神農は姜水の岸(今の宝鶏市内)で生まれたと言われている古代神話中の太陽神です。神農は紀元前3245年に生まれ紀元前3080年に亡くなったとされています。炎帝自体は初代神農氏から代々継承されたため、380年続きました。炎帝神農氏と言えば初代炎帝を指します。神農は神農氏とも呼ばれ、実際に文字として記録に残っているのは戦国時代以降です。

 

神農氏は人々から”薬王”、”五穀王”、”五穀先帝”、”神農大帝”、”地皇”などと尊称されています。華夏の太古の三皇の一柱で、伝説中では農業と医薬の発明者で、沢山の草を片っ端から嘗めて調べたという、”神農嘗百草”の伝説もあります。人々に医療と農耕を教え、医薬と農業の神々を束ね、農作物を守り、人々を健康にし、病院や薬局では守護神とみなされています。

 

伝説では神農氏の容貌は奇怪であり、人の体に牛の首を持っており、三歳で野良仕事を覚え、成人すると身長は八尺七寸あり、龍の顔に大きな唇、体はやせ細っており、胴体を除き四肢と頭部は全て透明であったと言います。伝説では神農氏は百草を自らの体で毒の有無を調べたと言います。

 

毒を持っている草が薬草になるため、神農氏は毒のある草を求めました。神農氏が毒のある草を食べると内臓が黒くなり、どの草が体のどの部位に影響を与えるか容易に知ることができたと言います。このため、神農氏は数多くの毒草を食べたので体に毒が蓄積し、これにより亡くなりました。《帝王世紀》には、”神農氏は在位120年で八世が過ぎた。すなわち、帝承、帝臨、帝明、帝直、帝来、帝哀、帝榆罔の八帝である。”とあります。炎帝神農氏の後に七世代が炎帝を継承しました。炎帝神農氏は即ち龍神氏族で、龍祖中には、飛龍氏、潜龍氏、居龍氏、降龍氏、土龍氏、水龍氏、青龍氏、赤龍氏、白龍氏、黒龍氏及び黄龍氏があります。また、龍は中国の政治、文学、芸術、風習に深く溶け込んで信仰され、華夏民族(炎帝時代の後に中原で栄えた民族で周王朝を建国)の象徴になりました。

 

《竹書紀年》には、”炎帝神農氏、生まれは伊国であり、国を継いで伊耆氏とも言った。”宋の司馬光の《資治通監》、《四庫全書》、《帝王世紀纂要》では《竹書紀年》に沿った記述があり、伊川古に伊候国という国があったと言われており、安陽の殷墟の甲骨文字中にも”伊候”の記載があります。

初代の炎帝はこの伊で誕生したと伝えられています。《春秋緯・元命苞》に”少典妃安登が華陽に遊びに行くと神龍の首領がおり、神農を産んだ。人面であるが龍の顔で熱心に農作業を行ったので神農と言い、最初の天子となった。”これが古い昔から内容はほとんど変わらず広く知られている創成伝説です。華陽の華は花果山の華山を指しており、今では岳頂山や花山と呼ばれています。華陽は東南の方角にあり、神龍は即ち伊川竜頭溝の天然石龍を表しています。赤龍は全長九十数メートルで、高さ九メートル五十センチ、頭は西を、体は東を向いており、尾は山中に隠し、頭、髭、牙、眼、爪、翅、鱗は全て揃っています。頭は鰐のようで、鋭利な歯は上下のあごに並んで、張った口の中には長い舌があり、口の前には二本の長いひげが伸びています。下顎は平らで龍の顔をしており二本の角が頭上に生えていますが、一本は斜め上に、一本は斜め下に生えています。背中には巨大な翅があり、神龍首と呼ばれています。炎帝神農氏の母親は諸説ありますが、一説によると蟜氏の安登で、伊川の”常羊”で遊んでいる際にこの地にある石の神龍を見て感動し子供を産み、その子供が大きくなると徳のある人物に育ち、民に五穀の育て方を教えて農業を発展させ、百草を賞味し、中医中薬を創り、農業の神と称されるようになったために、神農氏と称されるようになったと推測されます。中国で、我々は炎黄(炎帝と黄帝)の子孫で、龍にまつわる民族である、とよく言われていますが、これはこの逸話から来ていると考えられます。また、司馬貞の《三皇本紀》には、”神農氏の姓は姜氏で火徳王と言われた。母は女登と言い、女娲氏の女である。神龍との間に生まれ、姜水で育ち歴山と号し、また烈山氏とも言った。”とあります。

 

神農氏が生きていたと言われている時代は石器時代の末期でほとんどの人々は狩猟採集生活を送っており、まだまだ農業が未発達の時代でした。遺跡からは当時の井戸が発掘されているので、徐々に水を利用して生産高が拡大していき、人口も増加傾向にあり、強い部族と弱い部族の差が出つつある時代でした。例えば、炎帝を敗北させ滅亡寸前にまで追い込んだ兵神蚩尤率いる九黎は青銅を鋳造できる技術を持っていたため、勢力を急拡大させることができたと考えられています。

この時代に農業を発明したのが神農氏だと言われています。《周易・系辞下第八》には、”木でスキなどの農具を作り、人々に農具の使い方を教え、人々のために益をもたらした。”とあります。また、《戦国策》には、神農氏が補遂国を攻撃した、とありこれは中国で最初に起こった戦争であるとも言えます。

 

《司馬貞・三皇本紀》には、”草木を賞味してその結果をまとめるとともに病気を治療した。五弦の琴を作り、市を開くことを民に教え、天下の物品を集めて交易を行った。人々が市から帰るときには欲しいものを手に入れて帰っていた。風沙の叛乱ではその徳を高めた。在位期間は百四十年で、神農氏以降の七帝は全て炎帝と称した。世代が流れて炎帝榆罔の代になると蚩尤の乱が起こった。鎮圧するどころか逆襲に合い大敗北を喫してしまったため、公孫軒轅(黄帝)に助けを求め、共に蚩尤を討伐した。”とあります。神農氏の子孫は初代以降八世代にもわたり炎帝を名乗っており、三百八十年間炎帝の時代は続きました。