「明治九年一月十五日夜、日向国に至りて御禊祓を利仙君に受く。帰る時、利仙君に問ふ、「杉山僧正君(これは清定君の事)は寅吉を愛でし給ふ事あり、仙境異聞と申す書に見え候が、実に候や」。答給ふに、「清定君の神分と云ふ官に居(おり)たりし時、冥罪を得て人間(じんかん)に出たる時、従者に致せし者なり。」『幽界記』

「杉山僧正が川丹先生の命(めい)を受けて東京の平川町と云ふ所を焼きたる事あり。これには故ある事なるが、その焼く状(さま)は種々ありて、血を落とすも羽根を落とすもある中に、空より大指の爪先より血を出して火となし落としけるに、その下俄(にわ)かに大火事となりたるに、天狗等数々飛び来りて、鳶に化して火にあたりし事あり。奇妙なる事なり。」『異境備忘録』

 

高山寅吉を岩間山仙境に伴った杉山僧正は、杉山清定君が「神分」という官位に在られた時、冥罪を得て人間界に出られた事情があり、尊貴な神仙級になると従属の仙官も数多く、ある場合には上仙として種々監督上の責任を取られることがあり得ることは現界の事情と同様でしょう。

 

この種の罪の種類によっては、御本身はそのまま現職に留まり給い、その分魂が謫仙として人間界に出られ、或いは山人界の一僧正として一つの仙境を主宰されるようなこともあり、幽界のこうした消息は、簡単に人間的俗識で思量することを許されない複雑性を持っています。 

 

神集岳の官属である川丹先生が杉山清定君の御前を畏(かしこ)み謹んで拝し、また謫仙としての杉山僧正が、一山人僧正として川丹先生の命を受けて民家を焼き払うなどといったことも格別矛盾することではなく、このようなことは、神仙界においては極めてはっきりした規律の下(もと)に行われているようで、人間的俗情で矛盾を感じるような環境が全く矛盾なく統制されているところがいわゆる天機たる所以(ゆえん)でしょう。
 また、清浄利仙君によれば「嘉津間(かつま、寅吉のこと)が杉山山人の使いとなり、清玉(幸安)が赤山の仙使となったのも皆訳のあることである」とのことですが、杉山僧正と高山寅吉は太古の昔から深い縁で結ばれていることが分かります。

 

さらに杉山清定君が、在世中に杉山僧正を師仙と仰がれた平田篤胤先生と水位先生との対面の機会を与えておられることも一奇で、平田先生が在世中、「日々津高根王命(ひびつたかねのみこのみこと)」と称えて毎朝神拝を怠らなかった神仙と杉山清定君の御本体とは無関係ではなく、この尊神の正式な御神名は天之息志留日日津高根火明魂之王命(あめのおきしるひびつたかねほあかるたまのみこのみこと)杉山清定全君と称することが水位先生によって伝えられています。

「明治九年十月一日、清定君に伴はれて神集岳に至る。この時平田先生に対面す。先生は今、大永宮の内、衆議官に居られ、御名を羽雪(うせつ)大霊寿真仙と申す。」『幽界記』

 平田先生は伊勢国・海幽山の神仙と成られていることが『幽界物語』中に見えますが、その御本身は神集岳の尊官であり、その分魂神が海幽山仙境を主宰されているものと拝察されます。
 なお、水位先生も初めて杉山清定君に拝謁された時のことは余程心に留められたようで、明治八年の六月十日(この時、水位先生は二十二歳の青春時代でした)、浦戸・龍王宮で川丹先生に御会いした時、そっと御伺いをされています。

「この時、余(よ)問ふ、「清定君に従ふ仙女に天癸(てんき)の穢ありや」、答ふ、「五百人の中、十八歳にて容貌を留むる女仙七十四人、これ月の穢なし。故に子もなし。その余の仙女は穢あり。その時は九日の間山を下りて平嘉の台と云ふ所に居る」と。」『幽界記』

 天癸とは女性の月経のことですが、高貴な神々の中に胎生神(男性神と女性神の合歓(ねむ)の道によって女性神の肉体から生まれる神)が坐すことからも、神集岳の女仙に月経があっても不思議なことではないでしょう。

 

ちなみに、杉山清定君の側近の仙真と女仙の間に御子が生まれたこともこの時の話に見えますが、寿真達の間ではいつも仁義道徳惟神(かんながら)の道に関する硬派な話ばかりでもなく、色々な噂話も上るようで、それが女仙達となると矢張り御女性だけに一層肩の凝らない朗らかな話題に御賑わいのことと拝察される次第です。