのは京の統治の及ばない地域だった。「あずまえびす」の名の由来である。これを屈服させるため、西方政権はずいぶん乱暴な政策を行った。当時、東国の果てを京の藤原政権の統治下に置くには、そうとう強引な手段が必要だった。しかしこれは、京から見れば政策に従わない蛮族を罰する行為だが、「あずまびと」側から見れば、完全な他国侵略である。その過程で筆舌に尽くし難い大量殺戮が行われたことは、「常陸国風土記」にも詳しい。将門は支配階級の生まれだが、14、5才で父親を亡くし、母を含めて10人近い家族を養う立場にあった。このことが将門を、進歩的な思想と反骨精神を持った青年に育てあげることとなった。当時の支配階級の私産とは、厳しい奴隷制度の上に築いたものだったが、将門は奴隷解放政策などに踏み切ったために、伯父国香との対立を強めていく。この争いが国香殺害事件(承平の乱)へと発展するのだが、その実績から見ると、将門は地元では民衆のヒーローとでもいうべき存在であった。まさに、京の一方的圧政に反撥を感じる人々の、反逆精神の権化ともいうべき存在だったのである。実際その人気は根強く、現代でも地元では、「将門さま」にご縁をつけようと、平将門ゆかりの地を名乗るのに非常に熱心である。新勝寺の僧がご本尊にハクをつけようとして、「ウチの不動明王さまは、関東の逆賊を降伏なされた霊験あらたかなご本尊だ」といくら宣伝しても、庶民はよく知っている。

 

異境備忘録(山人天狗界②) | ふしぎなはなし (ameblo.jp)